修士論文 交感の宗教性 —節談説教について (1996年)

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この1998年と2001年の拙稿において、私は「浄土真宗大谷派」と述べている。しかし、それが誤った名称であることが、2002年6月1日の佛教文学会における関山和夫博士の講演「中世以降における唱道の展開」を拝聴した際に判明したので、私の誤りであったことをここに記す。「浄土真宗大谷派」という正式名称はなく、「真宗大谷派」である。

修士号は大正大学から1997年3月15日に取得。主査:藤井正雄先生 (宗教学)。副査:山ノ井大治先生 (宗教学)。  About Me

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はじめに

もし宗教が、これは、佛についての学である、神についての学であると、その教えを「佛のこと」、あるいは、「神のこと」として、余りにも観念化し、形式化するのであれば、そこでは、「人間のこと」(1) としての経験や問題が、離れゆき、希薄化するばかりである。しかし、そうした状況が起ころうとも、人間は、一切の儀礼的なものに対する感性を喪失しない限り、そこに呆然と立ちつくしてはいられない。自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである(2)。それが、この論文における〈儀礼〉である。そこにおいては、象徴的過程を通して、具体的ないしは直接的に、人間の経験と問題が発現し、超越的基準を以て、それらをからめとる力の方向性が生起するのである。それは、単に、共通の価値観や世界観の中で安住の場を見い出すものでも、「驚愕や鋭い知覚を経験している時に人間の精神が語る言葉」(3) を他者と共有するだけのものでもない。その集合的探索と集約の果てに現われる、より個人的な、「究極性への飛躍」のリチュアルなのである。

〈節談説教〉において立ち現われるそれは、〈交感〉である。情念の説教と言われ、苦悩に満ちた人間社会の底辺に生きる人々の心的・情意的エネルギーの発露であり、信仰や祈念を背景とした庶民の感性と情操の結晶とも言うべき〈節談説教〉の、それは、中核をなすものである。語り手(説教師、或いは、伝道者)と聞き手(聴衆)との間に繰り返される宗教的コミュニケーションの呼応の中で、強烈に昂揚した場面を〈交感〉として捉えるのであるが、この両者の思考や言語の周囲に外在する、もっと大きな意味の枠組みから発するものをも含めながら、それを〈交感〉と呼ぶこととする。そして、この論文では、「交感の宗教性」という論構を設定するにあたり、主たる材料に、仏教における〈節談説教〉として、浄土真宗大谷派の祖父江省念師(平成8年1月2日、西帰された)の節談説教を、そして、キリスト教における〈節談説教〉として、バプティスト教会系の福音伝道者(Evangelist)であるバーバラ・ワード=ファーマー(Ward-Farmer, Barbara)氏の伝道を挙げ、そこから掴み出せるあらゆる要素を提示してみることを以て、この二つの〈節談説教〉の対比という観点から、〈交感〉という問題への接近を試みるつもりである。

キリスト教においては「節談説教」という言葉はない。したがって、ゴスペル・ミュージックを用いたバプティスト教会の福音伝道を、いきなりキリスト教における〈節談説教〉とすることについては、大きな問題があり、キリスト者からも批判を受けるであろう。しかし、その歴史的過程においても明らかなように、まず、ゴスペル・ミュージックとは、人間社会の底辺に生きる人々、つまり、アメリカのレッド・ネック、あるいは、ブルー・カラーと呼ばれる知識階級にない貧しい白人や、奴隷制度によって根強い差別を受ける黒人達の、心的・情意的エネルギーの発露(彼等の心の叫び)であり、信仰や祈念を背景とした彼らの感性と情操の結晶であること、次に、キリスト教の伝道活動としては、演技性、歌謡性(音楽性)、そして、人々の感情を重視したものであり、またそれは、アメリカのそうした民衆が自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで磨かれてきた伝道方法であること等をみる時に、私の類概念において、このゴスペル・ミュージックを用いたバプティスト教会の伝道が、もう一つの〈節談説教〉として、はっきりとあるのである。また、〈節談説教〉という類概念をつくるここに述べた内容は、言うまでもなく、宗教と国の違いという尺度の外側で、浄土真宗の節談説教との共通集合となっている。先に私が、浄土真宗の節談説教を指して、それを仏教における〈節談説教〉と述べたのも、同じ類概念に基づいてのことである。

〈節談説教〉におけるその強烈に昂揚した場面は、それを祭りになぞらえ、心的エネルギーの過剰とみれば、当然のことながら、エミール・デュルケム(Durkheim, Emile)氏の言う「集団沸騰」として捉えることが可能である。人々が集まるだけで、彼らを興奮させる一種の電流が放たれ、叫び声が上がり、夜の炬火の光の下で行われる、行列、舞踏、歌謡、そして、模擬的な戦闘は、その興奮を激化させる。このような状態の下では、自分が自分自身ではなくなって、まったく新しい存在になったように思われる(4)。個人の意識は高揚し、個別を超えて全体となり、集合的意識の中に融合されるのである。こうしたオルギー(orgy)的側面が強調され、「祭りを通じて集団や社会の再統合を成し遂げる」というその理論の方向性の中では、しかしながら、省念師の定例会、バーバラ氏のワークショップでの体験及び観察に従って述べようとするならば、そこにおいてみられた他の諸要素が(例えば、互いに照らし合い輝き合う「感応道交」的空間や、究極性と人間との人格的な出会い、そして、念仏者たる、あるいは、キリスト者である「人間のこと」としての主体化に向かう地平等が)、見えなくなってしまうのである。さらに言えば、デュルケムの議論には個人の情動を通じてのアイデンティティの再確認を考慮した発想が含まれているとされるが、〈節談説教〉においては、和解や確認が必ずしも必要ではない(あるいは、最終目的とされない)、もっとラディカルな個人の「アイデンティティの創出」という性格が強いのではないか。つまり、「神話」を自らの表現として解釈する、あるいは、自己の表現として常に新しく作り出す(5) という、主体的な参与が、そこに、係わってくるのではないだろうか。

この論文において私が述べようとすることは、デュルケムの理論を否定するものでは断じてない。先にも述べたように、〈節談説教〉においても、本堂に、あるいは、教会堂に集まった人々を集団として捉えるのであれば、そこでみられることとなる激しい昂揚の場面は、デュルケムの理論を以て、適切に述べられるべきである。この論文は、そうしたエミール・デュルケム氏の視座からずれたところで、個人及びそのニーズに強調点を置きながら、集団の中の説教者(あるいは、伝道者)という存在について、そして、究極性に対する個々の〈人間〉のいとなみと、その一対一の世界というものについて、論考を進めようとするものである。

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I 浄土真宗の節談説教
1.法然から親鸞への系譜

法然(1133ー1212)・親鸞(1173ー1262)の浄土教の布教に従う説教者達は、その教線拡張が意図的となり、顕密諸宗の高度で難解な経典講説を排し、聴衆の興味や関心を引き起こすべく過去の説教にはなかった技術に注目して、信者、聴衆の獲得に力を入れるようになった。「中世新興仏教の説教は、内容は説話を多用して民衆の娯楽的欲求を受けとめ、譬喩因縁談に重点を置き、高座の上から巧みに話しかけ、身振り手振りよく、表情に感情をこめ、声を鍛えて美声に抑揚をつけ、時におかしく、時に悲しく、あらゆる方法で話芸の型を作った。いわゆる『節談説教』の完成である」(6)

浄土教の庶民性溢れる説教が行われる基を築いたのは安居院の澄憲(1126ー1203)・聖覚(1167ー1235)であり、それが軌道に乗るのは聖覚が法然の浄土門に帰してからであった。その庶民的説教は飛躍的な発展を遂げ、芸能化してゆき、『元亨釈書』において「變態百モゝ。揺身首音韻。言貴偶儷コウリヲ理主哀讃。毎檀主。常加佛徳。欲人心先或自泣。痛哉無上正真之道。流爲詐僞俳優之伎(7) と、説教に携わる者への反省を促される形態となる。しかし、その飛躍的発展と芸能化の大本に、法然と親鸞の説教に対する基本的態度があったことを、忘れてはならないのである。

法然は『選択本願念仏集』において、伽藍仏教を否定する立場を採り、南都北嶺の学僧を、さらに知識階級を否定し、そして、持戒律をも否定してしまった。「もしそれ造像起塔をもて、本願としたまはば、すなわち貧窮困乏の類は、定めて往生の望みを絶たん。然るに富貴の者は少く、貧賤の者は甚だ多し。もし智恵高才をもって本願としたまはば、則ち愚鈍下智の者は、定めて往生の望みを絶たん。然るに智恵ある者は少く、愚癡なる者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願としたまはば、則ち少聞少見の輩は、定めて往生の望みを絶たん。然るに多聞の者は少く、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願としたまはば、則ち破戒無戒の人は、定めて往生の望みを絶たん。然るに持戒の者は少く、破戒の者は甚だ多し」(8) と、曾て叡山第一の秀才と謳われた博学で、生涯持戒の人であった法然が、敢えてこう言わなければならなかったのは、乱世に揺れ動く民衆の為に説く仏法が斯くの如くでなければならなかったからである。本来、思想の伝達の場における「対民衆接触」は、思想そのもの、あるいは、思想の創造そのものにとって、第二義的な問題である。飽く迄思想伝達の相手にこだわるならば、或知的宗教思想の受容層が下層庶民であるということは、その思想の論理が庶民の感性そのものであるか、あるいは、その思想が庶民の感性によって変容されて受容されたものであるかの、何れかとなろう(9)。しかしながら、法然は危険を承知の上で、ここに説教の基本的態度を明示したのであった。法然入定後の浄土教系の説教は、総てこの法然の発言を基にして発展して来たのである。

「民衆の歎きや訴えを心に受けとめ、自らそれに妥協して平易軽妙な形で底辺の人々と結びつくのが説教の極意である。〔中略〕ただ無智文盲の人々の心の友となり、その心の中に自ら入りこもうとした。法然が念仏を唱導するについては、この説教の奥義を示すことがきわめて重要である。ただ唱えるというだけでは外形のみにとどまることになり、普及させるのには微弱な力しか出せない。苦しみ、悩み、悶える民衆の心に思想を形成する基本的条件を置く説教に法然が力を注いだことは特に注意すべきだ」(10) と、関山和夫氏は述べている。

このような法然と聖覚が結びついたことに因って、説教の日常化は作され、その時点から庶民性豊かな話芸の性格を強く帯び始める。そして、芸能性を持つ説教、いわゆる節談説教を、聖覚が完成したとされるのである。仏教の高邁で難解な教義をいきなり説いても、民衆にはとても解るものではない。そこで民衆の有りの儘の感覚に直接的に訴えるべく、身振り手振りや顔の表情等の演技性を重んじ、また、声明のように説教にも節やリズムを付けるという歌謡性を加味したのである(11)

このような説教のかたちが齎されたのは、いかなる人間も念仏によって「平等往生」し得る教えこそが、易行道たる淨土門であるとする、徹底した法然の思想内容と、もう一方にある、説教を聴聞する対象の類型との、双方向からの、説教というものへの接触と影響の下に突き動かされゆく、必然性が存在したからである。

「タトヒ法然聖人ニスカサレマヒラセテ、念仏シテ地獄ニオチタリトモ、サラニ後悔スベカラズサフラウ」(『歎異抄』(12))と信心決定の縁を法然に依って結ぶ親鸞は、「キクトイフハ、本願ヲキゝテウタガフコゝロナキヲ、聞トイフナリ。マタキクトイフハ、信心ヲアラワス御ノリナリ」(『一念多念文意』(13))、「親鸞ニオキテハ、タゞ念仏シテ弥陀ニタスケラレマヒラスベシト、ヨキヒトノオホセヲカフリテ信ズルホカニ、別ノ子細ナキナリ」(『歎異抄』)と述べている。仏教は「如是我聞」に極まるとも言えるが、如来の招喚の声との呼応の中に、「聞法」・「聞即信」こそ、親鸞の全化導の根底に流れる態度であった。当然のことながら、経典が編まれた後に、「聞」というものの内容は拡大したであろう。目で見る「聞」もあったであろう。しかし、「聞く」ということは、厳然たる一つの流れとしてあったのである。ヨキヒトと己が信ずるその人の口から直に語られる言葉を、自らの耳を以て聞くことが、直ちに信に結びつくのである。したがって、聞法・聞即信は浄土真宗の説教の根本となり、他宗の比ではない程にその説教が激しく行われたのは当然のことであろう。浄土真宗の説教においては、阿弥陀如来と親鸞の代弁者である(あるいは、〈代わり身〉である)という自覚が、説教者の必須条件でなければならぬのである。「一文不通のともがらの」、「具縛の凡夫、屠沽の下類」たる人々にとって、絶対視し得る、そして、信じ得る、具体的な人格をそなえた生き身の説教者の存在が、如何に聞信を可能ならしめるように思われたことであろうか。平易な、直接的な肯定を以て、説教者は、民衆の霊的探求の旅に、一つの答えを与えたのである(By simple, direct affirmations they gave an answer to the spiritual quest of the common man(14)

聖覚は『唯信鈔』において、聞と信とが限り限りの処で相揃う「聞即信」の謂れを夙に説いていたのであった(15)。親鸞の教忍御坊に宛てた返書(建長三年〔1251〕、親鸞七十七歳の消息)に、三度に渡って「『唯信鈔』をよくよく御覧さふらふべし」とあるように、親鸞は常にこの『唯信鈔』を勧めたとされる。そして、自らもこれを筆写し、さらには注釈して『唯信鈔文意』(16) を撰述している。また、親鸞が聖覚の説教に感佩していたことも十分に考え得る(17) だけではなく、親鸞は聖覚を大いに尊び、民衆の間に布教する技術を、この聖覚から学んだとさえ言われている(18) のである。

親鸞の化導を知る為に重要なもう一つのことは、和讃の詠出である(19)

彌陀大悲の誓願を

ふかく信ぜむひとはみな

ねてもさめてもへだてなく

南無阿彌陀佛をとなふべし

五濁惡時惡世界

濁惡邪見の衆生には

彌陀の名號あたへてぞ

恆沙の諸佛すゝめたる

この様な形式は全く前例がなく、諷誦を目的とする立場から言えば、実際的な便宜上において革新的な意味を持つのである。言葉の中に含まれる響きや語感、いわば言葉のもつパトスを聞きとることにおいて、親鸞が非常に優れていたであろうことは、吉川正二氏も指摘する処であるが(20)、実に、親鸞の和讃は、言葉を一語一語置いて書かれ、その選定には厳しさがあり、リズムに迫力を持つ。しかし、七五調の四句と定められた形式に、節付けは容易であり、誰にでも馴染み易い。親鸞は、和讃を、「石・瓦・礫の如くなる」民衆のものとしたのであった。関山和夫氏は「雑芸、今様歌の効果を親鸞は熟知し、庶民感情に訴える形式を考えたのであろう」(21) と述べ、多屋頼俊氏は「聖人〔親鸞〕は和讃を作られる時に、あるフシをつけて自身で口ずさみながら書きつけておられたのではないか」(22) と述べている。

こうした和讃の詠出においてばかりではなく、親鸞が経文や先師の言葉に接しまたそれらを選択筆写しながら、静かに声を発して朗誦したであろうとするのは、亀井勝一郎氏である。「誦するときは言葉のもつ調べや陰翳やつまり言葉のいのちをはっきりと聞きわけて、心のうちに吸いこむことだ。誦するときの自分の声は、自分の声にして自分の声ではない。如来の声がのりうつっている。我ならぬ声を我において聞くことだ。写すときはかく吸いこんだ言葉のいのちを再び形としてあらわすことだ。経文先師の言葉への味到と肉体化はこうして行われるのであろう。親鸞は口ずさみながら写したに相違ないと思う」(23)。さらに、豊田国夫氏においては、「親鸞は言葉を全人格的なものと解釈」していたのであり、「実に、聞くということは親鸞にとって、ただ理をきくということよりも、もっと徹して言葉の霊を聞くことであったのである」とされる(24)

果たして、親鸞の「聞法」に、言霊信仰の領域へと繋がるものがあったのか否か、ここでは言及し得ないのであるが(25)、明らかなことは、親鸞が、民衆の生き方を自己の思想の原点に据えて、民衆の救済を常に考えながら、如何に浄土門の教えを大衆化するかということに、様々な角度からアプローチしたということである。『一念多念文意』において「ヰナカノヒトゞゝノ文字ノコゝロモシラズ、アサマシキ愚癡キワマリナキユヘニ、ヤスクコゝロエサセムトテ、オナジコトヲトリカエシトリカエシカキツケタリ。コゝロアラムヒトハ、オカシクオモフベシ、アザケリヲナスベシ。シカレドモ、ヒトノソシリヲカヘリミズ、ヒトスヂニオロカナルヒトビトヲ、コゝロヘヤスカラムトテシルセルナリ」と親鸞が後記していることは、民衆教化の奥義を示すものと考えられる。つまり「同じことを繰り返し繰り返し」述べることが、極めて重要な事項となるのである。

柳宗悦氏は『南無阿弥陀仏』において、民芸〔品〕の美と浄土門の教えとを密接に係わるものとして捉え、次のように述べている。「凡夫たる工人たちからどうして成仏している品物が生れてくるのか。仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があることがわかる。有難いことにこの繰り返しは才能の差違を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰り返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ不思議を生む。なぜならこれで自己を離れ自己を超える。或いは自己が、働きそのものに乗り移ると言ってもよい。自分であって自分でなくなる。〔中略〕『我』を去らしむものは、多念であり反復である」(26)

仏教が皇室や貴族のものであった時代は既に過ぎた。民衆の自覚は促され、文化は庶民の文化として熟してゆく。続く戦乱やこの世の栄枯盛衰等を目の当たりにした民衆の心に訴えるべく、あるいは、理智よりも情操に豊かな民衆に訴えるべく、浄土教は「悲」の面に仏教を輝かせたと言えるであろう(27)。その大役を担ったのが、フィーリングを見事に利かせ、高座の上から巧みに語りかけながら、身振り手振りや鍛えた美声の抑揚とリズムを以て、念仏往生の教えを、そして、阿弥陀如来の音声を現わす節談説教であったのである。しかし、そこには、民衆を救わねばならぬ、そして、民衆と共に救われようとする、法然・親鸞の念仏往生を自らの切実なる肉声として説く思想こそが、節談説教を突き動かすものとして、あるいは、節談説教の生命として、その根底に在ったことを、決して忘れてはならないのである。

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I 浄土真宗の節談説教
2.安居院流の生成過程とその影響

法然・親鸞の出現と共に、皇族や貴族を対象として行われることが多かった上代、中古の顕密諸宗の説教の方法は、大きな変貌を遂げることとなる。その技術上、著しい進展の直接の担い手となったのが、平安末期から鎌倉時代にかけて現われた説教の巨匠澄憲(28) とその子聖覚(29) であった。澄憲と聖覚が京都で立てた安居院流は、日本の説教史に一大エポックを画したばかりではなく、後世の説教に絶大な影響を及ぼし、正統の節談説教として、その系統が現在に迄繋がるのである。

天台の学を修めた澄憲(1126ー1203)は、早くからその辯才を知られ、承安四年(1174)五月の最勝講の論議に列した際には、弁論縦横にしてその右に出る者がなかったとされる。また、この時清涼殿において、表白文のうちに雨を祈って験があり [龍神道理に責められ、天地感応して、陰雲忽ちに引き覆ひ、大雨頗りに下りけり]、権大僧都に任ぜられた話 [権少僧都澄憲が説法の効験掲焉きなり。仍て権大僧都に上げ給ふ](『源平盛衰記』)は有名である。後年、大僧都となり、安元三年(1177)には法印に叙せられ世に澄憲法印と尊称されるが、程なくして京都・一条小路大宮通りの安居院に退去し、法体にありながら自ら妻を娶った。この法印の妻帯は道俗を驚かせ、非難を集めたが(30)、澄憲は、その驚きと非難の衆目の中で、独自の信念を披瀝し、得意の弁舌を駆使した説教を以て道俗の教化に尽力するという、説教一筋の生活を始めたとされるのである。おそらくこれは、「説教する」ということが、僧侶の生き方の一つの類型、ないしは、僧侶の修行の一つの型となっていくという、その制度化の先駆的一端を窺わせるものであろう。そして、破戒の法印であるにも拘わらず、そのずば抜けた説教技術の力(31) により、澄憲は、熱烈な支持を受けたのであるという。

