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土井洋師 の ブルトマンの奇跡解釈 から

土井洋師(日本福音ルーテル教会牧師)の論攷「ブルトマンの奇跡解釈」(© 1999 Hiroshi Doi, All Rights Reserved.) から二つの節「序 課題」と「1. ブルトマンの奇跡物語解釈」を、抜粋・掲載についての許可を頂き、以下に記す。尚、この「ブルトマンの奇跡解釈」は、土井洋師が、1999年9月に南山大学に於いて行なわれた日本宗教学会の第58回学術大会で発表された論攷に加筆なさったものである。

追記:抜粋・掲載についての新たな許可を頂くことができたので、土井洋師の「ブルトマンの奇跡解釈」からもう一つの節「2. ブルトマンの奇跡解釈への問い」を、以下に記す。(2007年3月24日)

Thanks I am most grateful to Rev. Hiroshi Doi (Japan Evangelical Lutheran Church) for the permission to extract three sections from his article "Bultmann's Interpretation of Miracle" in Kyokai to Senkyo [Church and Missonary], Vol. V (Japan Evangelical Lutheran Church, the East Parish, 1999), which the reverend added new sentences to his paper that he had presented at the meeting of Nihon Shukyo Gakkai [The Japanese Association for Religious Studies] for reading research papers at Nanzan University in September, 1999, and place them on www.hdever.com.

土井洋「ブルトマンの奇跡解釈」(『教会と宣教』第5号、日本福音ルーテル教会 東教区・宣教ビジョンセンター、1999年)から

原文には含まれていない、私が付け加えた補足説明等は、ブラケット [ ] で囲み記述する。

序 課題

キリスト教会の現場にたずさわる一牧会者、伝道者として聖書の使信を解釈し、語ることは不可欠の作業である。日曜日毎に与えられる日課の中でも、福音書の解釈は極めて重要である。勿論、他の日課も福音書に劣らず重視されるべきことは言うまでもない。福音書には、非常に多くの奇跡物語が記述されている。それはある意味で福音書の特徴とさえ言える。奇跡物語は、現代人にとって躓きとさえなりかねない。にもかかわらず、敢えて多くの奇跡物語が記述されている理由はなんであろうか。この理由を解明することが本論文の主な目的である。この目的を解明するためには、数多くの方法があるであろう。例えば、福音書の奇跡物語を分類し、その特徴や意味などを抽出する方法である。あるいは、いろいろな学者の解釈を集めて比較し、その中から納得できる解釈を選びだす方法である。もう一つの方法は、今回筆者が採ろうとしている手がかりであるが、それはブルトマンの『共観福音書伝承史』(1) における奇跡物語について、考察することである。ブルトマンの研究は基礎的な段階における研究の重要性を十分示していると思われる。彼の研究は、その分野の研究の流れを把握し、吟味しつつ行われていることは言うまでもないことである。しかし、彼の研究は、奇跡物語のみが抽出されて取り扱われているのではなく、共観福音書研究およびイエス伝研究の流れの中で行われるものである。ブルトマンは、共観福音書の研究の流れの中から、いろいろな神学者の研究成果を紹介し、批評を行なっている。その中でも注目すべきことをいくつか広[ママ]い上げてみたい。まず、W. ヴレーデ(2) の説であるが、かれによるとマルコ福音書は教会神学に立脚した著者の労作であり、彼は伝えられた伝承を教会信仰の視座から整合し、加筆したということである。さらに、ヴレーデ以後の共観福音書伝承史に関する重要な研究は、J. ヴェルハウゼン(3) の業績である。ヴレーデよりも包括的であり、マルコだけでなく、マタイとルカにおいても、両者の根底にある言葉資料Qにおいても、伝承素材に教会神学が作用している事実を検証した。諸福音書において、編集作業により結びつけられているのは伝承された個々の物語、あるいはその集合体であるという根本的事実を明瞭に指摘し、伝承の古層に属する素材が二次的素材に取って代わられていることを示した。

ブルトマンによると、彼の共観福音書伝承史の研究は、個々の伝承の歴史的叙述を問題としている。伝承の始まりから現在の各共観福音書の中に見られる形に定着するに至った歴史を叙述することである。この研究のために、様式史研究は極めて有効な方法と考えられている。すなわち、伝承片の成立と歴史を再構成することによって、成文化以前の伝承の歴史を解明することである。このような課題の理解は、原始キリスト教会の生活の凝縮したものとしての文学が、その共同体のきわめて特定的な生活の表現および必要の中から生まれたということ、そしてそれらは、一定の文体 (Stil)、様式 (Form) および文学類型 (Gattung) を生み出したという認識に基づいている。すべての文学類型は固有の生活の座を持つということである。

