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Tokai University Journal
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東海大学紀要文学部 第74輯

論文
後期シェリングにおける人格の論理(その2)

橋本 崇

The Logic of the Personality in the later philosophy of Schelling (2)

Hashimoto Takashi

Abstract

In Schellings later philosophy, what is called the positive philosophy, experience plays a more important role than reason, because the former is related to reality, which the latter cannnot reach.

Schelling's positive philosophy consists of two parts, the philosophy of mythology and revelation.

Jesus Christ works as natural potencies in mythology and as personality in revelation. In positive philosophy, the personality of Christ is most important, because he is a mediator between two religions, and he changes the traditional view of matter and death. The New Testament is a document of this greatest human experience.

第1章 積極哲学における経験と理性

主に『神話の哲学』と『啓示の哲学』から構成されるシェリングの後期哲学は、ヘーゲル哲学やシェリング自身の前期哲学をも含めた「諸対象が単なる思惟の内で取る関係についてのみ 語る学」すなわち「消極哲学」に対して、「実存に関わる哲学」すなわち「積極哲学」と自称される。1)

消極哲学は「原理を可能にし、または産み出しはするが実在化しない。」2) というのも、消極哲学が「自由に産み出される認識の直接の源泉」、「推論の能力」として用いる理性 3) は、その対象が現実に存在するかしないかに関わらず思惟を進めることが出来るが故に自由なのであり、可能性の領域から抜け出ることは不可能だからである。

これに対して、「現実態一般は本来概念の内にではなく、経験の内にある」4) とし、「経験は我々に事物の普遍的なもの、必然的なもの、留まるものではなく、特殊なもの、偶然的なもの、移ろいゆくものを明らかにする。しかし、まさにこの事物における特殊なもの、偶然的なものが学の本来的な支持点である」5) とする積極哲学は、「理性学がアプリオリに見いだしたものがキメラのような怪物でないことを明らかにする制御するもの」6) としての経験の役割を非常に重視し、理性が経験に制御されてそ、「真に普遍的な原因であると同時に人格的なものとしての神」7) に至ることが出来るとする。

さらに、「現実性へと到達すべきものは同様に現実性から、それもあらゆる可能性に先行する純粋な現実性から出発せねばならない」8) とするシェリングは、「積極哲学の始源は相対的な先行者であってはならないのだから、自身を存在へと動かすいかなる必然性をも持たぬ絶対的な先行者でなければならない。もし存在へと移行するならば、それは自由な行為の結果でのみあり得る。あらゆる行為がアプリオリには洞察され得ず、アポステリオリにのみ認識可能なように、そのような自由な行為そのものも純粋に経験的なものであり、アポステリオリに認識可能なものでのみあり得る。」9) と言う。すなわち、理性に頼って可能性の領域に留まる消極哲学に対し、「実存に関わる学」である積極哲学はその出発点を、あらゆる理性による必然的な思惟を超えた「絶対的な先行者」である神の現実性に求める。そのような神は、存在するかしないかに関しても自らの意志以外にいかなる原因を持たぬ絶対的に自由な神であるから、理性によってアプリオリに洞察することは許されず、その自由の行為の結果を経験によってアポステリオリに確かめていくことが出来るのみである。「真の歴史的な哲学、積極哲学の神は、動くのではなく、行為する。」10) ともシェリングは言うが、積極哲学とはまさに「絶対的な先行者」としての神の自由な行為の結果を、神話と啓示という現実の歴史において確かめる「徐々に強められていく現実に存在する神の実証(Erweis)」11) に他ならないのである。

以上の考察から、積極哲学における神の人格性についてさしあたり次のようにまとめることが出来よう。
(1)普遍性と個別性、必然性と偶然性の接点に立つ神の人格性を理解するためには、経験による理性の制御が必要である。
(2)そのような人格性を持った神は、あらゆる思惟の必然性を超えた絶対的に自由な神であるから、その行為の結果を歴史という人類の現実の経験の内で確かめていくことによってのみ認識可能である。