澄憲の閲歴とその卓越した説教については、『元亨釈書』の他、『尊卑文脈』、『業資王記』、『玉葉』等の諸本に拠り(32)、かなり詳しく知ることが出来る。その「説法神也、又妙也」(玉葉)と評された澄憲の説教の見事さは、それらの諸書に頻出するが、中でも「四海大唱導一天名人也。此一流能説正統也」(尊卑文脈)とする激賞は注目すべきものであろう。また、養和元年四月三十日の条の「説法之中多吐世上不可云々」(玉葉)により、時事問題に触れながらの説教であったこと、そして、寿永元年十二月二十八日の条の「説法優美衆人拭涙」(玉葉)や建久二年閏十二月三日の条の「今日説法万人拭涙」(玉葉)により、「満座動心情」(玉葉)という程に情感溢れる説教であったことが、容易に想像されるのである。さらに、女人不浄を切り札とする僧徒の中にあって、一切女人は三世諸仏真実の母であり、女は男に勝る、と説教して聴衆の耳を驚かし、「珍事有興言」と評されたこと(33) や、平清盛・重盛を不快にさせたその当意即妙の皮肉と機知(34) についての話がみられ、澄憲の人物をも窺わせている。

「澄憲の説教は、頗る機知に富んだ興趣横溢の高座を展開し、しかも豊かな学識と教養に裏うちされたものであり、まさに近世以後に盛行する日本話芸(35) の源流に君臨した」(36) のである。そして、その優れた辯才と卓越した説教技術は、第三子の聖覚に継承された。

比叡山竹林房の静厳に師事して正統の学を修めた聖覚(1167ー1235)は、文筆にも長じたが、特に、その説教においては絶妙なるものがあったとされる。「説教こそ浄土への道」であるとし、父澄憲と同じく安居院に住して、父子共に安居院の法印と称せられたという。法然の浄土門に帰してからの聖覚は、説教を以て自らの業とし、また、説教を通じて教学の面でも一家を成している。浄土宗では、聖覚を「説教念仏義の祖」あるいは「説法義の祖」(『浄土三国仏祖伝集』)と呼び、敬ったのである。

聖覚については、『玉葉』、『明月記』、『法然上人行状画図』、『浄土伝燈録』等の諸本に拠って知り得る他に、後世の説教(『親鸞聖人御一代記』(37) 等)や、浄土宗・浄土真宗の説教師達の間に継承されている多数の伝説に拠り(38)、その姿、そして、如何に彼が説教の名人であったかということが、容易に想像されるのである。「天下大導師名人也、能説名人」(尊卑文脈)と註される聖覚の説教については、建久二年閏十二月二十二日の条に「説法優美」、建暦二年二月十八日の条に「説法優美可感」(玉葉)と評され、元久三年四月十六日の条に「次予佛事、御導師前權少僧都聖學、説法如富楼那、萬人落涙」、建永元年九月六日の条に「涙湿襟」(三長記)と記されているが、その他に、高野山に請ぜられて「耳目を驚かす説法」をしたことや、元久二年八月に法然の病を説教で治療したこと [瘧病療治祈祷で、聖覚は、善導の御影を前に説法したと伝わる(『法然上人伝記』、『法然上人伝絵詞』、『行状絵図』)] (I) 等が伝えられている。また、聖覚は、『四十八願釈』五巻、『十六門記』(『黒谷源空上人伝』)、『唯信鈔』、『大原談義聞書鈔』等の著作を残している。これらの書は皆、浄土宗・浄土真宗の説教に直接繋がるものである(39)

澄憲・聖覚の「安居院の法印」の名声が高まり、その説教の流儀は「安居院流」と呼ばれ、さらに、聖覚から隆承 − 憲実 − 憲基と真弟相承した為に、安居院流の説教は、後世に影響する処が甚だしかった(40)。この安居院流の系譜を芸能史的立場から見ると、いわゆる説教者の家元である。そして、中世から近世を経て明治に至る迄、その説教の型は、主として浄土宗・浄土真宗(特に浄土真宗)に伝承されたのである。

安居院流唱導の特色を述べた櫛田良洪氏の説(41) と、それに対する関山和夫氏の異論(42) においては、両氏が指摘するそれぞれの事項について注意が必要である。両氏の説をも併せ考えた上での、安居院流の生成過程は、以下に述べるようなものとなるであろう。

貴族仏教から庶民仏教への過渡的時代にあたって、澄憲を中心とした安居院流初期の説教は、修辞を主とした表白体のものであった。それは、あくまでも台密古来の法華と弥陀思想に讃同する浄土信仰に依りながら(43)、造寺造塔の功徳を肯定し、さらに諸行往生を説く一方で、一向専修、弥陀本願思想をも説くというものであった。安居院流の唱導は、「説教の聴聞と供養はそのまま浄土への道につながる」という独特の持論に立つのであるが、おそらく、澄憲においては、阿弥陀信仰を強調し、易行道として弥陀浄土への往生を説きながらも、その思想が未だ法然のそれとは異なっていたのであり、当時の天台浄土教の儀式・形式主義的な世俗化の限界を打破し得なかったということであろう。また、それは、旧来の貴族的色彩が濃く、庶民性に乏しいものではあったが、表白文の巧拙、音声の清濁抑揚を以て、適切にして具体的な名文が響く時、満座の感涙を誘い、「本尊を始め、諸仏の冥鑑もまたこれに応じて、歴然たるものありと」(44)、聴衆は皆表白の霊験を信じたのである。しかし、時代の推移と共に、この表白体説教では聴衆が満足しなくなった(45) のである。源平争乱の巷に追われ、さらには地震、火災、飢饉等の悲惨な現実に直面しながらもそこに生きようとする人々にとって、称名念仏の新思想のみを説くことなく、伝統的権威の下に形式化され、人にも時代にもそぐわない放言や綺語を以ての旧い「唱導」は、享受出来ないものとなったのである。

しかし、聖覚は、その時代の推移を鋭敏に捉えていたのである。安居院流の説教は、末法の世という「具象」に応え、専修念仏への傾向を深めてゆき、一握りの貴族ではなく大衆の側を大きく抱きとめようと、その表白体も漸次形式を柔らげ、中世庶民説教へと傾斜していくのであった。そして、口演(演説体)第一とする方法を採った安居院流の説教は、譬喩因縁談を中心とする民間説話に重点を置き、文芸的要素を濃厚にしていったのである。「澄憲と聖覚と風情はなはだ替りたれども」(『井蛙抄』巻六)と記されているが、これはおそらく、唱導の技術としての語り口の違いのみを指すものではないであろう。さらに、「聖覚法印わが心をしれり」(『法然上人行状画図』[『勅修御伝』])という法然の言葉は、聖覚と法然の思想的立場の同一性を端的に示すもの(46) であり、したがって、聖覚が中心となった安居院流の説教は、最早先に述べたような過渡的なものではなく、完全なる専修念仏を広める、民衆の為の庶民説教の樹立であった。そして、それは同時に、軈て日本仏教史上最も激しく行われることとなる、浄土真宗の節談説教の基盤の確立でもあったのである。

澄憲に始まる唱導説教の独特な展開は聖覚によって大成され、ここに安居院流は「上代、中古に行われた説教(顕密諸宗の経典講説)とは全く違った、完全な庶民対象の日本浄土教の思想を背景にした新しい説教の理論と方法を創造し、確立した」(47) のであった。

聖覚の弟子信承法印の撰になる『法則集』(48) には、導師の上堂、着座にはじまり、香炉の持ち方、磬の打ち方、そして、その法会の種類に応じた語句の用い方、発声の方法等が述べられ、また、その儀式の進行に従いながら、神分、表白、願文、発願、四弘誓願、風誦文、教化(歌謡)の次に説法となり、続いての別願、廻向、総廻向、降座、終わりに布教等という具合に、唱導説教のルールが、「口伝云」(秘伝口授)という形で、安居院流独特の発音法からあらゆる進退作法の細かな点に迄及び、さらには、その精神的な心構えにも及んで、実によく説かれている。安居院流の説教が、当時の法会に参加したあらゆる人々、すなわち、貴人から庶民に至る各層の聴衆に如何に大きな影響を与えたかということは、当時の、庶民の中にはいなかった記録者による、日記や後の物語から想像するばかりであるが、人々を感涙に噎せばせたはずのその説教の背後に、周到緻密な説教者の用意が、言い換えれば、宗教儀礼としての制度化という一面が存在していたことを、この『法則集』は語っているのである。

安居院流の澄憲・聖覚の説教が、後の戦記文学や説話文学に与えた影響は、非常に大きいものであった。一般に、説教が日本文学史上で最も大きな影響を与えるのは、中世の語りものの文芸においてであるが、安居院流の唱導は、中世語りもの文芸を育てた母胎とも言うべきものであった。

壮人老少不定なりとも皆別れぬ。
老ゆけば生者も必ず滅して残らず。
諸行無常。是生滅法。
祇園頗梨の鐘、耳に盈てり。
『平家物語』冒頭の文章かと思われるこの文句は、『澄憲表白集』の中の一節である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という美辞麗句で始まる『平家物語』の名文が、安居院流説教の名調子に発したものであることは、略間違いがないとされている(49)。語りものにおいては、このような哀調を帯びた歯切れの良い美文に続き、登場人物の対話や行動が生きいきと描写されていく。それは、説教において、感銘的な表白文が読み上げられた後に、説教師が、譬喩因縁談を中心とする説話内容を具体的な描写で巧みに語り出してゆく構成と、まったく同じものである。優れた話術や身振り手振りの効用も然る事ながら、如何に聴衆を感じせしめる文章(説教台本)を著わすか、そして、その為にはどのような文体を確立すべきかということについても、説教師達は力を尽くしていったのである。説教の家元とされる安居院流が、厖大な説教唱導集を作成し、周到緻密な文献を整えていた(50) ことからも、その力の入れようは明らかであろう。

無常の観念は、日本の文芸の全てを通して強く流れる詠嘆の思いである。この「無常」が、一つの思潮となって、世俗化され流布され、遂には民衆の中へと滲み込んでいく背景には、いわば観念と現実との結びつきとなる、人々の実生活の中での体験と共に、説教における(説教師による)意識的な強調という操作が強く働いていたと思われる。また、譬喩因縁談において、この世に生起する様々な出来事を因果応報の観点でみようとすることは、さらに進めれば、定められたものからは決して逃れることが出来ないという、暗い宿命観となるであろう。安居院流をはじめとする当時の唱導文芸が持つ「悲」(51) と「暗」のイメージは、人々に新たな世界を教え、新しい思想形成の芽生えを示唆するものとなったのである。しかし、民衆は、その「無常」や「因果応報」を感じとった時、それらを素直に受け入れると同時に、その重暗いイメージを転化するエネルギー、あるいは、バイタリティーを自らの中に発見してゆくのであった。それが、人々の念仏の声であり、また、唱導文芸における笑話や滑稽談であり、そして、説教浄瑠璃『さんせい太夫』のような、民衆感情(民衆の苦悩、怨み、希求等)の吐露とも思われる文芸作品へと繋がっていったのである。これらは、歴史の上に書かれざる庶民の文化史であり、民衆の表現し得る自分達の心の現われとしての〈儀礼〉なのである。

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I 浄土真宗の節談説教
3.祖父江省念師の節談説教

「あらゆる辛酸をなめながらの説教一筋の生活」、「日本仏教伝統の節談説教を現代に継承する正統説教者、独特の美声によるすぐれた表出力は、現在日本一の評判が高い」(52) とされながら、この一月に、「生涯をかけての使命を全うされ、淨土に笑いを含んで帰られる」(53) という「大往生」(54) を遂げた祖父江省念師は、歴とした浄土真宗大谷派の布教師であり、優れた宗教家である。省念師は、断じて芸能者ではない。しかし、師が日本の芸能(落語、講談、浪曲等)の源流である節談説教を現代に的確に伝えていること、そして、師の名説教には伝統的な説教者の条件が整い、それが「法芸一如」の真の姿の現出であることは、文化史的な高い価値と芸能史における大きな意味を持つのである。

省念師は、明治41年9月18日、岐阜県安八郡大薮町四郷に生まれた。父は祖父江安太郎、母はのうといい、貧しい小作人であったという。働いても働いても貧しさに追われ、小作人というのは実に惨めなものであったらしい。地主に対して頭を地面に擦りつけ、涙を流して懇願せねばならぬ父親の姿を見たことから、省念師は、出家して僧侶になる決心を固めたという。

私は、あの八歳の時に初めて説教した。八歳の時たなぁ信心も安心もないって、ただ書き放題。便箋四枚に説教書いてもらって、それを寝ても覚めても丸覚えに覚えて、それでま、説教を初めてやった。それはえー、十二月の二十七日、それはその、昔は全部お通夜ってこと、そいで私は二十七日の晩、お通夜の晩に説教をやった。昔は皆こういう高座ですから、高座へ上って、その説教やろうと思ったら、こう御堂は縁側迄いっぺい。だからあんまり仰山その人が出る、ぼーうとなっちゃって、全部忘れちゃった。ほしたら高座の前にあの、一年生の、えー二年生か、友達がおって、ほいで口々に「忘れたな、ありゃ」、「何もよう言えせんじゃね」、そ言うもんで「やかましいわ、おみゃーらは」、叱っとったら、ぽっと思いでぇた。だから怒ることもたまたまええもんじゃ、思って讃題をやって、ほいでその時、まだ私は覚えとるが、御開山が叡山からえーそのまま、その当時は、六角堂へ通わっしゃったことがあった。で、その時の話が、「〔節づけで〕寒風凜凜と吹き来たりはなようと進む時は、八寒地獄の苦しみは如何がであろうぞとそれを思し召しての御苦労じゃ」、こういう話を作ってあった、幾つかな。おじいさんからおばぁさん泣いちゃってさ、ほいで、高座から下りたら、「お前は偉い」、で、まぁ、飴玉くれるやらお賽銭くれるやら、説教ぐれぇええものはねぇなぁと思って、そいでやみつきになっちゃって・・・。
この時の説教内容は、『親鸞聖人御一代記』からの「六角堂参詣」の段を引くものであり、その節づけについては、五線譜で表記すれば、別頁の「Fushidansekkyo Material 1-b」に記すようなものであった。

こうして八歳から説教を始めたとはいえ、実際に省念師が、「単なる僧侶で終わるのではなく、立派な説教師になろう」という思いを抱くに至ったのは、師の北海道時代(55) のことであるという。その思いは強く、優れた布教師(説教師)となる為に、本格的・実践的な勉強に取り組もうとする省念師は、十五歳から足掛け六年居た北海道を後にして、内地へ戻ることとするのであった。

当時、東海三県には、説教師として活躍している名僧が、郡雄割拠という状態で存在していたとされる。それらの名説教者や説教所の賑わいについては関山和夫氏が詳しく述べている(『説教の歴史的研究』他)が、省念師によれば、服部三智麿(1870ー1944)、宮部円成(1854ー1934)の両雄に、滋賀県の竹村治、森智寿、北陸からは川上晃英、岐阜県には里雄晃曜、長島純信、三重県には古池秀賢、藤岡大謙、藤井静本というように、名立たる説教者達が人気を競い合いながら説法し、どの寺も聴聞の群参でいっぱいであったという。省念師は、その中で、華やかではないがまじめな宗学の話をし、「今釈迦」と呼ばれる程に説法に優れたという名僧、古池秀賢師に師事することとなるのである。

古池師の、「何席しゃべっても、一日中話し続けても、まず枯れない声にしなければ説教師としてはやっていけない。昔から"一声二節三男"(56) といって、本格的な布教師になるには、声が一番大事だ」という指摘を受けて、省念師は、声の訓練を敢行した。

ということは、今はねマイクがあるんです。だからどんな声でもマイクを通ずれば、大抵は皆に聞こえるような説教がやれますが、昔はマイクがないんです。だから、大本堂の別院とか、本山で、話をやったら、一席で声が潰れっちゃう。だから、「本当の、本格的の説教者になるというならば、声を潰さなあかん。俗に声を破れ」と……。
私の住んどった寺は、その養老町と言いまして、養老の滝があった。そこ迄自転車で行くと大体四十分で行く。〔中略〕時間が遅なると、人が大勢来ますから、人がおらん四時頃から、二時間位その滝のどつぼ落ちる音とま、競争してそこで、やっとる内に、本当に三日経ったら、もう、全然、うんともすんとも声が出ん。ほいでもやっとったら、五日目位から喉から血が出て、ぽんぽんに喉腫れちゃって、もう流動物も通らん。それでも我慢してやっとりましたら、一週間位経ったら徐々に出てきた声が、今の声……。

新しい声が出るようになり、省念師の「随行」(57) 時代が本式に始まった。当時の説教は、昼から始めて、その夜、翌日の午前中で「一昼夜」と言い、説教師は昼、夜、朝に二席ずつ、そして、随行は一席ずつ、行うのが東海地方では常套であった。したがって、二昼夜といえば、随行は六席分の説教を考えてゆかねばならず、事前に、自分自身で話材を探し、台本を構成し、その中で抑揚(節)をつける箇所には創意と工夫を凝らして、それらの全てを覚えていくのである。師匠である説教師は、随行のそれを聞いて注意を与えるのであるが、古池師は、随行を滅多に褒めず、小言ばかりで、特に宗学については厳しく、それぞれの話の根拠、つまり出典に関して迄を一々問い質す人であったという。

当時言われていた説教上達法のコツとは、「読み、書き、語り、人に聞かせて、クセ直せ」というものであった。本を読んでも話に使えるのは一冊の中で二つか三つの話材であるから、たくさん読んで説教の材料を探し、台本を構成して確りと書き、それを口に乗り易いように何度も語り、人に聞いてもらって悪いクセを直せというものである。「当り前のことでも、それしかない。これを繰り返すことによって話芸も磨かれてくるわけです」と省念師は述べている。

随行は、説法のことに専心するばかりではなく、師匠である説教師の荷物運びから身の回りの世話迄をこなし、忙しく動かなければならなかった。しかし、そうした中にも学ぶことは非常に多かったとされるのである。古池師の話すことは、例えば、酒を飲みながら、風呂に入りながらも、宗学に係わる話ばかりであり、省念師にとってはそのどれもが勉強になるものであったという。また、招かれた先の寺の住職と宗学を巡って大激論に及ぶ等、古池師の、確固たる考えと揺るぎない信念を持ち、命がけで法の真理を追求しようとする真摯な姿は、省念師の記憶に鮮やかに残るものであるという。こうした点からみれば、随行制度とは、単に技能や形の伝承・習得をなすのみならず、弟子にとっては、師匠たる説教者の生活への接近によって、その精神(心)というものの習得において、〈師匠の世界〉への「潜入」(58) を容易にするものであると言えよう。

二年の随行時代を過ごし、昭和5年、二十二歳で省念師は独立する。その一席が、聞即信の一念で人々を救うか救われぬかの瀬戸際であることも然る事ながら、当時は布教師を目指す者が多く、ライバル同士の激しい競合や、一回の説教で、直ちにはっきりする次の仕事の有無という現実からも、一席一席が説教師にとって真剣勝負であったという。そして、省念師の説教一筋の生活は六十余年にも及び、一席一席が真剣勝負であることは常に変わらず同じであった。省念師は言う、「親鸞聖人が見てござる」。