ブルトマンの方法は、伝承史の分析から始める。様式史研究に関して多大な貢献をしているディベリウスを高く評価しつつ、ディベリウス(4) からブルトマン自身を区別するものは、文学的様式が原始キリスト教会の生活と歴史に関わっているゆえにこそ、様式史批評は文学批評的前提を持ち、かつ内容批評的判断を前提とするだけでなく、(ある言葉の真正性やある報告の史実性などの)内容批評的判断にまで到達しなければならないことを強調する。

註:
(1) Bultmann, „Die Geschichte der synoptischen Tradition“
(2) Wm. Wrede, „Das Messiasgeheimnis“
(3) J. Wellhausen, „Einleitung in die drei ersten Evangelien“
(4) M. Dibelius, „Die Formgeschichte des Evangeliums“


1. ブルトマンの奇跡物語解釈

共観福音書伝承史で、ブルトマンは奇跡物語に関して三つの項目に分けて分析を行なっている。(1)治癒奇跡(2)自然奇跡(3)奇跡物語の様式と歴史。

実際にブルトマンが扱っている奇跡物語の代表的なものをいくつか上げて、検討を加えてみたい。


(1)の治癒奇跡から

1 [土井原文は丸の中にアラビア数字の1] マルコ 1:21-28 (シナゴーグにおける悪霊憑きの人)

実際この物語はイエスの活動を例示することを目的としている。1:16-39 の文脈に、マルコが挿入した。21節と28節はマルコの作。

a. 悪霊は悪霊祓い師を感じ取って抵抗する, b. 悪霊祓い師が威嚇し命令する, c. 示威的行動を伴っての悪霊の退散, d. 観衆に対する印象。

2 [土井原文は丸の中に2] マルコ 14-21 (癩かんの少年)

15節は編集による挿入。この伝承は二つの奇跡物語が(すでにマルコ以前に)結びつけられている。症例と治癒とが類似しているために一つにされた。第1の物語は、師と魔術の見習者との対置を焦点としている。見習者は無能力さによって師の力の引き立て役をする。従って、元来は、師が弟子たちから離れていて、再び彼らと合流することを前提としている。第2の物語は、不信の信仰という逆説を叙述している。その証拠は、a. 弟子たちは、14-19節においてある役割を演じているに過ぎない。そのあとは消え去っており、17-19節では脇役しか演じていなかった父親が21節以下では主役となっている。b. 病気が、18節と21-22節で、二重に叙述されている。
c. 14節ではその場にいる民衆が、25節では初めて押し寄せる。はっきりした分離はもはや不可能である。第1の物語は、14-20節、第2の物語は、21-27節を含む。この物語の病気の叙述は型通りである。ここでも悪霊の反応が、20節、26節に見られる。

3 [土井原文は丸の中に3] マタイ 9:32-34 (悪霊に憑かれた口の利けない人)

先行する伝承 9:27-3120:29-34 (マルコ 10:46-52) に対して、二次的別形であるのと同様、マタイ 12:22-24 に対する別形である。両方共、11:25τυφλοι (盲人たち) および κωφοι (聾唖者たち) の治癒についての実例を得るために、伝統的モチーフを用いてマタイ自身が作ったものである。奇跡物語の文体の解明には何も貢献していない。


(2)の自然奇跡から

1 [土井原文は丸の中に1] マルコ 4:37-41 (嵐鎮め)

35-36 にはマルコの編集句が含まれる。38節のイエスの眠りは、この物語の基本部分に属す。39節の自然に対する言葉の威嚇、41節は型通りのものである。

2 [土井原文は丸の中に2] マルコ 6:34-44 (五千人の給食)

イエスの憐れみは、群衆の空腹と関連している。イエスと弟子たちの対話は緊張を高めている。パンを増やす奇跡は、分配され、食べ、満腹するという成り行きに描かれているに過ぎない。結末の効果の一つは、始めに準備されていたものを上回る残り物があったことであり、満腹した者の数が最後に置かれているのは効果的である。マタイ(14:21)で、χωρις γυναικων και παιδιων (女子供を除いて) によって効果を高める要素が付加されていることは、言及の価値がある。


以上、治癒奇跡と自然奇跡の中から、ブルトマンが解説している代表的なものを選んで上げてみたが、これらの中に、奇跡物語の意味、目的、役割等を抽出することが出来る。主要と思われるものを上げてみる。a. 範例的にイエスの活動を例示する。b. 悪霊祓い師と悪霊との力関係 c. 観衆への印象 d. 弟子の無能力さ e. 不信の信仰

これらをまとめると、イエスの力、イエスの威嚇、イエスの憐れみ等によって、状況が大きく変えられる。そのようなイエスを見る群衆は、イエスに対する印象を強く焼き付けられる。これはあくまでも、ブルトマンの奇跡の解説から、受け取られる筆者の印象である。奇跡に関するブルトマン自身のより突っ込んだ見解については、3. の「奇跡物語の様式と歴史」によって明らかにされている。