第2章 積極哲学における神話

それでは、積極哲学の中で神の人格性は具体的にどのような形で展開されていくのだろうか。神の絶対的に自由な行為が理性による必然性を超えたところにあるとなれば、フールマンスの指摘するとおり、「あらゆる自由に基づく出来事は、本質的に偶然性、単なる事実性の領域に属する」のであるから、「この偶然的なものは、必然的なものよりもむしろ高い地位を占めている。非必然性と偶然性において、あらゆる自由に基づく出来事は、人格の尊厳を啓示する。」12) すなわち、「人格の尊厳」としての自由な行為は、必然性を超えた「偶然性」あるいは「単なる事実性」の領域においてのみ思惟可能であり、理性による必然性の領域の中でのみ神を考秘(Geheimnis)」であり、「人格は決意(Ent-schließungen)においてのみ、明らかになる(er-schließt sich)。」13)

そして、この「偶然性」あるいは「単なる事実性」の領域において、神の人格の「神秘」を明らかにすることこそ、シェリングの『神話の哲学』の主眼に他ならない。14)「啓示を把握するためには、同様に人間の本質の神に対する根源的に実在的な関係が仮定されねばならない。私は啓示と共に初めて成立するのではなく、啓示の前提であるが故にすでに存在しているものを、根源的に実在的と呼ぶのである。???実在的とは一般的な表現であり、a)自然的関係=神話、b)人格的関係=啓示を含意している。」15) すなわち、シェリングは神の絶対的に自由な行為の前提として、神話という自然的関係を捉えているのであり、神話の中には「人間の本質の神に対する根源的に実在的な関係」が隠されているのである。

「先在(Praexistenz)なくして、キリストはキリストたり得ない。キリストは神の人格として現れる以前に自然のポテンツ(Potenz)として存在する。」16) ともシェリングは言うが、キ リストは神の人格として肉体を伴って啓示される以前に、「自然のポテンツ」といういわば潜在力としてすでに存在していたのであり、その「自然のポテンツ」を旧約聖書や神話の中に読み解いていくのが『神話の哲学』なのである。「キリスト教が異教と何か積極的なものを共有していなければ、歴史は互いに独立したいかなる接点も持たない二つの部分に分裂してしまい、あらゆる連続性と歴史の連関は中断され、キリスト教は永遠なものとして現れなくなる。・・・しかし、これはキリスト教を貶めている。あらゆる真なる宗教の内容は永遠であり、従っていかなる時代においても排他的なものではない。」17) 従って、キリスト教を永遠の「真なる宗教」とするために、異教と共有する「積極的な」要素を見いだすこと、このことこそ積極哲学が積極哲学たるゆえんである。

そして、その神話と啓示の共有の要素が「人間の本質の神に対する根源的に実在的な関係」としての「自然のポテンツ」であるが、シェリングは人間を根源的に「神を定立するもの(das Gott Setzende)」とし、「人間をあらゆる思惟と知以前に、根源的に根ざし、契約に縛られたものにするような、自然に神を定立する原理によってのみ、自然に産み出される宗教、すなわち神話は説明されるであろう。」18) という。すなわち、神話の中には「あらゆる思惟と知以前に」人間を神に結びつけ離れられなくするような原理が隠されている。「人間が神との本質的な関係から堕落して初めて、人間の神話へと至る道は偶然のものではなく、必然的なものとなった」19) とシェリングはするが、アダムとイヴがエデンの園で禁断の木の実を食べるまでは何不自由なく暮らしていたように、人間が神に背くことなく本質的に神と一体であった関係においては、神について語る必要はなく、神話の産まれる必然性もなかった。しかし、アダムとイヴが禁断の木の実を食べようとしたとき、そこには神に背く原理がはたらき、神と根源的に一体であろうとする原理の間に対立が生じて神話を産み出す。だからこそ、あらゆる神話はかっての神との本質的関係へのあこがれを語るのであり、この過程は『自由論』における憧憬と悟性の対立の過程に他ならない。さらにシェリングはこの過程を、「それまで安らいでいた意志が、自身に示された存在を現実に意志して、意志である純粋な存在可能から、偶然的で、引き入れられた存在へと現実に高まる」「根源的出来事」、あるいは「最古の原始偶然」と呼び、ペルセフォネー神話を代表とするあらゆる神話をこの「原始偶然」のヴァリエーションと解釈する。20) 従って、「根源的人間は本来すでに神を意識するもの」21) であり、「神話は、人類の思惟の及ばない(unvordenkliche)宗教、その限りではまたあらゆる思惟に先行する宗教として、意識が自然に神を定立するものであると考えてのみ把握可能である。」22)従って、「思惟の及ばない」「原始偶然」の過程を、神話という人類の経験においてアポステリオリに認識したのが、「自然のポテンツ」であるということになる。