さて、説教にはユーモアが必要である。省念師は、一つの哲理や教えが浮かんでくるのが本当の「笑い」(III) であると言う。例えば、「爆笑の連続で、しかも人間のあさましさを教えられる」、あるいは、「笑いながら考え、涙を流させられる。泣きながらまた笑う」というような笑いのことである。言い換えれば、そうした笑いは、聴衆の心を惹きつけ一喜一憂させながら、笑話として止まるのではなく、法に合わせて語られるのである。省念師は、様々にある笑いというものを研究し、自己の説教にどんどん取り入れるべく工夫を凝らしていったのである。小沢昭一氏も述べるように(59)、省念師の説教は、まず人間生活の機微をうがって聴衆を笑わせるのである。

儂の近くにな、まー、ころっと死にてぇーでっちゅうて、〔ポックリ寺へ〕三遍まぁった奴が今中気で寝とるがや、……平生が大事だで、そういう嫁を、あんな者にはめんどう見てもらわんでもいい、俺ぁポックリ死ぬでっちゅうてやっとるが、中気になって今寝とる婆さ毎日泣いとるわ、なんでやったら、おしめ換えるたんびにやな、今の嫁さん利口じゃで、昔の嫁さんならパンパン尻叩くで、音がしるえ、隣近所が評判になるわ、今の嫁はそんなことやらんの、おしめ換えるたんびに平生の憎しみが、この時とばかりに、キリー、キリー、ええわ婆さま言語障害だで物もよう言えせん声も出ん、アウッアウッアウッアウッアウッアウッ、ほいで娘が来て「この尻の黒いのはなんでやも?」「そりゃ寝だこでしょ」って、平生が大事やで……。

省念師は、人々にとってごく身近な興味深い事実を材料とし、それを具体的に、ユーモアを交えながら、聴衆に向かい滔々と話しかけていく。それに対して聴衆は、一々頷いたり、あるいは、驚いたりしながらも、大笑いを繰り返していく。夫婦、姑と嫁、病気、金の問題等、次から次へと話は別々のものへ移っていくかのように聞こえるが、実は、同じことを語っているのであり、それらから導かれる先の焦点は一つである。そして、聖人伝や説話から引く話が語られ始め、その譬喩因縁談が佳境に入るにつれ、聴衆は目頭に涙を浮かべてゆくのである。

いただきました御真影を源右衛門は、「アア御真影様お返り下さいましたか、お供をいたしましょう」と、背中に御真影をしょう、可愛い倅源兵衛の生首を風呂敷包みにいたし、前に掛けながらヨロヨロヨロヨロと、後眺めては「ご恩尊や、お慈悲嬉しや南無阿弥陀仏」、前に掛けたる倅の首眺めては、恩愛の情遣る方なく「せがれかわいやなぁー、俺ばかりが恩愛の情に泣くのじゃない、御開山様でものう御和讃の中に、『一切菩薩ののたまはく我ら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて萬善諸行を修せしかど、恩愛甚だ絶ち難く、生死甚だ尽き難し、念仏三昧行じてぞ、罪障を滅し度脱せし』」、どんな苦行よりも、どんな難行よりも、恩愛の情を断ち切る苦しみは耐えられなんだのお知らせじゃが、まして凡夫の源右衛門、せがれかわいてかわいて、泣かずにおれんわやと後眺めては御恩を喜び、前を眺めては恩愛の情の涙を流しヨロヨロヨロヨロと歩いて帰ってくる……。

省念師の美声は益々冴え、話の高潮に随って韻律を帯び、軈て節づけとなる。日本語の特質を生かし、七五調(60) のリズムを基調とする聞かせどころである。これについては、別頁の「Fushidansekkyo Material 1-b」において、その表記の限界、つまり、オタマジャクシにのせると違ってくる、あるいは、こぼれ落ちるものが在るという不完全さを多分に含んだままではあるが、五線譜に記してみた。このような、語り手の口を通した快いリズムによる、耳から心への理解が大きいことにも、留意をすべきであろう。きちんと踏まえられた宗義、巧みに導入された和讃や法語を以て、省念師は、その美声による絶妙な節まわしで、聴衆の心の中へずっと入り込んでゆく。人々は、その見事な節に自らも乗り、陶然と酔いながら、感動し感謝し、その宗教的情熱の中、感極まって念仏が口を吐いて出るのである。この「受け念仏」が湧き起こる頃には、省念師と聴衆とが一体となって輝き合うかのような観となり(61)、両者の見事な呼応の中で、話は否応なしに高潮し、一層の迫力をもって展開されるのである。

こうした省念師の説教は、典型的な五段法を執るものである。まず、讃題には、経論・祖釈の一節がこれから説こうとする一席のテーマとして、節づけで感銘深く読み上げられ、次に、その讃題の法義を今少し平易に解説して、法説となる。そして、譬喩は、それをより一層解り易くする為に、聴衆にとって出来るだけ興味深い、実生活に密着した数々の話題を用いて説くものである。梁の慧皎(?ー592)が「庶民には具体的な事実を示して見聞せる事によせて法を説く」(『高僧伝』)という対機説法の心得を述べているが、これはそのまま日本の説教の場合にも適合する叙述であろう。さらに、因縁では、讃題・法説を証明する事例を挙げるのであるが、ここでは、『親鸞聖人御一代記』や『蓮如上人御一代記』等が中心となり、また、『教行信証』、『歎異抄』、『御文』等を引く話や、妙好人を扱う話が本筋となる。そして、結びとして、結勧で、聴衆に「安心」を与え、今席の話の要諦を述べるという型である。聴衆は、譬喩談で爆笑を繰り返し、因縁談では、涙を零し、その一席が終わる頃には、「サア親が迎えに来たぞー」(62) と、阿弥陀仏に救われたような気持ちに、おそらくなってしまうのである。

「アー御伝鈔はありがたい、御伝鈔はありがたい」と〔聴聞者が〕こう言いますから、私が「御伝鈔のどこがありがたい」、こう訊いてやると、「あの節がなんとも言えませな」なんて節ありがたがってる奴がおる……。

省念師の絶妙な節まわしは、人々の心を揺さぶる。師の説教は、単に言葉を伝えるだけのものではなく、聴衆の耳について離れぬような、美しい音声の表出である。一般に説教に際して緩急抑揚は、話材の内容と相まって或切迫感さえ感ぜしむという、大きな役割を持つのであるが、それは、説く者からのものであると同時に、受けとめる側のものによるところも大きいのである。したがって、余りに感覚的情緒的に受容してしまうということも起こり得るが、それは、先に述べた親鸞の和讃のように、人々において、繰り返したたみ込むようにしていつ迄も唱い続け語り続ける、或生命の表現の〈音〉となってゆくのではないだろうか。その時、音というものは、波動や撓みとしてではなく、精神の姿そのものの具現として感じとられるのである(63)。「私が説教に最も魅かれた部分は、やはりフシでありました」(64) と、小沢昭一氏も述べている。

節談説教音声映像資料
祖父江省念師の節談説教について音声映像として記録した資料です。

- 節談説教音声映像資料 日本語のメインページ

Audio Video Material A2-1, A2-2, A2-3, A1, A3-3, S1, S2 and S3 : 祖父江省念師
A2-1: 節(抑揚)について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-2: 八歳でした初めてのお説教について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-3: 「儂から佛様をとってまったら何も残らん」 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A1: 人々を導く「説教師」になると、はっきりと決意された時のお気持ち (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A3-3: 美声、話術、そして、節まわしについて (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S1: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 雪の中の石枕 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S2: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 我が子善鸞に面会許さず (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S3: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 山伏弁圓 変わりはてたる我が心かな (.mov, .rm, .aif, .mp3)

聴衆にとっての省念師の存在が何であるかは、一席の説教が終わった時点の光景によっても、明らかであろう。人々は、高座の省念師に手を合わせ、南無阿弥陀仏の名号を唱え続ける。ここで注目したいのは、説教者がちょうど本尊を背にするような位置に、高座が置かれているということである。聴衆は、阿弥陀如来、あるいは、親鸞の〈代わり身〉としての省念師に手を合わせ、如来が往生の手立てを廻らし差し向けていることを知り、感謝する為に、名号を唱えるのである。また聴衆は、省念師という具体的な人格をそなえた生き身の説教者の存在を通して、今この時に、彼らの存在もまた、弥陀の働き、その誓願力の廻向に担われていることを、親しく体験する悦びの故に、名号を唱えるのである。

柳宗悦氏をはじめ関山和夫氏等諸氏が、浄土真宗の信者のすばらしい受けとり方、つまり、聴き上手ということを認めている。これは、浄土真宗の聞法・聞即信という全化導の根本的態度に、まず起因するのであろうが、やはり、節談説教の歴史に大きく係わるものであると思われる。すなわち、民衆は自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで節談説教が磨かれてきたという歴史である。その伝統的とも言える呼応の仕組みは、実際の説教の場における、説教師と聴衆との共同作業、あるいは、両者の合作となる、見事な〈節談説教〉へと繋がってゆくのである。さて、省念師は、「囃す」という言葉を使っている。

儂の檀家にね、加藤はるという婆さがおる、〔中略〕うちの報恩講という行事にね、「まぁーりたいけど先生、まぁーれんで悲しい」って電話かけてくる、「なんでまぁーれん」って言ったら、「神経痛でもうどうにも動けんで」、「お前のような丈夫ぃ人が、ちょっとも病気したことない人が、あーそんな病気になったか、まぁええわ。仕方がなぁでな、エー午前十時、午後は一時、お勤めが始まるで、そっからよう囃しとれよ」……。
囃すということは、民謡の「囃し」[掛け声による言葉の「囃子」] やその他の民俗芸能における「囃し方」を想起させるものである。「はやす」という言葉は語源的には霊魂の分割・増殖を意味し、ハヤスことによって霊威が全体に行き渡るとされるが(65)、一方、柳田国男氏は民謡の「囃子」について、「これの起った始めは、歌としての言葉よりも、さらに一段と適切に内の欲求の現われであったと思う」(66) と述べている。いずれにせよ、聴衆のナムマンダブナムマンダブというあの受け念仏が、同様に担っている役割は、節談説教において、さらに重要なものであろう。このことについては、改めて考えてゆきたいと思う。
「受け念仏」についての試論は、拙稿 「交感の芸能性 - 節談説教をめぐって」 (『藝能』通巻四百二十四号、年刊第七号、藝能学会、2001年) において述べた。
補足音声資料 U「受け念仏」の例
「受け念仏」の例として、30秒弱の非常に短い音声資料です。

- 補足音声資料 U「受け念仏」の例 AIFF (Kind: AIFF Audio, Data Size: 396.2 K, Data Rate: 14.3 K bytes/sec, Duration: 00:00:27.18)
- 補足音声資料 U「受け念仏」の例 MP3 (Kind: MP3 Audio, Data Size: 538.3 K, Data Rate: 19.4 K bytes/sec, Duration: 00:00:27.19)

同信の者相集まって声をそろえた時に生ずる連帯感や、お互いの信仰を確かめ合い、同じ一つの信仰に繋がる者としての共に在るという力強さに対する自覚は、教学に基づいた信仰とはまた異なった、体験的な信仰である。しかし、そうした集団となるが故のものばかりではなく、もっと直接に体験的な信仰、つまり、教えから出発しながら、〈人間〉を教えに閉じ込めることのない、そして、単なる観念的・意識的把握ではない、個としての感性的・情意的な体験とでも呼ぶべきものが、節談説教において存在するように思われるのである。そこにみられるものが感性であれ感受性であれ、〈感じる〉ということは、これを自分で止めることができないのである。それが、「神話」を自らの表現として解釈することであり、また、それは、遡れば親鸞の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)という独語によって、肯定されるべきものであろう。省念師の説教を聴きに集まった人々は、「ありがたい、ありがたい」と幸福そうに言う。この「ありがたい、ありがたい」の内実を捉えることが、〈交感〉というものの或側面について、探りゆく糸口となるのではないだろうか。

省念師の説教の録音(カセットテープに)を、世話役の人に頼む参詣者は多い。「夜眠れなかったのが、先生〔省念師〕のお話を聞きながらだと眠れるようになった」と言って、大事そうにテープをしまう老女。「ともかく気持ちがスッとする」と言う中年の女性。「イライラしても、テープを聞けば気持ちが治まるから」と、既に何本もテープを持っている老人達。彼らは、月二回の有隣寺(昭和12年、省念師が寺号を取得)の定例会が待ち遠しい人々、テープでもよいから、省念師の説教を毎日聴かずにはおれない人々である(67)。このような人々にとって、その節談説教は、大きな楽しみであると共に、信仰や祈念を背景とした、感性と情操の結晶とも言うべきものなのである。言い換えれば、芸能化されたとして一段低く見られたこの布教活動こそ、人間生活の直中にあって、人々を救い、その心を癒すものである。またそれは、芸能の原点が本来持つ、素朴な力を見せつけることでもあろう。
[日本の藝能は、もとは藝能としての形を有していなかったものが、繰り返して行われてゆくうちに「行動伝承」となり、藝能化して、藝能となってきたものだと考えられる。例えば、「舞」(「踊り」とは異なる)の藝能化の過程のように、無意識的な行動である憑霊状態に入る前後の動作(信仰上の現象として)等が、次第に固定し、意識化されて、藝能を形づくるようになったということである。尚、藝能から更に芸術となっていったものもあるが、芸術となってしまうと、藝能(あるいは民俗芸術)とは言えない。藝能(あるいは民俗芸術)は我々の「生活」に即しているが、芸術は我々の実際の「生活」から遊離しているからである。参考:『折口信夫全集 21 日本芸能史六講(芸能史1)』(中央公論社、1996年)、折口博士記念古代研究所編『折口信夫全集 國文學篇6』第十二巻(中公文庫、1976年)、『折口信夫全集 民俗學篇1』第十五巻(中公文庫、1976年)および『柳田國男全集 13 先祖の話 日本の祭り 神道と民俗学ほか』(ちくま文庫、1990年)。]

しかし、そうした多くの人々の求心にも拘らず、宗門内部における批判や蔑視等、節談説教に対する否定的方針は立って久しく、それに伴う伝承者の激減、あるいは、後継者の有無の問題は非常に大きい。

あのだいたいー昭和八九年頃に、学者方が、節をつけて説教をやるっちゅうことは、どうもその、エー尊い教えを芸人紛いのような話をする、けしからん、こういうことを言いでぇた。ところが、節がいかんというならね、お経様でも節つけずに読んだらどやろ、え、なむあみだぶなむあみだぶ。それがあの節つけて読むと有り難いでしょ。やっぱりね、「山があってね」という言い方、「高あーい山がぁありまぁして」という方が徹底するんじゃねえの。相撲でもね、「ひがし」、「あけぼの」、そんなこと言うたっておもしろないでしょ。水泳でも、「いちのぉコォース、誰々」、そういうのが、やっぱり節というもいかんけど、これはね抑揚、クライマックスになると自然にこう節が出てくる・・・。みんな ほいでまぁ、えー、よう、私のまぁ、随行二十人位おるけれども、こりゃ皆途中でぼおらけぇて、楽なお経読んでぇた方がお礼もよけ貰えるし……。
このように、祖父江省念師の意気は誠に軒昂であった。

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II バプティスト教会の福音伝道
1.バプティスト教会

プロテスタントの一セクトとしてのバプティスト派は、英国の宗教改革の大きなうねりの中から、十七世紀の宗教史に躍り出た信仰集団である。英国国教会内に積極的に留まって、カルヴィン主義の方向性において教会に対する宗教改革の徹底を試みたピューリタンの運動に限界を認め、国教会の外に出て、聖書の理念を実現しようと願った集団が、分離派(あるいは、独立派)であるが、さらに、その中から、「教会のあるべき姿」を巡って、教会の改革をその制度(教会政治)と礼典において徹底しようとしたのが、バプティスト派である(68)。したがって、彼らの教会運営における「会衆主義」と「自覚的信仰告白」に基づくバプテスマの理念においてこそ、バプティスト派の特徴が最も明らかに示されるのである。

このバプティスト派の流れの中には、アルミニウス主義神学に立つジェネラル・バプティスト(the General Baptists)とカルヴィン主義神学に立つパティキュラー・バプティスト(the Particular Baptists)という、二つの異なった形態(69) がみられ、イエスの贖罪の理念におけるその対象については明らかな相違がある。しかしながら、斎藤剛毅氏も述べるように(70)、それらの教理的相違は、彼らにとって共存をはばむ決定的な要因ではなく、彼らは合同することができたのである。つまり、聖書には、選ばれた特定の者に対する救済の教えもあり、且つ、信じる者すべてに対する救済(万人救済)の教えもあるのである。そして、両者とも同じく、自覚的信仰告白に基づく「真のバプテスマ」(「ローマ人への手紙」第六章及び第十章)によってのみ形成される、自覚的信仰共同体としての「キリストの体なる教会」(corpus christi)の実現を強く望みながら、神の前での「信仰と実践の個人の自由」を守ろうとする、自由教会闘争の道を歩んで来た者達である。また、彼らは、教派創立者としての偉大な神学者をもたなかった。その為に、福音的宣教共同体として、キリストにあっては一つである共存的複数の中で、他教派神学にも心を開き、そして、対話をするという、自由性がバプティスト派の信仰の底流にあるのである。けれども、その故にこそ、バプティスト主義(非国教主義、浸礼による信仰者のバプテスマ、反聖職者主義)を中心としたバプティスト派諸教会の教理の純粋性だけは、常に固く守られるべき必要があったのである。

バプティスト派において、「信仰告白」(71) が、個人における回心、聖霊による新生を内的に体験した者の告白であるのは当然のことであるが、それと同時に、信仰の自由を求める彼らの闘いの主要なテーマと彼らの依り所とするものとが、そこにそうした告白という形で表現されているのであれば、彼らの生き方を最もよく示し得るものは、その信仰告白であろう。パティキュラー・バプティストにおけるそれをみてみると、バプテスマは、「信仰を告白した者のみ」(1644年の『ロンドン告白』(72) 第三十九条)に施される。そして、「バプテスマの様式は全身が水の中に沈められる浸礼」(同第四十a条)であるが、これは、信徒が自己における「死」(古い不信の自分の死)と「埋葬」(古い自己中心の自我の葬り)と「復活」(新しい信仰と愛と希望に生きる自分の新生)という内的事実を、目に見えるしるしとして表現するものであるとされる。また、そうした信徒間に身分的上下関係はありえず、「キリストの委託は、弟子たるものすべてに与えられ」ており、会衆が決議すれば、いかなる「宣教する弟子」による礼典の執行も可能であるのである(同第三十六条から第四十一条、及び、第四十五条)。同様に、ジェネラル・バプティストにおけるそれには、自覚的な信仰告白を以てなすところのバプテスマは、「罪のゆるし、死と新生の外的しるしである」(1610年の『信仰概要』(73) 第十条)とされ、さらには、「それは幼児には属さない」(同第十条)と幼児洗礼の否定が明らかに示されている。また、『警告』(Helwys, An Advertisement, 1611)においてみられるように、その会衆主義の徹底性は明らかなものとなっている。つまり、誰でも二人または三人がキリストの名において集うならば、キリストは彼らのただ中にいる(「マタイによる福音書」18・20)のであり、「それゆえに、彼らは神の民、キリストの教会であり、彼らはキリストとキリストのすべての礼典に対して権利をもっている」のである(74)

イギリスにおける初期バプティスト派諸教会の担い手達は、社会の底辺に生きる人々であった。当時の英国社会の中においては、どのような側面から見ても、彼らが実に「小さい貧しい者の群れ」であったことは疑いのない事実であるとされるが、その経済的理由からも、正式な神学教育を受けた専任の聖職者を招聘することはならず、ただ、彼らの純粋な感性を以て、聖書のみに従い、そして、自分達の中から牧師を選んだのである。それ故、「俗人説教師」、「桶説教師」(75) と嘲笑されたのであるが、「彼らの職業は、牛飼い、ボタン製造師、靴の修繕屋、なめし皮商人、帽子製造師、競馬馬のマッサージ師と、まことに種々様々であった。彼らは当時の言い方によれば《トレイズマン》と呼ばれる人達であった。まさに使徒パウロの如くテントメーカーとしての宣教者であったのである」(76)