以下において、より深くブルトマン自身の奇跡理解について言及してみたい。

ブルトマンは、奇跡物語が福音書に含まれていることは、福音書の本質であると考えている。奇跡物語は事件一般として語られているのではなく、イエスの奇跡として語られている。奇跡物語の目的は、伝記的なものではない。奇跡行為は、イエスの性格ではなく、彼のメシアとしての力、神的権能の証明である。奇跡は、イエスの意志を離れた、自動的に機能するなにものかのようである。それは、長血の女の物語でも明白である。イエスは、女が彼に気づかれることなく触れた後に、力が自分から出て行ったのを感じる。悪霊追放も、第1義的に、イエスのメシア性の主要な証拠として記されている。癒される者の内的な状態について、ほとんどまったく注意をはらっていないことも、それと対応している。病気治癒のためには、治癒を願う人々の信仰が条件であることは自明のことである。しかしこの信仰は、現代的な意味での、イエスの宣教あるいは彼の人格に対する信仰の関係を意味するのではなく、奇跡執行者にたいして人々が負っている信頼である。信仰が心理的関心から、いわんや治癒を可能にする心的条件として述べられることは少ない。イエスが治癒の願いをかなえる根拠は病人の信仰である必要は全くなく、病人のために治癒を依頼する人々の信仰でありうることを示す。信仰はイエスを承認することを意味するのであるから、病人にではなく、承認に値するイエスに全ての光が注がれる。例えば、マルコ 2:1-12 の中風患者の精神状態は顧みられていない。病人は、奇跡物語治癒の対象として考察されているに過ぎない。

ブルトマンの見解によれば、奇跡執行者と治癒依頼者との信頼関係を重視していることが明らかである。この信頼関係が、奇跡物語の中で重要な鍵になっていることをブルトマンは指摘している。しかし、奇跡執行者と治癒依頼者との信頼関係が、全てであるかどうかについては、、[ママ] いささかの疑問を持つものである。以下においてその疑問について触れてみたい。


2. ブルトマンの奇跡解釈への問い

ブルトマンが、奇跡執行者と依頼者との間における信頼関係を重視することは、極めて納得のゆく説である。しかし、イエスと依頼者との関係が信頼関係だけで、全て片付けられるかどうかについては、疑問である。

「イエスはナザレの人々の間で奇跡を行なわないのであるが、彼らは自分たちの不信仰にその原因を求めるべきである」(共観福音書伝承史 II 32頁)。

ブルトマンが指摘しているように、マルコ 6:1-6 において、5節、6節、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行なうことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」

ここに描かれているように、イエスは全く奇跡を行なわなかったわけではない。ブルトマンによれば、イエスが奇跡を行なわなかったのは、ナザレの人々の不信仰のせいだという。しかし、この場合の不信仰とは何か。恐らく、ナザレの人々は、イエスを彼の肉親と同類のものと見たことである。そのことが果たして、ナザレの人々の不信仰と直接結びつくかどうかである。むしろナザレの人々のイエスへの見方は、自然なものであったのではなかろうか。にもかかわらず、敢えてナザレの人々が不信仰であるというなら、「イエスの故郷、イエスの肉親」をも含めてその土地が不信仰を作りだし、イエスに対立していることになる。また、イエスの力は、ナザレの不信仰を越えられないものなのか。層[ママ]であるなら、イエスの力は、あるところでは可能であり、あるところでは不可能になる、ということであろうか。つまり、信仰を持ってイエスに接するものと、不信仰をもってイエスに接するものとでは、イエスの対応は異なったものになる、ということになる。もしそうであるなら、イエスの人々への対応は限られたものであり、狭小なものであると言わざるを得ない。

この問題を探求するために、マルコ 3:31-35 で、イエスの肉親がイエスを連戻しに来たこと。さらに、マルコ 3:20-30 での「ベルゼブル論争」などは、無関係であろうか。イエスの身内のものたちがイエスを取り押さえに来たことは、この論争から始まっている。3:21「身内のものたちはイエスのことを聞いて取り押さえに来たあの男は気が変になっている、といわれているからである」。[身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた(『聖書』新共同訳、日本聖書協会、1987年)。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、また、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った(『聖書』、日本聖書協会、1988年)。]

この中に、イエスがナザレでは奇跡を行なわない理由が隠されていると考えられる。
ここには、イエスと人々の信頼関係だけが問題になっているのではないかと[ママ]は明白である。イエスの「力、機能」も含めた、「奇跡執行者」としての存在そのものが、正面から否定されているのではなかろうか。そのことは、ある地方の人々の単なる不信仰だけでは済まされない問題が隠されているように思われる。たとえ、その土地の人びとがそうであったとしても、その背後には彼らを動かし、威嚇する大きな力が働いていたのではなかろうか。ここでは、この程度にとどめて、それ以上は今後の課題として検討していきたいと考えている。

土井洋「ブルトマンの奇跡解釈」(『教会と宣教』第5号、日本福音ルーテル教会 東教区・宣教ビジョンセンター、1999年)、91〜98頁。

『聖書』新共同訳(日本聖書協会、1987年)から

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