第3章 積極哲学における啓示

このように神話が「思惟の及ばない宗教」として「自然のポテンツ」により構成されるのに対し、キリスト教は神話を土台として「人格的関係」を啓示していく。このキリスト教における「人格的関係」を明らかにするのが『啓示の哲学』に他ならない。

「およそ啓示の概念、あるいは自らを啓示するものは、根源的な暗がりを前提としている。始めは隠されていたもののみが自身を啓示できる。従って、真なる神、超自然性における神はかの暗がりや隠れを突き破ることによってのみ、自身を啓示できるのであり、かの暗がりや隠れにおいて、神は意識の中で分離されたポテンツとしてのみ働くことにより、意識に対して定立されていた。・・・・根源的人間は、啓示が必要で可能なような関係にあったのではない。根源的人間の意識は神的存在そのものと溶け合っていたので、啓示が起こるためには、まず疎外されねばならなかった。この神そのもの、すなわち真なる神から疎外された意識は、まさに神話においてもたらされる。従って、この意識あるいはむしろ神話に触発されたとでもいうべき意識は、啓示を可能にする前提なのである。」23) すなわち、神話において解明された「自然のポテンツ」は、「人格的関係」が啓示されるために不可欠な前提、「暗がり」、「隠れ」であるというのであり、ヨハネによる福音書の冒頭に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1.5)とあるように、神の啓示を輝かす「暗闇」として作用している。この「暗闇」の中にある「真なる神から疎外された意識」においては、自然の「分離されたポテンツ」が働くのみであり、未だポテンツの統合である「真なる神」を「理解しなかった」のである。

「啓示と自然的宗教との差異は、実体的なものではなく作用しているもの(das Wirkende)の差異である。自然的宗教において作用しているものは自然のポテンツに過ぎないが、啓示においては人格そのものである。しかし、人格を自然のポテンツと切り離すことは出来ないから、異教の内にもキリストとしてではないにせよキリストは暗示的にすでに存在する。旧約聖書に おいてキリストはすでにキリストとして、来るべきものとしてのみではあるが存在している。 新約聖書において、キリストはキリストとして啓示される。」24)

従って、「自然のポテンツ」を人格へともたらすものこそが、新約聖書におけるキリストの出現であり、キリストこそ「自然のポテンツ」の統合であって、キリストにおいて初めてポテ ンツの関係は人格の関係として、いわゆる三位一体の関係において啓示される。

「特に詳細において啓示は、人間の神に対する根源的関係をすでに媒介されたものとした時にのみ把握されうる。」25) ともシェリングはいうが、まさにキリストこそ、人間の神に対する根源的、直接的関係を再び媒介するのである。ここで、シェリングが「人格を自然のポテンツと切り離すことは出来ない」としていることは、非常に大きな意義を持つ。クライムルによれば、「シェリングの宗教哲学の主たる意図は、自然宗教を人間学的に構成された宗教として証明すること」26) であり、「シェリングの宗教哲学は彼の人間学のコンテクストにおいてのみ読み解くことが出来る。あるいは逆に、シェリングの人間学は、宗教哲学の内においてのみその位置を定めることが出来るということも出来る。人間論と宗教論、哲学的キリスト論は、シェリングにおいてきわめて深く互いに結びつけられている。」27) すなわち、シェリングのキリスト論を中心とした積極哲学は、単にキリスト教の啓示を哲学的に解釈するという意図のみならず、キリスト教のような特定の宗教を超えて、広く人間の宗教的なあり方を人間学として問う意図が貫かれており、だからこそ、啓示の哲学の不可欠の基盤として神話の哲学が置かれているのであり、先に述べたキリスト教と異教が共有する「積極的なもの」とは、まさにこの人間の宗教的なあり方に他ならない。

従って、キリストにおける人格論は、神話と啓示の間の橋渡しとして積極哲学の要を成すものであり、「キリスト教本来の内容は、ただキリストの人格のみである。」28)

第4章 積極哲学における「質料化」

父なる神がキリストを人間の姿で人類のために遣わしたということは、無限なる神が自身の姿を啓示するために肉体をまとったということに他ならない。「キリストの人間性の最初の基盤は、第2のポテンツがより高次のポテンツに対し、自身を質料化することにより築かれる。そのように自身を質料化するのは、もちろん人格そのものではなく、ポテンツ、すなわち人格的なもの内の自然的なもの、実体的なものである。・・・自身を質料化するということは、自身を有機的な過程の素材とするということである。」29) とシェリングはする。すなわち、『自由論』において神は「神の内なる自然」30) の中の憧憬に悟性を対立させ、それを肉体の素材とすることにより自身の姿を啓示していったわけだが、「有機的な過程」の頂点にあるキリストの人格もまた、本来精神的なものである神が自身を「質料化」し「自然のポテンツ」とした基盤の上に成立するのである。