M・トルミー(Tolmie, Murray)氏は、こうした信徒による伝道活動の具体的な状況を、1640年代の「イングランド南部全体の大規模な福音伝道運動の拠点」であった、ジェネラル・バプティスト派の信徒伝道者トマス・ラム(Lambe, Thomas)の教会に触れて述べている。それによれば、トマス・ラムの教会ほど「ロンドンの中で目立つ存在」はなく、特に青年男女を引き寄せることにおいては、「劇場と競い合う」程であり、また、「聖日には、他のセクト及び地区から多くの者達が目新らしいことを求めて、このトマス・ラムの教会へ集まってきた」のである(77)。また、E・ダーガン(Dargan, Edwin C.)氏によれば、バプティストの信徒伝道者で後にベドフォードのバプティスト教会牧師となったジョン・バンヤン(Bunyan, John〔1628−1688〕)の説教は、大会衆を集めて深い感動を与えたものであるが、その主要な優れた点は、彼の霊的な力の活気と熱情、そして、現実性にあったとされている。そうした彼の説教については、バンヤン自身の言葉に次のようなものがあるという。「わたしはわたしが感じたこと、わたしが苦しんで感じたこと、わたしの貧しい魂がその下でうめき、驚き震えていたそのことを説教したのです」(78)

アメリカにおける最初のバプティストの教会は、イギリスから移民したロジャー・ウィリアムズ(Williams, Roger)らによって、1639年に、当時の「あらゆる種類の下層庶民の吹き溜まり」(79) とも形容された、ロード・アイランドに建てられたものであるとされる(80)。H・リチャード・ニーバー(Niebuhr, Helmut Richard)氏によれば、「バプテスト派諸教会は、必ずしもヨーロッパ的伝統を引くものだったわけではなく、しばしばフロンティアの宗教運動の生粋の申し子であった。彼らは、移民としてニュー・イングランドのフロンティアであったロード・アイランドに教会を設立し、そこで新世界ですでに確立されていた社会からも旧世界の既成社会からも孤立して、そのセクト的原理を培った」(81) のである。そして、バプティスト教会は、当然のことながら、個人の新生を強調するジョナサン・エドワーズ(Edwards, Jonathan〔1703−1758〕)らの「大覚醒」の時代に、つまり、意志と感情を重視し、回心のしるしとして内的な恩寵の経験の明確な表現を要求するリバイバル(revival)の運動によって、「アメリカ教会」、「フロンティア教会」としての大きな成功を手にして、その数年間に教会が増大していったのである。その後19世紀にも、リバイバル運動はバプティスト教会に継承された。バプティスト派は、西南部のフロンティア世界に伸びて開拓民の宗教的ニーズに応えるばかりではなく、その間には、既成の会衆主義の体制教会との関係を保つことにおいて、困難を感じている人々の受け入れ場所ともなった為に、このバプティストの信仰へと回心する個人は夥しい数にのぼったとされる(82)。なお、その黒人信徒について特に述べるならば、例えば、解放奴隷の圧倒的多数がバプティスト信徒になったのであるが、それは、黒人民衆が、バプティスト派の実行する水による浸礼の儀式とバプティスト的礼拝様式に、強く心を引きつけられたことによるものであるとされる。「なぜなら、彼らは彼らのアフリカ的遺産とバプテスト的慣習との間に、連結点を見い出すことができたからである」(83)

バプティスト派は、このようにして、英国で生まれその後アメリカに渡ると飛躍的な成長を遂げ、パティキュラー・バプティストがその主流をなしながら、今やプロテスタント諸教派の中では、アメリカ最大の教派となるに至っている。パティキュラー・バプティストは、レギュラー・バプティスト(the Regular Baptists)、そして、アメリカにおける分離バプティスト(the Separate Baptists)との合併後に、ユナイテッド・バプティスト(the United Baptists)と呼ばれるようになり、今日の全世界のバプティストの殆どをその内に包含するとされている。一方、ジェネラル・バプティストは、イギリスにおいてパティキュラー・バプティストに吸収、合併されており、また、アメリカにおいて自由意志バプティスト(the Free Will Baptist)派として存在はするものの、その力を充分に発揮することなく現在に至っているとされる。

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II バプティスト教会の福音伝道
2.黒人の霊歌とゴスペル・サウンドの流れ
(84)

奴隷としてアメリカに入国したアフリカの黒人達は、その新大陸で、祖国の伝統と文化の一切を捨てるよう強制された。彼らには合法的な婚姻も認められず、父子関係も許されず、家族的愛情から引き離されて、ただ奴隷労働が強いられたのである。彼らに唯一与えられたものは、「聖書」であった。「古い宗教を捨て、彼らは聖書について教えられ、キリストの教えを知り天国にあこがれた。そしてそれを新しい歌にした。黒人霊歌である」(85)[W・T・ウォーカー氏によれば、霊歌が初めて登場したと予想されるのは、1760年である。 "The best estimate of the earliest appearances of the Spiritual, as we know it, is 1760." Wyatt Tee Walker, "Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change (Valley Forge: Judson Press, 2000), p. 40.]

一般に、黒人の霊歌(Spiritual, Spirituals)とは、「奴隷制時代の黒人達の宗教的体験をうたいあげた歌」、あるいは、「信仰のことば」と定義され、霊歌の「スピリチュアル」は、「世俗的なもの」、「不敬なもの」と対立する、「神を敬うもの」を表わすとされている。ベンジャミン・メイズ(Mays, Benjamin E.)氏は、その神学的分析において、霊歌の意味の「他界的」側面と「報償的」側面を強調する(86) が、ハワード・サーマン(Thurman, Howard)氏は、奴隷達の存在論的衝動に強調を置き、霊歌の最大の宗教的意味は、奴隷制によって絶えず否定されていた彼らの「存在」の肯定に対する(向かう)、奴隷達の探究と主張にあるのだとする(87)。また、J・H・コーン(Cone, James H.)氏においては、「私の意見は、奴隷歌の根底には今まで分析されたことのない、複雑な〈思想〉の世界があるということである。この思想とそれが暗示する根本的世界観を発掘するためには、一層の神学的分析が必要である」(88) と、述べられている。

黒人霊歌とそれが所属する音楽群は、疑いもなく民俗音楽であるが、その構造的起源については、十九世紀末頃から学者の間で激しい論争が行われてきた。まず、ドイツ系の音楽研究家であるリチャード・ウォラシェクが、1893年に発表した『原始音楽』(Primitive Music [Primitive music: An inquiry into the origin and development of music, songs, instruments, dances, and pantomimes of savage races])において、黒人霊歌はヨーロッパ音楽の模倣であると論じたのであるが、これに対して、ハリー・エドワード・クレービエルは、1913年 [その出版は1914年] の『アフロ・アメリカ民謡』(Afro-American Folk songs [Afro-American Folksongs: A Study in Racial and National Music])の中で、黒人霊歌の独創性を強く主張し、これにジョンソンをはじめとする多くの共鳴者が続いたのである。しかし、1928年に、ニューマン・ホワイトが『アメリカ黒人民謡』(American Negro Folk Songs)を、1934年に、ジョージ・パレン・ジャクソンが『南部高地地方の白人霊歌』(White Spirituals of the Southern Uplands [White Spirituals in the Southern Uplands: The Story of the Fasola Folk, Their Songs, Singings, and 'Buckwheat Notes'])をそれぞれに発表し、白人霊歌(89) と黒人霊歌の類似点を挙げた上で、共に、前者が後者に与えた影響を説いたのである。この二人の学説は、多くの支持を得て主流をいくものとなるが、それによって黒人霊歌独創説がまったく息をひそめたわけではなく、両派の論争は現在に迄至っているようである。

山の頂きに身を隠そうと
神さまから身を隠そうと(白人版)。
顔を隠そうと岩山へいった
岩山はさけんだ、 隠れる場所はない、と(黒人版)。
To hide yourself in the mountaintop
To hide yourself from God. (White Spiritual)
Went down to the rocks to hide my face,
The rocks cried out no hiding place. (Negro Spiritual)
これは、よく両者の比較の引き合いに出される、最後の審判の恐怖を語る「隠れる場所はない」(No Hiding Place)であるが、皆河宗一氏は、「黒人霊歌が白人霊歌から影響を受けており、それらの借用であることは、ある程度認めなくてはならぬだろうが、〔中略〕両者を比較してみると黒人版のほうが白人版のそれよりも、力強く、また想像力に富んでいるといえよう」(90) と述べている。

祖国アフリカにあって本来的・文化的に歌を自然なものとした黒人達が、新大陸で奴隷の境遇におかれながら、その苦しみや悲しみの吐け口を歌に求めていくというのは、きわめて自然なことであったであろう。初めは、おそらくフィールド・ソングとして「労働」の歌であったであろうものが、ある時間をかけて、彼らと共にアフリカから齎された宗教心とイエスに対する信仰に必要な適応が熟成した後に、「信仰」の歌となってゆくのである。「新世界のアフリカ人が奴隷主の宗教に適応し、かつアフリカニズムを保持した結果生み出されたものが、今日に至るまで存続している南北戦争前の奴隷のイエス信仰(Jesus-faith)である。黒人霊歌の形で子孫にのこされたこのイエスの信仰が、南北戦争前の奴隷を集団自殺の誘惑から救ったのである。そして、真正の黒人宗教経験の基礎となっているのは、南部の奴隷小屋の中で作られたこの黒人霊歌なのである」(91) と、W・T・ウォーカー(Walker, Wyatt Tee)氏は述べている。

農場主(奴隷所有者)達は、黒人が歌を歌うことを、或場合にははっきりとした要求を以て、大いに奨励したとされる。一つには、話は仕事の手を休めさせるが、歌は仕事の能率を高めるという労働の生産性の向上、それと同時に、奴隷のいる場所についての掌握・確認の為であるが、もう一つには、その歌に表わされる、現世ではなく来世における喜びを説くキリスト教の世界が、奴隷達をして反逆、自殺、逃亡等の行為から防ぐという、或種の安全弁として機能したからである。例えば、「主はひと言もものをいわれなかった」(He Never Said A Mumbling Word)は、

主はピラトの裁きを受けられた
ひと言も ひと言も ひと言もいわれなかった。
They led Him to Pilate's bar
Not a word, not a word, not a word, not a word
They led Him to Pilate's bar
Not a word, not a word, not a word, not a word
They led Him to Pilate's bar
But He never said a mumblin' word
Not a word, not a word, not a word, not a word
と唱うが、それは、ひと言の抗弁もせずに従容として十字架にかけられたイエスの態度から、黒人達に忍苦の精神を学ぶことを教え、それを肯定するものである。黒人霊歌が白人にとってまたとない安全弁となった理由は、こうした霊歌の、奴隷としての実存に心理的な調整を与える手段となる点にあるとされるのである。しかし、ここで注意しなければならないことは、奴隷に対する宗教教育における、「薄められた福音」(92) という、奴隷所有者の側による操作の存在である。多くの場合、奴隷は主人の教会に出席することを許されており、その点からは、白人と黒人のキリスト教徒は同じ礼拝に参加し、同じ教派の教会員であったと言うことも可能である。しかし、その宗教教育については、「奴隷を悪魔から救うには十分であるが、彼らが奴隷状態から救われることを欲するようになるほどのものであってはならなかった。そのため奴隷に読み書きを教えるのを禁じることだけでなく、彼らの宗教体験を注意深く監督することも必要であると考えられた。こうしたことが最もうまくできるのは、彼らを主人の教会に出席させることであった」(93) のである。C・E・リンカーン(Lincoln, C. Eric)氏の論文(94) によれば、あの著名なコトン・メーザー(Mather, Cotton〔1663ー1728〕、会衆派牧師、著作家)でさえも、奴隷の宗教教育については配慮しながら、その教育が労働スケジュールと衝突を起こさないように、また、いかなる反乱や逃亡の計画をも防ぐに十分な人員 [「イングランド系の賢明で善良な者」] を常に配置するようにと、慎重を期していた。そして、多くの場合においてその伝道内容は、奴隷主から見て [「奴隷達を模範的な召し使いとするために」] 健全な聖書的教理、すなわち「奴隷維持」の教理のみを提供するように 、注意が払われていたのである。

しかしそれでもなお、ガードナー・C・テイラー氏が述べるように、「そこには奴隷主たちが聖書の教えとして提示したことが一つあり、同時に奴隷たちが聖書の教えについて聞いた全く違うことがもう一つあるのである。奴隷主たちは奴隷制を『神の定めたもの』として語った。だが奴隷たちは、『私は奴隷になる前に墓に葬られよう』と聞いたのである」(95)。当然のことながら、奴隷達の最大の関心事は、解放と自由(肉体的かつ精神的に)であった。霊歌に一貫して共通するテーマは、「あの世はこんな風ではない」(De udder worl’ is not like dis [The other world is not like this])ということであるが、苦難の共同体の中で、奴隷達は、あの世において、そして望むらくはこの世において解放されることを、つまり、神の超自然的手段によって信仰者が不可能な状況から救い出されるという、聖書的基盤の上の超時間的メッセージを媒介として、その人生を耐え得るものとしたのである。彼らは、霊歌を通して、その信仰を伝達し、救出への希望を語り、異郷の地で喜びをもってイエスの歌を唱ったのである。

こうした黒人霊歌の大きな特徴は、まず、反復、繰り返しが多いことである。つまり、そこでは同じ文句が何度も繰り返されていく。例えば、「キャルヴァリで」(On Calvary)という十六行の歌では、「キャルヴァリで」が十四回、「まこと主は死にたまえり」が二回繰り返されており [「キャルヴァリで」の歌詞について、修士論文の作成時には、皆河宗一氏の 『アメリカ・フォークソングの世界』、民俗民芸双書、(岩崎美術社、1971年)を参照させて頂いた。しかしながら、今日、Hymnal: A Worship Book, Pew Edition (Elgin, Illinois: Brethren Press; Newton, Kansas: Faith and Life Press; Scottdale, Pennsylvania: Mennonite Publishing House, 1992) を参照すると、その頻度は、註のページ上に引用するが、十四回ではなかった。] (II)、また、「主は全世界をその手に入れている」(He's Got the Whole World In His Hand)という四行九連の歌においては、第一連に題名と同じ「主は全世界をその手に入れている」という文句が四回繰り返された(ただし、一箇所に「広い」という形容詞がつく)上で、さらに第四、第八、第九連も、この第一連の繰り返しとなっている。これは、文字の読めない黒人達が、聖書を歌で覚えようとした為であるとされている。つまり、彼らは、聖書の中の記述の要点や核心だけを掴み、簡素な歌詞にして何度も何度も繰り返すことによって、それを脳裏に刻み込もうとしたのである。また、この記憶する作業としての反復や繰り返しが、そのまま歌詞として定着してしまった場合もあると考えられる。次に、黒人霊歌の大きな特徴として挙げられるのは、その交唱的及び答唱的性格である。応答様式は、非常に多くの霊歌に見い出され、霊歌が本来独唱の為に作られたものではないという点を、すなわち、コミュニケーションの存在を、記録するものである。例えば、「わたしは主のみことばの説教を聞いた」(I heard de [the] Preachin' of de [the] Word o'God)は、

雨はどのくらい長く降ったのか、だれか分かるだろうか、
神のみことばを説教した、
40日の間昼も夜も降ったのだ、
神のみことばを説教した。
ヨナはどのくらい長く大魚の腹の中にいたか、
神のみことばを説教した、
3日の間昼も夜も彼は航行したのだ、
神のみことばを説教した。
Lead: How long did it rain? Can any one tell?
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: For forty days an' nights it fell,
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: How long was Jonah in de belly of de whale?
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: 'Twas three whole days an' nights he sailed,
Chorus: Preachin' de word o' God.
と唱われ、その応答的特性が明白に現われている一例である。

さて、南北戦争以前のアメリカ南部は、黒人奴隷の労働力を基盤とする大プランテーション、いわゆる綿花の王国を築き上げ、独自の伝統と文化を誇っていた。南北戦争に破れ、経済的にも崩壊した後の南部は、曾ての「楽園」ではありえなかったが、旧来の伝統と文化に対する誇りを精神的支柱として復興に励む「南部人」にとっては、やはり彼らの「花咲き、鳥うたう地」であったという。一方、労働力の提供者であった黒人奴隷達は、自由民として解放されたとはいえ、自活能力のないのが大多数の者であり、戦後の混乱の中でお仕着せの自由に却って戸惑い、路頭に迷う者が続出した。1865年3月に創設された解放黒人局による食糧供給等の措置や、北部のキリスト教会を中心とする民間団体による救済が行われはしたが、黒人の生活は、戦前のそれよりも別の意味において悲惨なものとなった。また、その社会的ならびに人格的意義にも拘わらず、彼らが得たのは名ばかりの自由であり、その自由にも白人達は徐々に束縛を加え、不当なる差別は依然として存続した。この後に展開されてゆくアメリカにおける「黒人の闘いの歴史」については、この論文では言及をする力も余裕もないのであるが、黒人教会の存在理由を言わんとする時、その背景には常に「差別」、あるいは、「抑圧」の歴史というものがあることに、留意しなければならないであろう。綿花の畑に響いた霊歌の時代から今日の教会に属するゴスペル・ソングに至る迄ずっと、そうした黒人の宗教的言語が感情喚起的であることは明白であるが、彼らの貧しく抑圧された生活と深い苦悩、そして、愛を求め、来世への憧れの中から迸り出るその表現には、彼らの心の叫びが、今なおはっきりと在るのである。

1863年の「奴隷解放宣言」(96) の後、元奴隷達は、神が自分達を「エジプトの国」から救いたもうたという(97)、単純ではあるが実に深い信仰をもって、自分達の社会機構や制度の、これは黒人教会に集中するものであるが、構築に乗り出していく。「かくして、竹薮や叢林の中の礼拝で満足しなければならなかった巨大な宗教的エネルギーは、『見えざる教会』(98) を『見える教会』に変容する方向へと解放されたのである。黒人の宗教経験は今や建造物を建て、また獲得することへと転換したのである」(99)

霊歌の創作は奴隷解放宣言後まもなく終結したにも拘わらず、その影響力は生き続け、その発展も解放令と共に終わったわけではない。しかし、黒人教会の機構的・制度的確立に伴い、元奴隷達の拡大していく宗教意識と変化した社会的状況が反映する(100)、彼らの宗教的・礼拝的ニーズに合わせ、また、黒人の識字率の高まりに伴い、使用が可能となり導入が促され、欧米的なワッツ博士(Dr. Watts, I.〔1674−1748〕)とウェスリー兄弟(Wesley, John〔1703ー1791〕とその弟 Charles〔1707−1788〕)及びその他の讃美歌(101) が、黒人教会において用いられるようになるのである。黒人メソジストと黒人バプティストの両者が共にワッツ等の讃美歌を受け入れたのであるが、W・T・ウォーカー氏によれば(102)、これらの讃美歌テキストが黒人礼拝において広範に用いられたのは、確認できる得る限りにおいて、1875年がその絶頂期であり、そうした讃美歌集による礼拝が、黒人教会生活の不可欠な部分となってゆくのである。このことは、しかしながら、彼らにとってその心的基底においては、霊歌的ものの放棄ではなく、また、決して白人的ユーロ・アメリカン化(あるいは、白人教会化)でもなく、元奴隷であった礼拝者達は、ただ、「自分たちと分かち合えるものは何でも利用したのである。それは剽窃といったものではない。むしろ、神に最善のものを献げようとする彼らの誠意であった」(103) はずなのである。しかしそれでも、こうした礼拝様式という外殻的変化が、つまり、それは同時に彼らの〈儀礼〉の変容となるのであるが、その草創期には自然であった〈霊と熱情〉を失いつつ、結果的に、福音の内的・質的変容をも齎し始め、J・H・コーン等諸氏によって、黒人教会は、非常に僅かな事例を除いて、もはやその同伴者である白人教会以上に「キリスト教的ではない」と、痛烈な批判をされるものとなっていったのである。