この「質料化」という概念は、フールマンスの指摘するように31)、シェリング哲学全体においてきわめて重要な意味を持っている。「質料の根源に関する学説は、哲学の最高の神秘の一つである。」32) というように、そもそも、質料とは何であり、精神や魂といかなる関係にあるかは、シェリングにとって生涯の大問題であった。

特に1809 年9月に最愛の妻カロリーネを突然失った後は、その悲しみを乗り越えるべく死後の魂や質料(肉体)の問題に集中的な思索がなされており、その延長上に積極哲学の構想もある。そのころの思索の記録は遺稿の対話編『自然と霊界の連関について』33) に断片として残されているが、この思索の焦点は「人間の死は分離というよりはむしろ本質化(Essentification)であろう。本質化において偶然的なもののみが滅びるが、人間本来の本質は保持される。」34) という一節に集約される。西欧の思想の中で死は肉体と魂の分離として、有限な形ある肉体は滅びても、無限で形のない精神的な魂は不死であると考えられ、この分離の考え方はキリスト教の原罪思想によりさらに強められてきたわけだが、シェリングはこの伝統的な考え方を否定する。対話編『自然と霊界の連関について』の中の「魂が死後霊的になるというと、魂は死ぬ前は霊的でなかったということになってしまいます。そうではなくて、魂の内にすでに存在していて、この世ではより束縛されていたように見える精神的なものが解放され、肉体的な部分に対して優勢となり、この世で優勢だった肉体的なものにより近づくというべきだったのです。」35) という牧師の言葉に表されているように、そもそも魂の内には精神的な部分と肉体的な部分の両方が含まれているというのである。現世において人間は、肉体的なものが精神的なものに対して優勢であるが故に肉体の制約を逃れることは出来ないが、死後の来世においては逆に精神的なもの、霊的なものが肉体的なものに対して優勢となり、その制約を逃れることが出来る。従ってフールマンスのいうように、「もし不死性があるのであれば、死は肉体と魂の分離ではあり得ず、人間全体の新たな実存様式への移行である。」36) そして、この「人間全体の新たな実存様式」においては、肉体的なものが完全に取り除かれるというのではなく、あくまでも精神的なものの根底として魂の内に留まり続ける。だからこそ、我々は亡くなった人の個としての魂を慕い続けることが出来るのであり、この思想がシェリングの出発点である自然哲学に由来するものであることのみならず、最愛の妻の死という痛切な経験に基づいた思想の頂点の一つであることも理解されよう。

そして、このように死を魂の分離としてでなく、「人間全体の新たな実存様式への移行」と捉える上で、神が自身をキリストの肉体として「質料化」したことは画期的な意義を持っている。なぜなら、「キリストが人間となることにおいて、神は人間の肉体と結びつき、そのことによって質料は案外価値のないものではないことが改めて啓示された。それだけでなく、キリストの復活、肉体の変容、昇天、‐これも肉体を伴ってであるが‐より高次の世界へ入っていったことの内にも、はっきりと全世界のの行方が啓示されている」37) からである。すなわち、本来神的なものであるはずのキリストが肉体をまとい、さらにその肉体をまとったまま復活まで遂げたということ、そのことは肉体的なものに精神的なものに匹敵するだけの価値を認める上で、非常に画期的な出来事であったのであり、古代ギリシア以来脈々と受けつがれてきたいわゆる「魂の不死」という伝統的な思想を覆すものであるというのである。

第5章 積極哲学における人格性の論理

さらにシェリングによれば、「キリストの復活は、通俗の立場ではもちろん理解できないこの高次の歴史全体にとって決定的な事実である。キリストの復活という事実は、高次の、すなわち真の内なる歴史が、単に外面だけの歴史の中に突き破って入ってくる稲妻のようなものである。」38) すなわち、罪ある肉体が神的なものにまとわれて復活を遂げるということは、この世界の中ではとうてい理解することが出来ない。というのも、この世界は原罪とともに始まった堕落した世界であり、この世界の「外面だけの歴史」の内に留まっていては、神の意志する「高次の歴史」の全体を見渡すことは出来ないからである。「完全な世界は緩やかな移行によってもたらされるのではなく、全く新しい始源、全く新しい永遠(Aon)の始まりによってのみもたらされる。」39) とフールマンスがいうように、この世界の「外面だけの歴史」においては、この世界だけが永遠に続くとしか考えられず、違った世界があるということ、この世界のあり方だけが唯一のあり方ではないということは想定すら不可能なのであり、肉体が堕落から救われることは永遠にないのである。