真正の「黒人教会」の礼拝を支える三大要素は、音楽と説教と祈りである。黒人教会に共通する一つの格言として、「音楽なくして黒人を結集することはできない」というものがあるが、その音楽とは、礼拝様式における決定的な役割を演ずるものであり、最大限の集中と効果とが説教に取り込まれる為に、聴衆の期待(あるいは、雰囲気)を最高頂にまで高める手段とされている。また、「説教壇での強調」に取って代わるものはないとされるその説教は、伝統的に「文字的」であるよりも「聴覚的」である。すなわち、それは、精神(マインド)へのルートとしての視覚(目)に訴えるよりも、第一義的に、心(ハート)へのルートとしての聴覚(耳)に訴えることを目指すものであるとされる。したがって、黒人説教の聴覚的性格はおのずから音楽的資質を纏うものであり、そこには、様々な速度や強調が、さらには、明らかに或「調」になっていると思われる程の抑揚が、はっきりと認められるのである。これは、説教者において、「音楽のリズムの力がメッセージを担っている」という認識がある為であろうとされるが、そこでは、意識するとしないとに拘わらず、説教行為に対して或種の転換が起こっていることとなるのである(104) 。また、説教とは、会衆とのコミュニケーションであり、その場での双方向の意思疎通が試みられる機会であるということも、黒人教会の要素として重要なものである。C・V・ハミルトン(Hamilton, Charles V.)氏は、「黒人の宗教伝統においては、成功する牧師とは老練な雄弁家である。しかし、彼の任務は、それ以上のことを含んでいる。会衆との関係が相互的なのだ。つまり彼が会衆に語りかけ、会衆は語り返すのだ。これは予期されていることだ。多くの教会の集会では、説教の間でのこの語り返しが説教の感銘度を測る確固とした尺度となる。会衆が参加するのである」(105)〔強調は、原文どおり〕と述べているが、説教というものが人々とのコミュニケーション作業であるということは、明らかであろう。したがって、極言すれば、説教とは、説教者と聴衆との共同作業において、人々の臨場するその場で、宗教思想が形成されていくことなのである。そして、黒人教会は、そうした説教の場で実現する牧師と会衆とのコミュニケーション、すなわち、その思想形成を、「聖霊の働き」と呼んでいるのである。さらに、この「聖霊の働き」によって、牧師と会衆は共に、説教において、音楽において、祈りにおいて、「自由」の福音を、そして、その「自由」の世界に存在する〈真の自己〉を直接に体験しながら、神と語るのである。

「ゴスペル音楽の父」とされるトマス・A・ドーシー(Dorsey, Thomas A.〔1899ー1993〕)は、ジョージア州のヴィラ・リカに、バプティスト教会説教師 [Thomas Madison Dorsey] の息子として生まれた。1920年代の初期に、当時、教会における信仰歌が福音伝道の歌と呼ばれていた中で、「ゴスペル・ソング」という言葉を造り出したのも、ドーシー自身である(106)。彼は、[彼の二回目の] 神経衰弱とそれに続く1928年の回心体験(IV) の後に、ゴスペル [ゴスペルブルース] を書き始めている。ゴスペル音楽は、ドーシーの中において、ジョージア・トムという芸名の下に彼が経験したブルース=ジャズという世俗的なものを、遡って彼の少年期における宗教生活と、そして、C・A・ティンドレー(Tindley, C. A.、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアのティンドレー聖堂の牧師で、合同メソジスト教会説教者であった)の歌の宗教性とに結びつけたところから生み出された、貧しき人々に語りかける「よき知らせ」(福音)である。そしてそれは同時に、「神についての自己の最も内的な感情を表現し、かつこの表現の一部を成している感情的参与を言い表わすことのできる自分自身の音楽」(107) であった。しかし、この音楽は、その発展の初期にしばしば「罪深い音楽」であるとされ、或種の敵意や拒絶に出会っている。ドーシーは忍耐をした。そして、自分を受け入れてくれる教会ならば何処へでも行き、また全国バプティスト連盟の総会には必ず出席をして、粘り強くその音楽を紹介し続けた結果、遂に「新しい音楽」は受け入れられるに至ったのである。こうしたドーシーの歌は、黒人に限らず、南部の白人キリスト者の心までを奪っていくこととなるのである。

メンフィスのイースト・トリッグ・バプティスト教会のW・ハーバート・ブルースター牧師(Brewster, W. Herbert 〔1897ー1973〕)は、神学博士として優れた学者であるが、同時に、ゴスペル・サウンドのパイオニアの一人として著名であり、A・ヘイルバット(Heilbut, Anthony)の『ゴスペル・サウンド』(THE GOSPEL SOUND: Good News and Bad Times(108) においても、特に取り上げられている人物である。以下を同書に拠るが、「ゴスペル・ソングは、曲のついた説教だ(A gospel song is a sermon set to music)。そこには、感情と教え、そして、表現の美と輝きがなくてはならない」と、ブルースター牧師は述べている。このゴスペルの説教者は、テネシー州サマーヴィルの小さな農業の町で、1897年に生まれた。当時、その町には、「ワン・ドゥードルをする説教師(wang-doodling preachers)と呼ばれていた人たちが」おり、彼らは「もの悲しい調子で説教をしたが、その説教のことばは、そのままで詩」であったという。そうした古風な片田舎の説教の影響をも窺わせながら、説教壇でのブルースター牧師の語り口は、「十九世紀末期のうねるような(rolling)、弁舌さわやかな名調子」であったとされる。彼は、キリスト教の教えを人々に詳しく説き、また、よりよく理解させる為に、少年期における自らの経験に基づく民俗的な感情を駆使する方法で、ゴスペルを作り、それを広く流布させた。そして、その「教えと感情」(doctrine and sentiment)が見事に結びついたブルースターのゴスペルに対しては、マーカス・ガーヴェイからマーティン・ルーサー・キング博士やマルコムXに至る、偉大な黒人指導者と呼ばれた者達が皆、敬意を表したとされるのである。

ブルースターのゴスペルは、彼自身においては、「証し」そのものであった。そして、「彼ほどはっきりと『わたしは〔神に導かれて〕山の険しい側を登っている』という福音の証人の認識を表現したゴスペルの作者は、他にはいない」(109) とされるのである。そうした宗教的認識の自己表現は、人々の中で、例えば、彼のゴスペルにある「わたしは主を頼り、すべてをおまかせしている」(I'm leaning and depending on the Lord)というフレーズが、南部での日常的慣用句の一つとなった程に、浸透していったのである。また、彼の作曲に負うところの、ブルースの反復楽節にのせて言葉を繰り返す(ブルースと語句の反復との組み合わせ)という強力な手法は、新しく誕生したハード・ゴスペル・スタイルの特徴として定型化されることとなるが、これは、聴衆の目には、あたかも歌い手が感極まって言葉を繰り返しているように見えるものであったという。

わたしは とてもたくさんのことで イエスに感謝しなければならない、
兵士としてこの聖戦に出陣してから、
わたしが受けた祝福をひとつひとつ数える、
神がしてくださったことを知って、
「イエス様 感謝します」という ほんとうにそういう。
〔コーラス〕主よ、感謝します、主よ、感謝します、イエス様、感謝します、主よ、感謝します、主よ、感謝します、あなたはわたしに、とてもよくしてくださった ...... 。
I have so much to thank my Jesus for,
Since I've been a soldier out in this holy war,
I count my blessings one by one,
I just see what God has done,
And then I say I thank you Jesus, oh yes I do.
Chorus: I thank you Lord, I thank you Lord, I thank you Jesus, I thank you Lord, I thank you Lord, you've been so good to me...
しかし、そうした技術的発展の面ばかりではなく、こうしたゴスペルおいて、反復繰り返しというものが、先に述べた霊歌にみられるそれとは異なり、率直な感情表現の中で、よりはっきりと「事実」と「経験」の強調になっていることをもみるべきであろう。それは、ブルースター牧師における事実であり、経験なのである。

このような、「証し」、「事実」、「経験」であるというところに、ゴスペルの特徴の一つであるとされる「人格指向性」の源が存在するのだと言えよう。A・ヘイルバット氏は、「ゴスペルとは歌い手であって、歌ではない」(it's the singer, not the song)と述べているが、ゴスペルの世界は、キリストの教えが、表現者自身の偽りのない真実の経験や問題と直接に結び合わさったところに、発現し得るものである。したがって、ゴスペルは、それぞれの表現者において、〈真の自分〉の姿であり、且つ、私的な証し、すなわち、神の導きや信仰についての体験であることの故に、それぞれに異なったものとなっていく。リロイ・ジョーンズ(Jones, Le Roi)氏は、「音楽は思想の結果である。それは、最も経験的次元で、すなわち心構え、姿勢として完成された思想の結果なのだ」(110) と述べているが、ゴスペルはまた、知識、概念、思想、心的態度、世界観という、表現者の精神の姿そのものを伝達する「語り」である。つまり、音楽は、ゴスペルのスタイルの一部分にすぎないのである。

こうして、ゴスペル・サウンドは、大不況時代(1925ー1940)というアメリカ史上最悪の経済的危機のただ中で生まれた。国家における危機は、まず、貧しき者を打ち砕いた。それは、大多数の黒人とレッド・ネック、あるいは、ブルー・カラーと呼ばれる白人達である。その暗夜の中でつくり出されたゴスペルの形式は、〈聖なる音楽〉に、いわゆる世俗世界からブルース=ジャズの様式化された節まわしを取り入れ、この当時迄には、白人のエヴァンジェリズム(evangelism)的体裁との合体によって、その宗教的・礼拝的表層において殆ど忘れ去られたかのようにみえる、昔の黒人的・宗教的ルーツに再結合したものと言えるであろう。言い換えれば、ユーロ・アメリカ起源のものに、自己の消しがたい刻印をしるす、つまり、黒人の、自己自身であろうとする意識的欲求の始まりであり、それは、ルーツへの、そして、〈霊と熱情〉への回帰の信号であったのである。このようなゴスペル・サウンドの登場は、〈霊と熱情〉への回帰ということにおいて、貧しき白人の中では、曾てのジョナサン・エドワーズ(Edwards, Jonathan〔1703−1758〕)の下での大覚醒運動と19世紀初頭の第二次リバイバル(revival)のフロンティア宗教のような、ピューリタン的〈霊と熱情〉に対する郷愁となったであろう。ゴスペルは、「黒人霊歌の持ち味と、現代社会の注釈、韻律音楽様式の諸要素、それに必要な場合にはユーロ・アメリカン賛美歌の歌詞を抱えこんでいる。このような合成的結合の結果が、圧倒的な荒廃した社会状況に直面しつつなお信仰者の希望を繋ぎとめている信仰歌である、都市霊歌の形式」(111) なのである。

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II バプティスト教会の福音伝道
3.バーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道

平成8年6月3日から同月8日の六日間にわたり、「神への賛美において一つとなった声」("One Voice United in Praise!")というテーマを掲げ、バプティスト教会系の福音伝道者(Evangelist)であるバーバラ・ワード=ファーマー(Ward‐Farmer, Barbara)氏の下で、ゴスペル・ミュージック・ワークショップ(112) が開催された。このワークショップは、在日米軍横田空軍基地の招聘で米国の著名な福音伝道者であるバーバラ氏が来日し、同基地内のウエスト・チャペルが解放されて連日に行われたもので、それは、あくまでも、在日するアメリカ人バプティストの全員(軍関係者、民間人を問わず)と、日本人バプティストの全員をその参加の対象とするものであるとされた。しかしながら、私が参加した五日間においては何れの日にも、アメリカ人バプティスト会衆の中では、おそらく九割が黒人バプティストによって占められる、という状況であった。また、参加した日本人会衆について述べれば、三鷹バプティスト教会や日本バプティスト連盟調布南キリスト教会等を主たる窓口として、日本人バプティスト、そして、「クリスチャンではない」日本人達も含まれるものであった。全体としての会衆の比率は、アメリカ人対日本人としてみる場合、日本人参加者は、160名から200名を超える会衆数(113) の約三割を占める程度であったと思われる。

バーバラ・ワード=ファーマー氏は、エドワード・ワード・シニア(Ward, Edward Sr.)夫妻の子供として、1950年に、テンプル大学病院で生まれた。ワード氏は、米国ペンシルバニア州フィラデルフィアにおける「監督」(Bishop)であり、「長老」(Elder)である。また、母リリアン・ワード(Ward, Lillian)氏は、「信仰の幕屋」(Faith Tabernacle)の前・「宗教的指導者」(pastor)であり、その創設者でもある。現在は、その「生ける神の信仰の幕屋教会」(the Faith Tabernacle Church of the Living God)のパスター(pastor)を、バーバラ氏が務めているという。彼女は、二人の兄弟と三人の姉妹を持つが、弟のバイロン・ワード(Ward, Byron)牧師(minister)が、音楽特派使節として、この時彼女と共に来日している。また、彼女は、その夫兼ビジネス・マネージャーであるローレンス・フォーマー(Farmer, Lawrence)氏の良き妻であり、彼らの四人の子供の良き母親であるという。

ワークショップの第一日目は、参加者間の空気をなごませ、互いによく親しむということをその目的とした、あり合わせの食べ物を持ち寄っての、会食が行われた(114)。食事を始める前には、まず、全員で手をたたくことが求められ、これは暫くの間続けられた。やがてその日の先導者が語り出し、また、数人のバプティストによる「祈り」が神に捧げられたが、この間、人々からは、「アーメン」、「ハレルヤ」、「その通りです、我が主よ」、あるいは、言葉ではない感嘆の音声が、しばしば投げかけられていた。次に、先導者による「主の力を感じましょう」(Feeling the power of the Lord)という呼びかけによって、全員が、手を空中に、或者は両手をまた或者は片手だけを、かざしながら動かし続けた。この所作は、先導者の「感じる」(I'm feeling...)、あるいは、「霊にみちる」(I feel full of the Spirit)という発言がある迄続けられていった。そして、そのことを感謝しながら、最後に、讃美歌を神に向かって歌い、神に語りかけ(Talking to the Lord)た後に、参加者は、共に食卓についたのである。

礼拝は、各日のスケジュールの間に、約三十分かけて行われるが、これは常に、実際のゴスペルの歌唱練習の直前になされ、はっきりとした終了時点がないままに、歌へと移行した。日程に沿って述べれば、二日目、三日目は、主として指揮や歌唱等の技術面についてのセミナーが、そして、四日目には、キリスト教的歴史的事実に基づいたセミナーが開かれた。これらのセミナーにおいてバーバラ氏が述べたことの中で、特に強調された事項を挙げるならば、一つには、歌唱を人的技術ないしは人的所産として捉えるという大きな誤りに対する警告であり、歌の「神への帰属性」ということである。つまり、「歌うこと」は、我々のアジェンダ(agenda)では毛頭なくて、神のアジェンダであるということ、同時に、その歌う行為は、神をほめまつることであり、さらには、自己自身を表現することであり、この故に、神と人との正式なコミュニケーション(formal communication)の一形態となるのである。「歌うこと」が為される時に、神の栄光は現われ(the glory of God comes down)、そして、聖霊が我々をして歌わしむのである(the Holy Spirit even dictates how to sing)。したがって、「歌うこと」は、分かつ(share)ことであり、奉仕の務めの一部である。なぜならば、それは説教と等しく、聖霊が宿り、福音を宣べ伝えることであるからなのである(新約聖書「ルカによる福音書」第四章十八節)。もう一つには、「歌うこと」の中に、或「力」が存在するということである。例えばそれは、獄中のパウロが歌をうたい始めると、にわかに地震が起こり、戸を開き鎖を解いて、パウロ達を自由にしたように(新約「使徒行伝」第十六章二十五節)、奇蹟を齎すものなのである。

ゴスペル伝道音声資料
バーバラ・ワード=ファーマー牧師のゴスペル伝道について音声として記録した資料です。

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Audio Material G4-1, G4-2, G4-3, G1-1, G1-2, G1-3, M2 and M3 : バーバラ・ワード=ファーマー牧師
G4-1: 聖書に初めて音楽のことが言及されたのは -「創世記」第31章第26節から27節 (.aif, .mp3)
G4-2: 宗教的文脈において言及されたのは -「出エジプト記」第15章第1節から2節 (.aif, .mp3)
G4-3: 歌うということは、神とコミュニケートする行為であった - ダビデによる「詩篇」 (.aif, .mp3)
G1-1: 「黒人経験」 (.aif, .mp3)
G1-2: これ〔音楽〕は神のものである (.aif, .mp3)
G1-3: ゴスペル音楽の父 (.aif, .mp3)
M2: ゴスペル伝道 - 日本人バプティスト派牧師と共に (.aif, .mp3)
M3: ゴスペル伝道「もし神が共にいてくだされば」 "If God Be For Us!" (.aif, .mp3)

第五日目は、翌日に控えた福生市公会堂におけるコンサートに向けて、最も〈霊と熱情〉のあるワークショップが展開されていった。アメリカ人バプティスト及び日本人バプティスト数名による信仰告白もこの日に初めて為され、ゴスペル音楽のワークショップというよりも、そこで行われたすべてのことが、彼らの〈儀礼〉であったように思われる四時間半であった。また、この日には、通常の会衆全体に対するそればかりではなく、特別に、二つの異なった対象に集中した、二つの大きな伝道が展開されていった。その一つは、クリスチャンではない者達をも含む「迷える」人々に対する、救済を目的する伝道であり、もう一つは、牧師や伝道師を含むバプティストとしての先導となる人々に対する、「霊」ないしは「力」の賦与を目的とする伝道である。その内容については、以下においても、この日の展開に順じてそのごく一部を述べるが、私の乏しい能力による日本語訳の稚拙さを補う為に、またそれ故、述べられたことそのものを正確に記すことが必要であると思われるので、「資料」として、後の頁に、可能な限りにおいて筆録をする。

六時から開始されたこの五日目のスケジュールが、その半ばに差しかかる頃、この日二度目の大きな「祈り」に続いて、会衆の中にいるであろう、心弱くなっている人々、苦悩の内に答えとなる何かを求めている人々、そして、「クリスチャンではない」日本の人々に対しての、特別な〈祈りと語りかけ〉が行われ始めた(115)。おだやかなゴスペル音楽の演奏と、会衆の時々に発する信仰表白の声の中で、人々は、祭壇に集められ、また、集まっていく。バーバラ氏は、前田重雄牧師(調布南キリスト教会)と共に、礼拝堂前方にそれらの人々を招きながら、彼らの為に祈り、語りかけてゆくのである。

〔バーバラ氏〕 あなた達がやって来る間に、主が私に教えてくれたのは、私達の中の或者は少し、あるいは、全く英語を話さない、けれども、神に対しては、二ヶ国語併用で、再びその身を投げ出せる (but can make a bilingual recommitment to God)ということ。あなた達は「みことば」(the Word〔福音〕)を知っているでしょう、「みことば」を聞いてきたでしょう。もし、ここに、歌うことが大好きなのに、背教者(a backslider)のままで、道を間違えている誰かがいるのなら、主は、あなたに手を伸ばして、そして、もう一度あなたに抱きしめてもらいたいの、なぜなら、主は、あなたを愛しているから。 あなたにも、この祭壇に来て欲しい。誰があなたのことを知ろうと知るまいと、構わないで、なぜなら、今日、私はあなたを助けようとしているのだから。主は言われる、主は、あなたが背教者であることをご存じでも、あなたを愛していると。……ここに来て欲しいの、さあ、そうしてちょうだい、ええ、そうよ、ええ、そうよ、ええ、それでいいの、しゃんとして。誰があなたを見ていようとも、構わないで、あなたこそが、神のみ前に立とうとする人、あなたこそが、神のみ前に立つこととなる人なのよ。ええ、そうよ、ええ、そうよ、それでいいの、……。
礼拝堂の中では、既に数名の者が席を立って、バーバラ氏のいる前方の祭壇へと向かっている。そして、進み来ようとする者一人一人に対して、「それでいいの、それでいいの」と励ましつつ、バーバラ氏は、静かに語りかけていく。祭壇では、それぞれの「迷える者」に対して二名の日米バプティストがぴったりと寄り添い、バーバラ氏と前田牧師を助けながら、そうした人々への励ましと祈りを強めている。人々は、ゴスペル・ソングを口づさむ。会衆の中から声があがる、「ハレルヤ!」、「神よ、感謝します!」。
〔バーバラ氏〕……ハレルヤ。まだまだ遅くない。ハレルヤ、遅すぎることなんてない。イエスのところに帰っていらっしゃい。まだまだ遅くない。遅すぎることなんてない。
会衆の発する喜びの音声の中で、バーバラ氏は、進んで来た者達を抱きかかえんばかりに迎えながら、祈り、そして、語りかけている。
〔バーバラ氏〕……まあ!目を見張るばかり(Hey, look at you)。……〔会衆に向かい〕イエスの「み名」において、誰かを抱きしめて(Somebody give somebody a hug in the Name of Jesus)。 イエスのみ名において、誰かを抱きしめて。イエスのみ名において、誰かを抱きしめて。
〔バーバラ氏〕……これで、いい。ハレルヤ。ハレルヤ。・・私達を祝福してください。イエスさま、私達を祝福してください。私達を祝福してください。
バーバラ氏のその言葉に従い、会衆は抱き合い、あちらこちらから、「ああ、イエスさま、そうです、イエスさま」(Oh, Jesus. yes, Jesus)というような声が上がっている。
〔バーバラ氏〕……これで、いい。ハレルヤ。ハレルヤ。……私達を祝福してください。イエスさま、私達を祝福してください。私達を祝福してください。
バーバラ氏は、依然として「迷える者」達の間を動き回りながら、その一人一人の為に祈り、しかし、今や力強く語っている。そして、会衆にも向かうのである。
〔バーバラ氏〕…ハレルヤ。主が、今夜あなたの為に「何か」をして下さったのだということを信ずるならば、その手を上げて、その信仰をみせて。ねえ、主が〔ここに〕お立ち寄りになったってこと、嬉しくない? 主がお立ち寄りになられたこと、嬉しくない?主がお立ち寄りになられたこと、嬉しくて幸せじゃない?〔会衆の中からは、「アーメン」、「主よ」というような声が、そして、拍手が湧く〕......
〔バーバラ氏〕……「霊」の内にありなさい(Stay in the Spirit)。「霊」の内にありなさい。そのまま、同じ「霊」の内にありなさい。
バーバラ氏は、この時迄に祭壇に進み来た人々に対する、個別の祈りをほぼ済ませ、再び会衆に向かっていく。
〔バーバラ氏〕…イエスさま、感謝いたします。……本当にやりがいのあることでした。正にやりがいのあることだった、そうでしょう?もし、私達の他には、もう来る人が誰もいないのであれば…〔拍手が湧く〕…私は、今すぐにでも、飛行機に乗って、フィラデルフィアに帰れるわ。それが、たった今私の感じていること。どうしてだか解る?なぜなら、私達の伝道(mission)が成し遂げられたから。 ああ、神さま。 私は、私達の伝道が成し遂げられたのだ、と言ったのよ。〔拍手が湧く〕……あなた達は、イエスのみ名の力とその強さを感じてしまっている。だから、私達は、迷っていたこれらの人々を救ったの。おお!そうです。〔拍手が湧く〕……〔祭壇に集まっていた者達の中の、一人の白人女性を指して〕 この女性は、ここに来て、そして、イエスを彼女の救い主として受け入れた。そこに誰か、イエスとはどなたであるのかを知っている人がいるはずよ。そして、そんな人達にとっては、ああ、神さま、あなた達には、 一人の親友〔イエスを指す〕がいる。ねえ、こっちにいらっしゃい……。
その女性がバーバラ氏の横に支えられて泣きながら立つと、礼拝堂のあちらこちらで、歓喜の叫びが起こり、やがて、或者は泣き出し、また或者は呻き声を立ててゆく。〔また、これから暫く後に、祭壇では、バーバラ氏が、私を含む「クリスチャンではない」日本人に対しても一人づつ、その額に彼女の手をあてながら、祈ってゆく。しかし、その祈りの内容については、彼女の声が低くつぶやくようであった為に、リズムと音声としてのみ、伝わるだけであった。〕
〔バーバラ氏〕……イエスさま、感謝します。イエスさま、感謝します。イエスさま、感謝します。切り放して(Cut it loose)。切り放して。切り放して。私は自由だ。……私を自由に。〔拍手と叫び〕……私を自由に。私を自由に。そうよ、解放して(Loose)。解放して、完全に。切り放して。切り放して。切り放して。…〔拍手と叫び〕…私は自由だ。……イエスさま、感謝します。イエスと共に、あなたの魂を解き放ちなさい(Set your soul free with Jesus)。あなたの魂を放ちなさい、放ちなさい(Set it loose)。そう、そうやって、魂を放ちなさい。切り放して(Cut it loose)。ハレルヤ! 私は自由だ。私は自由だ。……あなた達、感じられた?私はそれを感じられたわ。私は自由を感じる(I feel loose)。……ハレルヤ!私は、解き放たれた。私は自由だ。主は、私を自由にして下さった。主がおいでになられ、私を自由にした、彼が、私を解き放って下さった。〔拍手と叫び〕…ハレルヤ!ハレルヤ!
バーバラ氏の語調は、非常に鋭く強くなり、そして、そのリズムは変化し、速度を増していく。会衆の中からは、拍手や足踏み、その他のありとあらゆる意味不明の、しかしながら、明らかに彼らの「至福」を表わすと思われる音声が、湧き上がっている。そして、この礼拝堂に盈ちゆくこうした新たな雰囲気の中で、横田空軍基地のサンダース従軍牧師(Chaplain Sanders)が、祭壇の前に飛び出し、語り始める。
〔サンダース牧師〕……〔拍手と叫びが続く〕もし、神が、今夜ここに、いらっしゃるのだと信ずるならば、彼をほめたたえよ。私は、彼をほめたたえよ、と言ったのです。彼を、あなた方の心(heart)の中へ。ほめたたえよ。
この間にはずっと、会衆の手拍子と呼応の声が続いている。演奏される音楽も、一変してその調子を速め、曲ではなくむしろリズム音となっていた。
……それで、もしも、あなたが救われていなければ、私は今この時に、あなたを主へと導くつもりだ。主は、まさに、いらっしゃろうとし、あなたを高くしようとしている(He's going to come and lift you up)。さあ、主をほめたたえよ。私が三つ数えたら、主をほめたたえよ、いち! にい! さん!〔会衆の「ハレルヤ」の声、歓呼の声〕我々は、彼のみ名をたたえようとしている。我々は、主をたたえようとしている。我々は、彼をほめたたえる為にここにいるのだ。神をたたえよ……。
会衆からは、大きな拍手と共に、さまざまな歓呼の声が湧き起こっている。人々は、漸次、激しい昂揚の状態へと進んでいくようである。そして、私から二列程後の女性は、抑えきれずに泣き声を出したかとおもうと、礼拝堂の左壁際の床に突っ伏してしまい、意味のない「声」もしくは「音」を低く発している。それに気づいた二人のアメリカ人女性が、彼女のところへ急ぎ、背中に手を置いた。彼女達に限らず、このような人々のさまざまな動きが、礼拝堂の至るところで始まっていた。
……解き放て!切り放て!解き放て!解き放て!解き放て!ハレルヤ!イエスの「み名」  において、切り放て!切り放て!ハレルヤ!解き放て!ハレルヤ!アーメン!ハレルヤ!アーメン!ハレルヤ!解き放て!切り放て!ハレルヤ!
サンダース従軍牧師の言葉がマイクを通して礼拝堂に響く中で、床に伏せたままの女性に対して発せられる女達の声が、サンダース牧師のそれと混じり合いながら、繰り返される。
……ハレルヤ!感謝します!感謝します!感謝します!感謝します!ハレルヤ!感謝しま  す!感謝します!感謝します!ハレルヤ!感謝します!感謝します!ハレルヤ!イエスさま、感謝します!イエスさま、感謝します!イエスさま、感謝します!
〔サンダース牧師〕〔ここで注意が必要であるのは、通訳の女性が、 例えば、「神の力を必要としている人は、ここへ来てください」と、つま り、サンダース牧師の述べる内容とは明らかに違うことを、しばしば伝えていることである。したがって、日本人会衆は、異なった「説教」をしばしば聴いていることとなるのである。〕・・・神の力を、あなたは、感じることさえできる。今すぐに、あなたはここへ、私のところへ来なければいけない。私にはわかっている、今、あなたがその力を持っていることが。すべての人々に宿る聖霊について、私は告げなければならない。誰かが神の力を得たのだ。誰かが、そのように、神の力を手にした。……あなたは、何と言われたのか、何が為されたのか、その全てを理解できなくてもよい。ただ、神に身を任せなさい(just surrender to Him)。主にその身を投げ  出しなさい。そこに、立ちなさい。主がまさに「我を信じよ」とおっしゃっているところです。……もしそこに、今この時にも、あなたの人生に、イエスを完全に受け入れられない誰かがいるのなら、あなたも、この祭壇にどうぞ来なさい、そして、今、イエスを受け入れるのです。恥ずかしがらないで。〔会衆の拍手と「ハレルヤ」の声〕……私は、あなた達を、神のところへ連れていく。今から私は、あなた方全員〔イエスを完全に受け入れられないでいる 人々〕に、この祭壇へ来るようにお願いする。まだそこに立っているあなた方、今、祭壇に来ようとするこれらの人達の為にどうか祈ってください。我々は、これらのイエス・キリストと光を捜し求めている人達の為に、ここへ来て、通訳(interpret)をする人を必要とします。神の力を感じている人も、ここへ来て欲しい。今この時に、我々と共に在る力を感じている人達にです。そのあなた達に、今すぐに、彼ら〔イエス・キリストと光を捜し求める人達〕の上にその手を按いて、そして、祈って欲しいのです。彼らの為に祈り、彼らに神の力を感じさせるのです……
バーバラ氏とサンダース牧師は、祭壇に再び集まった人々の間を動きまわりながら、語りかけ、そして、その一人一人に手を置いて祈り続ける。神の力を感じているバプティスト達が、そうした二人を助けている。音楽は、もとのおだやかな調子のものへと既に戻り、会衆は、自分達の「祈り」の表われとして、それぞれ思い思いに、歌い、立ち上がり、手を叩き、身体を揺らし、「ハレルヤ、イエスさま」と唱え、「感謝します、主よ」と叫ぶ。
このようにして、心弱くなっている人々、苦悩の内に答えとなる何かを求めている人々、そして、「クリスチャンではない」日本の人々に対しての、特別な救済が終わりになると、次には、会衆の中の霊的リーダー(116) に対する、特別な〈祈りと語りかけ〉が開始された。バーバラ氏は、そうしたリーダー達に、礼拝堂中央の通路に一列になって立つように求める。そして、彼女は、祭壇から中央通路に行き、そこで列になった彼らのすぐ傍を歩きながら、語り続けていくのである。
〔バーバラ氏〕 ……主は、私に教えてくれた、なぜこんなとをなさっているのか。それは、なぜなら、「癒し」が随分と不十分になるだろうから(It's because the healing would be too bad)。ほらね、あなた達だって、少し前に、そして、昨日も、もう「癒し」は済んだのだと考えてしまったでしょう。主は、大変に怒っていらっしゃる。人が悔い改め(one repents)ても、天は喜ぶ。けれども、もし、悪くなったとしても、主は、わたし達をお赦しになる。〔「その通り」という声〕見てごらんなさい、何人の人が、今夜ここで、神に引き渡されたか。見てごらんなさい、どれだけの人が、解き放たれたか。見てごらんなさい、どれだけか、それで、よく聞いて、主は、圧迫と試練が始まっていることを、私達に知らせていらっしゃる。「彼」〔これは、サタン[Satan]を指す〕は、この先もそうだけれど、もう既に、リーダー達を攻撃し始めた。なぜならば、もしも「彼」が、指導者集団を捕まえ、攻撃し、そして、滅ぼすことが出来るならば、覚えているでしょう、神は、その民(the people)に奉仕(minister)させる為に、人々を使われる。もしも、あなた達が危険にさらされて、もしも、あなた達が、散々に殴りつけられて、今にも倒れそうであるならば、他の誰がどうやって神の言葉を聞けるというの?勝つだけの価値がある一つの「霊の戦い」(a spiritual war)が存在する、そして、それをあなた達は知っている。私達は勝たなければならない。「霊の戦い」は、続いている。けれども、神は、力を持ち、全ての力を持ち、その力をあなた達に与えるつもりです。そして、神が与えてくれたその力は、あなた達の中へと放たれる、もし、「惡」(evil)がやって来ても、あなた達が立つことが出来るように。神は、あなた達にもう少し成長してもらいたいだけ。彼は、あなた達をより強くしようとしている、なぜなら、あなた達の為の、数々の奉仕(ministries)があるからです。彼は、あなた達の職能を通して、雨と水(117) から実に最良のもの(118) を得ようとしている(He's going to get real fat off of rain and water through your office)。……彼は、あなた達を最前線に置きたい。彼はあなた達に、新たに油を注ぎたい(He wants to give you a fresh anointing)、前であっても、なぜならば、ハレルヤ、今宵が終わってしまう前でさえも、あなた達が、まさに彼と話をすることとなるから。〔「ハレルヤ」という声〕あなた達は「手を按く」(119) ことができないかもしれない、けれども、神は、あなた達に「みことば」を語る賜物を授けるおつもりです(God is going to endow you to speak the Word)。ああ、そうです。神は、私達を助けて下さるはず。「みことば」を述べよ。あなた達、これらの解放された(delivered)人々の全員が、見えるでしょ?神は、あなた達に、これらの人々の「霊的交渉のパートナー」(their prayer partners)となってもらわなければならない。神は、あなた達に、〔「彼」に〕立ち向かってもらわなければならない。神は、あなた達をお使いになる、ハレルヤ!〔人々を〕按手するのに。
バーバラ氏は、歩き回り、霊的リーダーの列にある一 人一人に対しながら、彼女に触れることを求めていく。この時、彼女の人間的身体をその媒介として、神が、物理的接触を試みるのであろうか。
神は、ただ、私に触れる(touch)よう求められている、ただそれだけ。ちょっと手を伸ばして、私の手に触れてごらんなさい。私と共に祈って。祈って。ただ、触れるだけ(Just a touch)ハレルヤ!なぜならば、彼こそが、「肉」(the flesh)〔バーバラ氏のことを指す〕を通して触れようとしている、その人なのだから。それらの手と手〔これは、バーバラ氏の手と直接に触れ合ったリーダー達全員の手を指す〕を以て、私達を打ち開きましょう。私達が「癒しの霊的交渉」(the prayer of healing)を祈る時に、あなた達に来て欲しい。私達は按手をします。私達は、イエスのみ名によって、祈るのです。私達は、あなた達が私達を癒してくれることを(that you will heal us)、固く信じます、私達が祈る時はいつでも。というのは、それは、私達自身の力によるものでもなく、また、呪術(magic)によるものでもなくて、私達が、私達の存在の中に動いているのを感ずる、その「聖霊」(thy Spirit that we feel it moving through our being)によるものなのです。
こうして、会衆の中の霊的リーダーに対する特別な祈りと賜物の賦与がなされると、バーバラ氏は、再び全会衆に向けて語り始める。もし神が、私達と共に在るのなら、誰が私達に対抗し得るであろうか。私達は、イエスのみ名において、大丈夫なのである。そして、彼女は、一つの曲を歌うことを求める。その曲は、「もし神が共にいてくだされば」(If God Be For Us!)である。

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III 交感の宗教性
1.〈節談説教〉のことば(一)
(120)

「法座」とは、サンスクリット語のダルマアーサナ(dharmaーasana)の訳で、文字通りに「法」の座という意味であるが、直接的には仏陀が法を説く座席、すなわち、師子座と同義であり、さらに「法筵」とも言われるように、仏法が説かれる場、信仰を語り合う場を指すものであるとされる。仏教における最初の法座は、言うまでもなく、釋尊の初転法輪(121) である。そこに注目すべきことは、この初転法輪が、「梵天勧請の説話」としてよく知られるように、釋尊のためらいの後の決断であったということである。釋尊のこのためらいは、藤井正雄先生によれば、「悟りが本来内なるものであり、全身全霊のものであることを物語るもの」(122) なのである。

このように、仏陀ですら一度は不可能であると断念した言語による伝達を、果たして人間が可能ならしめる方法があるのであろうか。日常生活における単なる意思の疎通に際してさえ、時には、如何なる明瞭な言語をもってしても真意を相手に伝達し得ずに終わり、言葉や文字によるそれが、必ずしも十全でないことが明らかとなる。そしてこのことは、内的な感覚や情意というもののように、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実の伝達においては、より一層に明らかなことなのである。ましてや、人間の日常に体験し得ない究極的価値の内容を、言葉や文字によって表現し、そして、それを他の人間に伝達することには、明らかな限界があるはずである。こうした問いかけがあってこそ、言葉や文字による伝達だけでは充分でないとする人々のいとなみとして、「儀礼の言語」というものの意義が生まれるのである。このもう一つの言語によって、自己における主観性の直接的表現の意味内容をも、すなわち、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実をも、伝達することが可能となっていくのである。

人間がその意思を他の人間に伝達する場合には、それでもなお、言葉や文字という言語によってなされることが普通であり、その伝達は高度に完成され得るし、それにしばしば効果的でさえある。特に言葉は、人間社会の中で最も大切な記号体系であり、また、こうした言葉の基礎は、言うまでもなく、人間身体に固有の、音声による意思表出を可能とするその能力にある [言語は、記号体系である。そして、その基本的構成単位は記号である。例えば、言語を、人間社会の中で最も重要な記号体系である音声記号の体系として、定義することも可能である]。人間の日常生活において対象となる共通の事物が、言語による意味づけによって維持されている限りは、言葉を通じての客観化は、日常生活のあらゆる事物や経験を誰の前にも「現前化」し得る力をもつものである。つまりは、P・L・バーガー、T・ルックマンの両氏によって、「ことばを通じての客観化によって、世界の全体はいついかなる瞬間においてもわたしの目の前にあらわれうるのである」(123) と述べられたことなのである。しかしながら、言語の性格ということを問題とする時に、一般的な言語と儀礼の言語との相違は、隔絶たるものとなる。なぜならば、一般的な言語が、たとえそれが複合的意味をもち象徴と連関しているとしても、受け取る者によって理解が異なることを許容する性格を有する、つまり、確定した意味をもつ答えや固定された解釈をもたぬのに対して、儀礼の言語は、絶対的決定的「意味づけ」の下になされ、また、そうした伝達には或種の権威ないしは力が附随しつつ、その伝達の完全性が期待されるという点において、多義的な日常的それとは性格を異にしていると言えるからである。さらに言えば、ウィリアム・E・ペイドン(Paden, William E.)氏が述べるように(124)、儀礼の言語は、「その他のいかなる媒介を経ても、それほど効果的に言うことのできないことを『言う』」のであり、また、「儀礼は、その要点を、感覚の世界に、直接に表現する。儀礼は、触ることができ、見ることができ、聞くことができ、肉体的である。何にもまして、それは、体現される。儀礼の言語は、行為そのものである。儀礼は、言葉だけではできないことを行う」ものなのである。