しかし、ここでシェリングにとっての哲学の究極の問いが頭をもたげてくる。「人間が自分の行為や世界を把握することより遙かに、人間自身が最も把握しがたいものであり、古今を通じて多くの苦痛な声によって表明されてきた、あらゆる存在は不幸であるという見解に駆り立たれざるを得ない。まさに人間こそが、究極の絶望に満ちた問い、すなわちなぜそもそも何かがあって、何もないのではないのかという問いに私を駆り立てるのである。」40) すなわち、何かが存在するということは、質料を伴って存在するということである。質料なくして具体的なものは存在することは出来ないにもかかわらず、質料はすべて原罪を背負っている。従って、あらゆる存在は不幸なのであり、その不幸は肉体を自身のものとして意識することの出来る人間において最も痛切に体験され、「究極の絶望に満ちた問い」として表明される。そして、こ の「究極の絶望に満ちた問い」に希望の光を与えてくれるのが、まさにキリストの復活という「稲妻」に他ならない。あたかも稲妻がどこまでも続くかに見える暗い空を突き破るように、キリストの復活はあらゆる存在の不幸を突き破るのであり、その突き破った先には肉体も貶められることなく「人間全体の新たな実存様式」が体現されるのである。

そして、まさにこの点で後期シェリングの積極哲学の頂点の一つが極められるとともに、同時代を風靡していたヘーゲル哲学に対する批判も集約される。「もし現在の世界が最高の理念の論理的必然的帰結であるならば、それはその本性からして永遠の帰結でもあるということになろう。だとすれば現在の世界の他にいかなる世界もあり得ず、いかなる時代もあり得ない。この世界とこの時代が唯一であり、従って不死性もまたこの世界の内に落ちてしまわなければならない。」41) この世界だけが唯一の世界ではなく、他にも世界はありうるということ、このことこそがまさに神の「人格の尊厳」としての絶対的自由である。神が世界を創造するかしないか、またいかなる世界を創造するかは、すべて神の自由な決断に基づいている。従って、神話の中には必然性の領域では把握不可能な「分離された自然のポテンツ」が無数にちりばめられているが、神はキリストの受肉においてその中の一つの世界を決断したのである。しかし、それはあくまでも「高次の歴史」の中の一つの出来事に過ぎない。ヨハネによる福音書が示すように、イエス・キリストはこの世で処刑されても再び蘇って、「あなたの指をここに当てて、私の手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(20.27)と言われる。そこには、ヘーゲルのようなこの世の理念からあらゆる現実性を説明する哲学には全く思惟不可能な偶然性の世界がある。しかし、その世界は積極哲学においては思惟可能であるばかりでなく、現実の世界としてある。なぜなら、「啓示の究極目的は、人間を元に戻すこと、最終的には全被造物を元に戻すことであって、従って新約聖書に表現されているように、新たな創造、あるいは第二の創造」42) であり、質料を含めたあらゆる被造物を根源的な状態、すなわち神に祝福された状態へと戻そうとする神の意志はあらゆる啓示を貫いていて、それは新約聖書という人間の具体的経験の中で読み解くことが出来るからである。

そして、この新約聖書の中で神はキリストという個の姿で人間に語りかける。「カントが求めたような実践理性の要請ではなく、個のみが神へと導く。人間の内なる普遍的なものではなく、個が至福を求めるからである。・・・自身が人格として人格を求める自我は、世界の外にあり普遍的なものを超えていながら、人間の声を聞き取る人格、人間と同じ心(Herz)を求める。」43) すなわち、神が啓示において単に普遍的な者としてではなくキリストという個の姿で人間に語りかけたということ、このことこそが、個としての人間を神へと導く上で画期的に重要な経験なのであり、理性によってこの経験を捉えることは出来ない。「普遍的なものや、制度、構造によってではなく、人格的なもの、汝との交わりによってのみ自我は満たされる。・・・キリストは復活において媒介された自己規定として、個なる普遍者として啓示される。」44) とダンツが言うとおり、まさに「個なる普遍者」としてキリストは人間に語りかけ、そこには「汝との交わり」が経験される。その経験においては神と人間が互いの声を「聞き取り」、「同じ心」を通わすことが出来る。ここにおいて初めて、堕落からの救済という啓示は完成し、『啓示の哲学』は幕を閉じるのである。