つまり、儀礼の言語においては、部分的、一面的なものではなく全きものの伝達が望まれているのである。言い換えれば、儀礼とは、究極的価値についての全きものの伝達を望む人間の真摯な姿勢とも言えるもので、そこでは、ただ頭で教えを「読む」のではなく、五感(視・聴・味・嗅・触)を活用することによって、教えを「聞く」ことがなされるのである。そして、この世のものを捨て、すべてを捨て去る時に、人間の感覚はさらに鋭くなってゆく(125)。儀礼とは、そうした果ての最も研ぎ澄まされた感覚としての人間の感性が、〈自分が何者であるのか〉を知り、そして、その〈真の自分〉の姿となることを可能ならしめるものなのである。

人間の音声の問題としては、感情や情緒の表現記号となる音楽的な音身振り(126) があるが、人間の声は、また、音楽のもつ別種の表現方法をも使用している。高低、緩急、強弱のコントラストや、音階を上下に動く変化等がそれであるが、E・B・タイラー(Tylor, Edward B.)氏は、「これらの手段を駆使すれば、話し手は、聴く者の心をして、淡い倦怠感や驚愕、歓喜にたかまってゆく活き活きした陽気な気持ちの動きや、次第に静まってゆく激怒のほとばしりにいたる気分の全域を体験させることも可能となってくる」(127) と述べている。また、養老孟司氏が指摘するように、「音」は人間が耽溺しやすい感覚の一つであり、そして、「めまい」というものも、耳で感じる感覚である(128)

このようなところに、説教者によるその人為的技術をも含めた、〈節談説教〉における音楽性と「音」の重要性がはっきりと窺えるのである。音というものは宗教体験にとって非常に重要な要素だと考えられるのであるが、音が何か固有の力をもって、人間の無意識や、脳の報酬系の神経と生理学的次元に対して(129)、直接的効果を及ぼすことについての解明は、しかしながら、将来の問題に属しているのである。

〈節談説教〉においては、記号体系の中の言語のみならず、音の響きやリズム、そして、「節」ないしは「調」が重視されているということは、第一章及び第二章でみてきた通りであるが、その結果として、〈節談説教〉における音声言語は多層性を有するものとなっているのである。鎌田東二氏は、言語のもつ多次元性を、1 言語の物質的次元、2 言語の生命的次元、3 言語の社会的次元、4 言語の霊的次元の四つに区分しているが(130)、そこから発展して、〈節談説教〉における説教者の言語というものについて考察する場合には、次のような六つの点が挙げられるのではないだろうか。つまり、説教者の言語とは、1 言語の意味作用が未だないところで、音を身体に響かせ、意識や精神の覚醒あるいは変容を促していく層、2 言語が発声される時に深く相関する呼吸作用によって、生活体的生命のリズムとゆらぎ(fluctuation)ともなり得る層(131)、3 意識の共同主観性の中で意味伝達がなされる層、4 意味の中に欲動的〈情念〉を通じさせる層、さらにそれらの上に、5 もっと大きな意味の枠組みから発する光、すなわち、宗教的生命と力とを与える何かが現われる層、そして、6 言語の意味作用が既にない、つまり、言語の意味作用を突き抜け、象徴機能へと転位せず、それらを超出して作用するというような、リミナル(liminal)な言語が言語そのものとして生きる層(132) によって、多層構造をなしていると考えられるのである。言い換えれば、このような層が複数のまま一挙に顕在化する言語が、〈節談説教〉のことばであると言うことも可能であろう。先に述べた〈節談説教〉における音楽性と「音」の重視ということは、日常的言語を以てなされる説教において、このような多層性の言語空間を構築することによって、説教者が、より正確な思想表現を以てその伝達の完全性を目指す故の、一つの試みであるとも言えるのである。また、彼の演技性、あるいは、身体言語についても、〈節談説教〉をすなわち儀礼であるとする視座からは、宗教的真理の伝達を全きものに近づける為の一要素となるのである。

浄土真宗の節談説教において、説教を聴聞すること、聴聞者の反応、節に陶然と酔うこと、そして、「受け念仏」が湧き起こる昂揚状態等は、儀礼の時間の諸形態である。さらに、祖父江省念師において、人為的技術を忘れ「自然に節が出てくる」状態や、譬喩因縁談を語る中で、聖人や妙好人になりきること等も、儀礼の時間の中に在るからである。バプティスト教会においても、同様に、説教を聞くこと、ゴスペルを歌うこと、会衆の反応、そして、「聖霊の内にある」もしくは「神の力を感じている」昂揚状態等は、やはり儀礼の時間の諸形態である。さらに、バーバラ・ワード=ファーマー氏において、突然踊り出すこと、手に触れること等も、同様に儀礼の時間の中に在るからである。

さて、聖書の宗教は、「ことばの宗教」である。旧約聖書の「創世記」の初めには、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と記され、また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の初めには、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と記されている。浅野順一氏によれば(133)、旧約において、ことばを意味する原語に「ダーバール」(dabar)があり、この語の意味は、一つには、「背後にある」ということ、そして、もう一つには、その背後にあるものが前に出ていく、という意味であるという。つまり、「ことば」とは「具体化すること」を表わし、聖書のことばが事実として実現しないのであれば、それは「ことば」とは言えないのである。言い換えれば、理念の具体化である。「ことばは背後にある意味が前に出てきて、ただ口や筆による表現というよりも、むしろ事実、行為による表現」となり、したがって、「ことばにそれ自身がみずからを実現していく力がある」(134) のである。

ここに、日本の言霊信仰と通底するものを、見い出すことは可能であろうか。第一章で述べたようにこの論文においては、それについて私は言及し得ないのである。ただ、こうした、一面では「言語の呪力」にも繋がるであろう「ことば」の在り方が、〈儀礼〉というものの行為の発現や表出の過程と、ごく接近したものであることをみるばかりである。第二章でみてきたように、バーバラ氏は、その伝道において、何度「イエスのみ名によって」と繰り返し言ったことであろう。しかして、このような「ことば」は、何処から来るものなのであろうか。神学者であるR・ボーレン(Bohhren, Rudolf)氏は、聖霊を「言葉を与える者」と呼び、また、説教の行為において霊と言葉との統一へと至るのであれば、説教の行為そのものが、奇蹟の高調の時となると述べている(135)。これは、例えば、説教において「罪の赦し」ないしは「癒し」が現実化するならば、それは「悪魔ばらい」を行うのであって、説教は、奇蹟の出来事となり、しるしとなるということである。説教の行為そのものが奇蹟の高調の時となるという点では、第一章で触れたように、澄憲が雨を降らせ、聖覚が病を治したという両者の説教の霊験が伝えられているが、これらの叙述は説教そのものが多面体であることを、すなわち、「儀礼複合」であることを示すものである。説教が、宗教的真理を言葉をもって「伝達する行為」としての、それだけでは決してないということなのである。

折口信夫氏は、神の来訪、マレビトの訪れとは、文字通りに「音連れ」であるのだと説いた。そして、鎌田東二氏は、声音の力について、次のように述べる。「たとえば、祝詞を唱え、真言や念仏を誦する声が、精神や身体を柔らかくほぐし、マッサージし、気息の流れを浄化し、活性化することをわたしたちはしばしば体験する」、「われわれが音楽に陶酔し、魂が浄化されるような気分に誘われることがままあるのは、そもそも声や音が、身体意識の領域と状態を微妙に、また確実に変容させる力を宿しているからである。それだから、声音には治療力がある」、「歌も、音楽も、説教も、聖句の詠唱も、それが浄霊の業に通じることがあるのは、声音が心身を浄める力を持っているからである」(136)

「癒し」という言葉には、日常的用法において、実に広い行動学的な意味合いがあるとさる。具体的には、触り(touching)、抱きかかえ(holding)、語りかけ(talking)、見つめ、観察し(watching)、食事を与え(feeding)、世話をし(care)、支援し助け(support and help)、甦らせる(rehabilitation)というような、一連の再社会化の為の援助システムにおける諸行為となるが、この内に行われる、言葉の介在する「聞きとり、語りかける」ということは、人間が固有する高度な精神機能の業である(137)。例えば、人間の精神の病においては、実際に言葉は発病の原因ともなるし、治療の道具ともなっている。しかし、今日のコミュニケーション理論によって知られるように、同じ内容の言葉(文章)で説得しても、言葉を発する説得者によってその効果には著しい違いがあるという。精神医学の高橋紳吾氏は、「ことばに『感染力』があるとすれば、発せれたことばが真実かどうかということよりも、発した人がいかに信念の人であり、受け手がその人を信用したかという点に本質的な問題の所在がある」(138) と述べている。

このことを説教に置きかえれば、説教者における「自信教人信」(『往生礼讃』)という心得や、説教者というその人格に対する聴衆の信頼が、説教に際して必要不可欠であることが示される。中野隆元氏は、「宗教の弁論は、単なる言語、単なる音声の伝道ではない、生命の伝達である。此の生命の伝達は、他の介在者を除去したる人格と人格との接触により生ずるもの」であり、「布教の根本は、布教者其の人の人格であって、此の力が教壇の上で活躍してこそ始めて大衆に感化を及ぼす」〔原文は共に、旧・正字を使用〕と述べ(139)、また、R・ボーレン氏は、「説教を聞くということには、〔中略〕説教者と会衆との人格的関係が重要である。説教者の模範としての生き方や、信頼が重要なのである」と述べている(140)。これらのことは、ひいては人々の側からする、説教者の人格に依存するカリスマ化、あるいは、説教者に対する生き神信仰的もしくは偶像崇拝的な心情を、齎すかも知れぬ要素を、その内に含むものである。

しかし、淨土真宗においては、例えば、「法座」に対しても「聞法の場」という意味づけがなされ、あくまで「法」を戴く立場が貫かれることによって、さらに、そこで「生き死にの解決が計られる」ことによっても、藤井正雄先生が指摘されている(141)、「『座』があらかじめあってその座から『法』を志向する」という方向性の中に、「集団的カタルシス・コミュニケーションの場」となった新宗教におけるそれとは、明らかな一線を画するものであろう。また、省念氏が「私の後ろには仏さまがついておいでる」、「儂から仏さまをとってまったら何も残らん」と言いながら感謝するのも、バーバラ氏が「私に歌うのではなく、神さまに向かって歌って!」、「神さまに対して」と注意を発しながら神に栄光を帰するのも、人々の心情に芽生えるかも知れない、説教者個人の生き神化ないしは偶像化に対する明確な否定であると考えられるのである。この明確な否定の下にこそ、説教者という個人に由来する支配的中心を安定させるべく、表敬活動がなされるのではなく、〈節談説教〉という儀礼の言語を以て、あくまでも「説く者と聴聞する者とが法の前に一味となった、まさに〈同入和合海〉を説教の場に現出」(142) すべく、説教者と聴衆との共同作業がなされてゆくのである。

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III 交感の宗教性
2.〈節談説教〉のことば(二)
(143)

説教者とは、本来、巡回性をもつ存在である。このことは、その歴史的事実によるばかりでなく、祖父江省念師、バーバラ・ワード=ファーマー氏という、今日の説教者の言説や実際の布教活動にも示されている(144)。したがって、寺院や教会のように固定された施設(145) があるとしても、〈節談説教〉という儀礼は、説教者の訪れがあってはじめて開始され得るものなのである。人々は、まず敷居によって、つまり、それらの聖なる場所に入ることにより、日常の空間から移動し、説教者が現われるのを待つ。或種の合図がなされる迄は、人々はただ待たなければならないのである。しかし、この待つことの間に、聴衆において、これから聞くこととなる説教者の〈語りかけ〉に対する期待が増幅されていくのである。世話役の手で拍子木が打ち合わされて鳴り(省念師)、あるいは、「祈り」への呼びかけがなされ(バーバラ氏)、もしくは、楽団の演奏が響く(バーバラ氏)。このような説教者の訪れを齎す合図と共に、人々はその儀礼の開始を知り、通常の時間が消失するのである。
 このような合図が何らかの音声によってなされるという点においては、説教者が聖なるものを体現している者であると、もし人々の側から見做されていればなおさらのこと、前節で触れた折口信夫氏の「音連れ」に近いものがある。また、説教者の巡回性という点からは、説教者とはマレビトであり異人であるとも言えよう。それは、リミナリティに属する存在である。

合図によって始まる〈節談説教〉の時間であるが、それは同時に、段階を有しながら広がりゆく、儀礼の空間の出現である。そして、一度儀礼の場となり外に在る日常性を遮断すると、「内なる儀礼の世界は、それ自身の生命、それ自身の重要性、それ自身の聖なるもの、永遠なるものの感覚と共振するようになる」(146) のである。聴衆は、説教者の話に応じて適切なところで頷き、笑い、泣き、狂喜する。この適切さは、あたかも先に控えた〈呼応の時〉の為に、両者の呼吸を前もって合わせいく準備かと思われる程、しだいに相応の度合を増すものである。そして、聴衆は同時に、説教者の〈語りかけ〉によって(147) 漸次強化されていく集中を以て、親さま(阿弥陀仏)に全てをまかせる、あるいは、主(神・イエス)に全てをゆだねるという方向性の中で、その焦点を合わせてより一層に「聞く」ことをなすのである。「聞はきくといふ、信心をあらはす御のりなり」(唯信鈔文意)とされ、また、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ人への手紙)とされているからである。

説教者は、「神話」(「救済の物語り」)を人々に語る。これはしかし、或側面においては、説教者が人々の為になす弁護的な言語のあり方であり、言い換えれば、説教者が聴衆となって語るということである。つまり、人々が言い表わすことができずにいる、悩みや問題と共に今在るところの諸状態についてを、説教者が彼らに代わって言葉で表現することによって、それらが人々の意識の層で明らかとなり、理解されるようになるのである。そこでは、説教者自身の意識と聴衆の意識とが直接的関係をうち立てていると言えよう。そして、もしこの時に「解消」もしくは「解決」が生ずるのであれば、このことは、「阿弥陀仏」→「凡夫」、あるいは、「神」→「人間」という方向における「救済」(148) に対する、説教者と聴衆による二重経験として捉えられるのである。例えば、省念師が聴聞者に「安心」を与えることは、その一例となるであろう。このような説教者による弁護的な言語表出は、さらに、説教者自身の経験、或特定の信者の経験、聴衆の経験という、三重の経験においてなされる場合もあるのである。省念師が「儂の檀家に......」と、特定の信者について言う場合もそうであろうが、さらに顕著な一例としては、バーバラ氏が「この女性は......」と、その場にある特定の人物を指しながら会衆に示して話す場合である。バーバラ氏自身においては、神の力ないしはイエスのみ名によって、その人を救ったという事実の経験であり、当該者においては救われた、あるいは、癒された状態の経験であり、そして、それを見守り、且つ、共に祈る会衆においては、「救い」の出来事に対する参与の経験である。このように「救済」が成し遂げられる限りにおいて、これらは言うまでもなく、「神話」の現在化となって、儀礼の場に立ち現われたものとなるのである。そこにおける説教者は、「神話」を語る者として、預言者であり、さらに、超越的存在の代行者として、人々を「救う」、あるいは、「癒す」者なのである。

「聞く」ということは、或人々にとっては、知性的もしくは情報的な段階での説教の聴取であるかもしれないが、他の人々にとっては、彼らに対する「阿弥陀仏の呼びかけてやまない声を聞く」、あるいは、彼らの為に「臨み来たる聖霊の言葉を聞く」という、高度に感性的な段階における体験となり得るのである。究極的実在との直接的触れ合いないしは霊的交わりの機会の到来であり、その場に超越的人格の存在が感じられ、確信されながら、強烈な昂揚状態に突入することによって活性化されゆく、聖なる時間の中の聖なる時間である。これが、〈節談説教〉における真正の時間であり、真正の空間である。それは、究極性からの〈語りかけ〉を聞く為の時空であるが、「神と人の対面する両者には、上下または対立する形での一種の隔たりが意識され、その交流は緊張した定型の上のみに成立する」(149) という「祭儀」とは全く異なった、いわば「開け放たれた真の厳粛性」とも呼ぶべき、究極性に近づく〈彼らの方法〉によって齎されるものである。

そこでは、聴衆がもし何かを感受し、それを表現したいと衝動的に欲するならば、ハーヴィー・コックス(Cox, Harvey G.)氏の言う「傍観者ー執行者体系」(150) の中に、ただじっと黙していなければならぬということは決してないのである。あらゆる意識、無意識の音声言語によっても、あらゆる随意、不随意の身体言語(151) によっても、彼らのコミュニケーションは成り立つのである。彼らは、如何なる言語表象的合法性にも、つまりは、発話(152) の構造のルールにも従う必要がないのである。この外的自由性は、人々の内的世界へと結びつきながら、思想や言葉の限界ぎりぎりのところに在る自由と率直さを、彼らのものとすることを可能ならしめ、且つ、正当化するような一つの条件であり形式である。公的社会的な世界観の支配から意識を解放し、そこで支配的な如何なる構造や枠組みにも納まらない、自己の新しい世界像を明らかにすること、それは、〈民衆の思想と言葉〉の形成なのである。いつわりの厳粛さや公的社会的意識は、新しい世界に対する認識をくもらせるだけのものである。〈節談説教〉においては、聴衆が感受するままにその世界を表現しても、決して罰せられることはない。彼らには、表現することが許され、あるいは、彼らの表現が求められて、〈節談説教〉に参与するのである。この点においては、〈節談説教〉は、まさしく「カーニバル」であり、「祝祭」である。

ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン、Бахтин, Михаил Михаилович)氏は、カーニバルについて、次のように述べている。「カーニバルでは一切が平等とみなされた。人々は、通常の生活、つまりカーニバル外の生活では、階級、財産、職務、家族、年令の状況のさからい難い障壁によって分け離たれているのだが、このカーニバルの広場では、その人々の間に特別の、自由な打ち解けた触れ合いの形が支配したのであった。〔中略〕すべての人々のこの自由な打ち解けた触れ合いは、とても鋭敏に感得され、カーニバルの一般的な世界感覚の本質的要素を形作った。人間はいわば新しい、純粋に人間的関係を求めて生れ変ったのである。疎外は一時的に消滅するのだった。人間は自分自身に立ちもどり、人々の中で人間である自分を感得するのだった。それにこの真に人間的な関係は、想像や抽象的思考の対象にすぎないのではなくて、生き生きとした実質的・人間的触れ合いの中で真に実現され体験されたのである」(153)。そこでは、人は真の意味で〈人間〉となり、あらゆるコミュニケーションが全人格的な実存的交流に転化する。すなわち、V・W・ターナー(Turner, Victer W.)氏の言うコムニタス(communitas)である。

そこにみられる高度に感性的な段階、つまり、〈節談説教〉の真正の時空においては、「法悦」ないしは「至福」による〈霊と熱情〉の諸状態が人々の上に現われてゆく。存在(existence)することは「局外に立つ」ことであり、すなわち、恍惚状態(ecstacy)にあることであるとは、V・W・ターナー氏の語源論(154) であるが、その意味において、人々は実存的コムニタスを経験している。そうした彼らの間には、激しい呼応が続いていくのである(155)。或瞬間において、説教者と聴衆は、究極性に向い或和音を奏でる如くに一体となるのであるが、次の瞬間には、聴衆が表現者となって、説教者がそれを「聞く」、そしてまた、説教者が表現者となって、聴衆がそれを「聞く」という繰り返しがなされていくのである。説教者は、時に「凡夫」となり、あるいは、「罪人」となって、聴衆の称える究極的実在についての「名」を聞いて、そして、それを信ずるのである。聴衆のそうした表出行為が担う役割については、第一章の第三節で「はやす」こととの類型化において触れているが、ここで改めて述べるならば、それは、説教者自身をより一層の昂揚状態に投入させる機能をも有するものである。この時点においては、その〈節談説教〉を説教者がリードしているのか、聴衆がリードしているのか、はっきりとわからぬ程である。