この「汝との交わり」の経験を背後から支えるのが、キリストの人格を媒介とする三位一体論であることはもはや明らかであろう。神は自身を「質料化」し、キリストとして受肉する。神の使者であるイエス・キリストは、あらゆる人類の罪を背負って十字架に処せられるが、やがて変容して復活を遂げる。この一連の歴史を、神・キリスト・聖霊という3つの人格の関係 から解明したのが、三位一体論に他ならない。その中心には常にキリストの人格があり、まさに「キリスト教本来の内容は、ただキリストの人格のみである」28) そして先述の通り、この「質料化」の過程は、『自由論』における神が「神の内なる自然」30) の中の憧憬に悟性を対立させ、それを肉体の素材とすることにより自身の姿を啓示していった過程に対応しており、神もキリストも聖霊もその人格の基盤は「神の内なる自然」にあるのであって、そこからシェリングの積極哲学を人間学的に展開していく地平も開かれているのである。

「キリスト教は世界の基礎付けによって整えられるのであり、すでに世界の原理の関係そのものの内に含まれていた思想を完成したものに過ぎない。従って、この秩序の他に癒し(Heil)はあり得ず、我々はこの完成にふさわしい者となり、従わなければならない。」45) とシェリングは言うが、積極哲学はまさにギリシア古代哲学以来、様々な形で展開されてきた質料や形相、 肉体や精神といった「世界の原理の関係」を、キリスト教の聖書という経験のもとに「完成」することを目指しているとみることが出来る。しかし、なぜ「この秩序の他に癒しがあり得ない」といえるのか、聖書に記された世界以外の世界の可能性はないのかといった問いは、キリスト教文化圏の外にある我々にとって当然問われねばならない重要な問いである。しかし、シェリングもこの問いを全く考慮に入れなかったわけではない。この問いに関する思索は、積極哲学の中の神話の哲学、啓示の哲学に続く「哲学的宗教(philosophische Religion)」46) において展開されるのであるが、これについては別の機会に論じることにしたい。

1)F.W.J.Schelling Sämtliche Werke.Hrsg.v.K.F.A.Schelling. Stuttgart 1856-1861 (以下SWと略)X125
2)SW XI 562
3)SW XIII 37
4)SW XI 135
5)SW XIII 37
6)SW XIII 62
7)SW XIII 38
8)SW XIII 162
9)SW XIII 127
10)SW XIII 125
11)SW XIII 131
12)H.Fuhrmans : Schellings letzte Philosophie Berlin 1940 S.183
13)ibid.S.184
14)シェリングの神話哲学と偶然性の関係に関しては、拙著『偶然性と神話』(東海大学出版会1998)を参照されたい。
15)SW XIII 191
16)SW XI 249
17)SW XIV 77
18)SW XIII 191
19)SW XI 176ff.
20)橋本 前掲書 pp.60-75
21)SW XI 141
22)SW XI 245
23)SW XIII 187ff.
24)SW XIV 88
25)SW XIV 29
26)J.Kreiml: Die Wirklichkeit Gottes. Regensburg 1989 S.144
27)ibid.S.187
28)SW XIV 35
29)SW XIV 172
30)SW VII 358
31)Fuhrmans S.229
32)SW VI 47
33)„Über den Zusammenhang der Natur mit der Geisterwelt. Ein Gespräch.“ SW IX 1-110
『キリスト教神秘主義著作集16 巻』(教文館1993)に中井章子氏の翻訳と解説が収められている。
34)SW XIV 207
35)SW IX 53
36)Fuhrmans S.232
37)Fuhrmans S.235
38)SW XIV 219
39)Fuhrmans S.236
40)SW XIII 7
41)SW XIV 215
42)SW XIV 11
43)SW XI 569
44)C.Danz : Die philosophische Christologie F.W.J.Schellings Stuttgart-Bad Cannstatt 1996 S.132ff.
28)SW XIV 35
30)SW VII 358
45)SW XIV 332
46)SW XI 250


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