説教者と聴衆が「聞く」究極性から発せられる〈語りかけ〉は、儀礼の場に顕現した他者によることばなのであり、それ故に、全てを彼らの心の中の働きに還元してしまうことは誤りとなるであろう。それは個人における、阿弥陀仏、あるいは、神との一対一の世界である。遡れば、親鸞においては、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)という弥陀の本願であり、パウロにおいては、「私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子」(ガラテヤ人への手紙)の贖罪であったのである。

他者の語りかけを聞くということは、他者の声が自分の中心に届くことである。「それに応答するとき、『私の』行動は他者の声を含んで成り立っている。応答し行動する『私』は、他者の語りかけを含んで成り立っている。それを他者との『出会い』といってもよい。他者に『出会って』いるとは、私がその他者を含んで私だ、ということ」(156) なのである。八木誠一氏は、仏教における「縁起」と「空」のキリスト教における対応に触れながら、そこに、イエスの場合における、自他の「一」の事実が「語りかけと応答」に即して把握されるとしている。言い換えれば、自己と他者というこの二つは、「二」であって「一」ではないにも拘わらず、しかしその限り限りの在り方において「一」であるのであって、ミハイル・バフチン風に言えば「一つの両体一体」のイメージの中で合するのである。これは、自己が自分のそれ迄の枠組みを既に超えて出て行かんとする状態であり、それ故に、ここにおいてもまた、もう一つのリミナルな言語が生まれ出るのである。この時、人々は、「神話」を自らの表現として解釈し、あるいは、自己の表現として新しく作り出すのである。この「神話」は、決して既成の、完成されたものではない。それは、常に生成され、創造されつつあるものなのである。そして、〈節談説教〉において、この「神話」の出来事が起こるのは、常に自己と他者との境界の上であり、この二つの存在の接触点である。この境界の上でいとなまれるあらゆる行為が、いずれの場合でも「二」が「二」であって「一」であるように、生命の初めと終わりも、互いに切り離ち難く絡み合っているのである。

人々は、あらゆる階層秩序の中におけるそれ迄の位置を捨てて、生成され創造されつつある「神話」の世界の、単一の水平線的地平を目指し、その地平の上に自分の新しい位置を求め、新しい関係を結び、さらに、自他の「一」という新しい隣接関係を生み出してゆく。人々は、「いと高きものを低きものと統一させ、遠きものと近きものを合一させ」(157) るのである。そして、「階層づけの『外』から突然やってくる言葉、あるいはその階層自体を逆転する無限の空間」(158) であるリミナルな言語は、生まれ出たそのままでそこに存在し得るのである。

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III 交感の宗教性
3.交感の中心とその周縁

これ迄にみてきたように、〈交感〉が生起する時に、リミナルな言語は生まれ出る。しかし、リミナルな言語というものの在り方に従えば、それは、〈交感〉の中心に在るものではなく、周縁のものであることが明らかとなる。なぜならば、そこには、リミナルな言語に先立つ「語りえぬもの」の顕現が、まずなければならないからである。〈節談説教〉は儀礼の言語であり、また、言語表象記号としての言葉が、その構成要素の一つとして、かなりの重きをなしていることも事実である。さらに、〈節談説教〉に立ち現われる〈交感〉が、人々の「究極性への飛躍」のリチュアルとしての、表現ないしは表出行為という外的言語を有することも事実である。しかしそれにも拘わらず、その〈交感〉の真の中心とは、如何なる言語も存在することのない「沈黙」の空間なのである。言い換えれば、〈節談説教〉のあらゆる言語の真理性を支えているのは、「沈黙」であるということである。したがって、〈節談説教〉の用いる言語は、その中核部において、絶えず「沈黙」の中へと回帰すべきものなのである。

ここにおいて、リミナルな言語は、「沈黙」から逃れながら、自己と他者との境界の上で儀礼の世界を維持しようとする、人々に与えられた道具となるのである。人々は、「沈黙」を恐れるのではなく、〈節談説教〉という儀礼の世界が消失することを恐れるのである。それは、究極的実在との直接的な触れ合い、そこで聞くこととなる〈語りかけ〉や自分達の応答、そして、全人格的な実存的交流等が起こる世界に対して、彼ら自身がそれをリアルに感じ、且つ、彼ら自身がそれを所有することを、人々が必要としているからなのである。さらに言えば、そうした体験から、彼らが「神話」を自らの表現として解釈する、あるいは、自己の表現として常に新しく作り出すことが可能となるのであり、その結果として、自分の〈本当の名前〉や〈自分が何者であるのか〉を知ること、すなわち、アイデンティティの創出がなされることを、人々が必要としているからなのである。つまりは、人々におけるアイデンティティの創出への希求が、〈交感〉のもつ宗教性の一つとなっているのである。

アイデンティティの創出ということは、井門富二夫先生をはじめとする諸研究者が説明するように、ここで演劇になぞらえてみるならば、さながら役者の〈試み〉である。彼は、例えばシラーの劇において、ドン・カルロスを演ずるだけでなく、ドン・カルロスであり、そして、一人の〈人間〉であることを望むであろう。舞台の上では名優が、特定の「筋書」の世界の中に、さらには、その筋書に基づいて決定された幕と場という人間模様の中にあるにも拘わらず、そのストーリーの主だった枠組みを超えながら、しかも、定められた筋書の中の自分の「役割」におけるあらゆる可能性を探っている。言い換えれば、役割とは切り離された〈自分〉という意識を持ち続けることによって、その役割は、彼がそれとして理解している〈本当の自分〉に係わるものとなるのである。それだからこそ、演じられるのは、他の俳優とは一味も二味も違うポーサ侯爵でありマリア・シュトゥアルトであり、そうした劇中人物の思考や台詞の周囲には、もっと大きな意味の枠組みから発する光が瞬くのである。

しかしながら、現代社会という舞台の変容、すなわち、拡散してゆくばかりの「筋書」や曖昧で流動的に設定される幕と場の複雑な人間模様の中で、俳優は、環境への適応に追われることも然る事ながら、まずストーリーを読み取ること自体において、それ故、自分の役割をはっきりと把握することにおいても、困惑の内に大変な努力と自らの冒険的な〈試み〉を必要とするようになった。既に一幕ものの劇から大河劇に移行がなされ、舞台規則に従ったモリエール的劇は廃れ、状況劇場が登場する中で、彼は、アド・リブ俳優とならざるをえないのである。シュッツ(Schutz, Alfred)氏は、「われわれは役割においてさえ選択の自由をもっている。〔中略〕この自由には、われわれが仮面を外し、役割を離れ、社会的世界におけるわれわれの定位をやり直す可能性が含まれている」(159) と述べているが、個々の役者において、どう筋書を読み取り、また、自分の役割を明確にしていくのかについての責任が、そこでは、極めて個人的レベルで迫ってくるのである。

これ迄のあらゆる舞台(社会)の背後には、「神話」があった。これは、ギリシャ悲劇が豊かで明瞭な神話に依存し、シェイクスピア劇が古代的世界観とキリスト教的世界観との緊密でいて且つ自由な結び付きによって成り立ち、ブレヒト劇がその関係は屈折したものであれマルクス主義という神話を背景としていたのと同じである。しかも、ジョージ・スタイナー(Steiner, George)氏が述べるように、「西洋文明における想像力の動き方や働き方の中心にあった神話、人々の精神のあり方を規定してきた神話は、個々の天才が産んだものではなかった」のであり、「神話とは長い時間にわたって蓄えられた沈殿物を結晶化したもの」で、「ある民族の原初の記憶や歴史的体験を集めて、なじみあるかたちにまとめ上げる。驚愕や鋭い知覚を経験している時に人間の精神が語る言葉が神話」(160) なのである。ところが今や、自らの冒険的な〈試み〉として、自分の「神話」を、自分の「宇宙」を、新たに構築しなければならないのである。 昔日の、どっしりと揺るぎない「目に見える」宇宙観の中に、安心して身をゆだねさえすればよかった時代には、もう二度と戻ることが許されない。それでも何処かに存在するであろう現行の「筋書」は、あまりにも拡散しきっていて、正しく読み取れるものであろうか。こうした現代社会のあり方に起因する不安や疑いに盈ちた個人的な混乱は、時に「拠りどころの無さ」、あるいは、「故郷の喪失」という感情となって、人間を悩ますであろう。「もし、われわれの多くが『淋しい群衆』の中で生きているとしたら、われわれは『再確信のためのカルト』を見つけることを期待するであろう」(161) とは、J・M・インガー(Yinger, J. Milton)氏も述べるところであるが、現代社会では、一時の安定や確かさを相互に求め、筋書を同様に読み取る者が集まってくるのである。しかし、それがあまりにも教義的もしくは客観的な信仰基準にのみ忠実な「チャーチ的」宗教である場合には、或人々にとっては、単に共通の価値観の中に安住する場を見い出すことでしかないであろう。また、そこにおいて、自分達の〈名前〉を成立させる為に「神話」を作ることが可能であるとしても(162)、そのアイデンティティの集合的探索の果てに、それが必ずしも、自分の〈本当の名前〉を知り得たことにはならないのである。それ故に、より超越的な基準に向かい、自らの手で、たとえそれが無謀な〈試み〉であったとしても、〈自分自身〉でありたい、あるいは、〈本当の自分〉でありたいとアイデンティティの創出を求めながら、個々の人間が表現する「超理性的象徴行為」や「信念表出行為」(consummatory action)が、アド・リブ俳優の自由さにおいて、実に多様な形で展開されてゆくのである。

そうした、究極性に向かう人間の関心によって引き起こされる、個人の冒険的な〈試み〉においては、当然のことながら、その行為者の自由と率直さを以て表現を可能ならしめ、且つ、当の行為者を正当化し得る条件と形式を備えた、或種の「アイデンティティのためのリチュアル」が必要とされるのである。具象的宇宙観を失った現代社会において、極言すれば、〈節談説教〉の真正の時空こそが、それに応えるものであり、また同時にそれは、〈交感〉を媒介とする儀礼の意義を我々に示すものなのである。なぜならば、〈感じる〉ということは、第一章で述べた「これを自分で止めることができない」という経験としてあるばかりではなく、金児暁嗣氏が述べるように(163)、信念体系のなかで基底的位置を占め、疑う余地のない「0次の信念」に繋がる感覚経験であるからである。儀礼における〈感じる〉ということの重要性は、このような現代社会でこそ、再認識されるべきものではないだろうか。

とはいえ、〈節談説教〉に立ち現われる〈交感〉について述べる場合でも、例えば、霊験や奇蹟とはいったいどういう事態なのか、究極性の〈語りかけ〉は実際に「聞く」ことができるのか、阿弥陀仏の光に照らされる、あるいは、聖霊が臨むとはいったいどういう状態なのか、そして、そうしたことは現在でも本当に起こり得るのかどうかという、これらの問いかけに対する明確な答えはない。しかし、〈節談説教〉においては、既に述べたように、「神話」の現出ないしは現在化が起こり、人々の「救済」がなされるのである。そして、人々が「聞いた」、そして、「感じた」というあらゆることが、〈節談説教〉においては、人々の上に実際に起こった出来事であり、揺るがぬ事実となり得るのである。繰り返しとなるが、その儀礼的意義において、〈感じる〉ということの重要性は、明らかに示されているのである。それ故に、〈交感〉を欠いた儀礼という問題についてが、八木誠一氏においては、次のように述べられることとなる。「結局、『神の言葉の体験』ともいうべきものが失われていることが神信仰、ひいてはキリスト教ばなれが欧米においても進行している理由なのである」(164)

ボコック(Bocock, Robert)氏が提示する、現代儀礼の機能的分類における第四の「個人の審美的儀礼」(Aesthetic Ritual)とは、ダンス、絵画をはじめとする「個人の究極的関心を個人的に表現する象徴的行動」の群であるが、さらにそこには、若者の集団的ロック・ダンス、ハレ・クリシュナの音楽行進、そして、宗教的幻想を求める若者のLSD体験等が、共にとり込まれたものとなっている。井門富二夫先生は、この分類に触れて、これを先生のいう「個人宗教」の極端な例示の一つであるとしながら、次のように述べている。「ボコックの言わんとするところは、拡散した価値の時代にあって、自分なりにリフトンのいう個人的境界(究極的アイデンティティ)を求める若者たちが、伝統にはとらわれずむしろ伝統の統合的権威づけに抵抗して、アド・リブ俳優的に自由に、自己の読みとる究極的宇宙観をいきなり欲求レベルの適応追求意欲にぶつけ、(換言すれば、拡散している既成の文化や社会の規範・規制を無視して、変容する環境に正しく適応しようという欲求を、いきなり自分なりに読みとった宇宙観にぶつけてみる試みであろう)、そこにとびちる瞬間の火花に身を焼きつくす喜びから生れた儀礼ということであろう」(165)

ここに、〈節談説教〉において立ち現われる〈交感〉と漸近する、何かがみられるように思われたのであるが、この論文においては、明らかにすることができなかった。

さて、筋書があまりにも拡散しすぎて捉え処のないものになってしまった大河劇・状況劇場においては、「演出」をもってしても、また、それぞれの幕なり場なりを「集合的」に収めたとしても、そもそも筋書を支えられない舞台の上に立つ俳優は、その役割も人格も成立しないままに、混乱するばかりである。彼が取り得る手段は、1. 以前に演じられた様々な劇のストーリー(あらゆる階層秩序の中におけるそれ迄の権威や規範、あるいは、それ迄の自分の位置)を思い起こし、それらに沿っていくことか、それとも、2. 個人としての俳優が急にアド・リブを言い出すように、自己の認識を状況にぶつけ、その状況に生ずる周囲の他者の反応をみながら、筋書を読み取っていくことか、あるいは、3. 冒険ではあるが、筋書に対する自己の解釈を信じ、自らの〈感じる〉ままにその世界像を表現し形成していくことの何れかとなるであろう。いずれにせよ、人間である以上、舞台の上で呆然と立ちつくしてはいられないのである。自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである。

この表現せずにはいられないという〈人間〉的欲求によって、「語りえぬもの」の空間である「沈黙」へと回帰する限り限りの境界状態の中で、最後に大きな声を上げゆくものがリミナルな言語である。そして、境界の上で「神話」の出来事が起こり、あるいは、〈交感〉が起きる時に、人々から生まれ出るリミナルな言語は、その数が多ければ多い程に、それ自体の空間を無限に広げていくことができるのである。〈節談説教〉における強烈に昂揚した場面とは、一方において、究極的価値についての全きものを手に入れることを求めながら、他方では、中心であり、真理の源である「沈黙」への到達を引き伸ばそうとする、言い換えれば、真なるものを得るよりも、むしろ彼らの儀礼の世界を保持しようとする、〈人間〉のアンビバレント(ambivalent)な矛盾をも、その内に含むものとなっているのである。しかしながら、それが、現代社会において何時の間にか多元的になってしまったアイデンティティを、個人のより新しくより究極的な、ただ一つのアイデンティティへと、再生ないしは再統合する〈試み〉を行う、〈人間〉のいとなみであることには、少しもかわりがないのである。

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おわりに

第一章及び第二章の歴史的考察において、浄土真宗の節談説教とバプティスト教会の福音伝道が、その歴史的過程を通して、常に民衆と共にあり、共に歩み、そしてそこには、民衆のニーズの吸い上げないしは応接があったことが、明らかに示されたと思う。実際の布教活動の現場では、おそらく説教者にとって第一義的な問題とは、人々をその場において「救う」ことであり、それには、何よりもまず、人々が教えを真に信ずるということが起こらねばならず、その為に効果的であろう事柄を庶民の言語と表現の世界からかなり自由に取り入れて、人々を感性的覚醒による宗教体験に導く手法が編み出されたのではないだろうか。また、第一章及び第二章の各章第三節では、浄土真宗大谷派の説教師である祖父江省念師と、バプティスト教会系の福音伝道者であるバーバラ・ワード=ファーマー氏による、それぞれの説教の場(あるいは、伝道の場)で、説教者と聴衆の共同作業における宗教思想の形成的強化と多方向のコミュニケーションが起こっていること、そして、そこに〈交感〉という人々の宗教体験が実際に生じること等を、私の参与的観察記録を以て、例証的にみてきたのである。

第三章においては、浄土真宗とバプティスト教会という〈全く別のもの〉から来る、二つの〈節談説教〉について、統括的に論じることを試みた。浄土真宗の節談説教とバプティスト教会の福音伝道は、〈全く別のもの〉から来た儀礼ではあるが、人々の信仰を深める、あるいは、人々の信仰をよりリアルなものとする、〈交感〉の重要性についてのそれぞれの例証であり、例示であるのである。ここでは、両者の類概念的共通集合の中に、「リミナルな言語」というものを新たに加えることによって、〈節談説教〉の言語のあり方を、さらには、そこにおける宗教体験の中核となる〈交感〉のあり方を、より鮮明なかたちで提示しようと試みたのである。

この論文を通して私が述べようとしたことは、まず第一に、宗教経験における〈感じる〉ということの重要性である。この論文では、主として、自己と他者との間に生じる〈交感〉というかたちでのそれを指しているのであるが、この〈感じる〉ということが、如何に重要であり、如何に大きな儀礼的意義を有しているかということである。第二に、〈節談説教〉とは、集団の中で、活気に盈ちた宗教的確信と表現の個人的現象が生きているかたちであるということである。言い換えれば、〈節談説教〉とは、〈人間〉のより新しくより究極的なアイデンティティを創出しようとする人々の非妥協的な態度と共に、時代を超えて常に我々の身近にある問題として、「アイデンティティのためのリチュアル」の必要性を表明するものではないかということなのである。したがって、この論文においては、そのあり方を、教育水準が低く、経済的にも恵まれない階級の宗教としての側面だけで、例えば、H・リチャード・ニーバー氏の言う「廃嫡者の宗教」のように、捉えることは敢えてしなかった。たしかに、〈節談説教〉にみられる強烈に昂揚した場面は、情緒的用語を用いて自己表現する「廃嫡者の宗教」に共通する特徴の一つである。けれども、その根本に厳然として在る、究極的価値に対する人間の極めて真摯な直接する姿勢や、開け放たれてはいるものの真に厳粛であるその姿の中に、人間の階層的集団的に区分された特性をみることよりも、むしろ〈人間〉とその人間のいとなみとしての〈儀礼〉における問題や意義をみるということの方が、我々が今あるところの現代社会との係わりにおいて、必要ではないかと考えたからである。

「はじめに」で述べた通りに、私はこの論文において、「交感の宗教性」という論構の下に、仏教における〈節談説教〉として、祖父江省念師の節談説教を、そして、キリスト教における〈節談説教〉として、バーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道を挙げ、そこから掴み出せるあらゆる要素を提示してみることを以て、この二つの〈節談説教〉の対比という観点から、〈交感〉という問題への接近を試み続けてきた。しかしながら、私の論考及びその提示の作業はずさんなものとなり、この論文において解明したかった〈交感〉の包含する様々な問題についてが、解明できずに終わり、その多くは、そのままの状態で残ってしまっているのである。まず、それらの問題の一つ一つを明らかにしていかなければならない。それが、私の当面の大きな課題である。例えば、〈節談説教〉において立ち現われる〈交感〉というものは、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実であるが、人間の感性とは、おそらく整合性を以て記述できないものなのである。しかし、〈感じる〉ということが、儀礼において、非常に重要な要素である以上、宗教学における感性の学とも呼ぶべき何かが、つまりは、適切で効果的なアプローチの方法が必ずあるはずである。今後の私の勉強における課題の一つとして、〈交感〉に対する具体的でよりよいアプローチの方法を、探究しなければならないと思うのである。

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