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Fushidansekkyo Material 1-a-9

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これらの資料に記しましたのは、あくまでも私が私の耳で聞き取れた範囲のことばです。繰り返し確認作業をいたしましたが、それでもなお聞き違えた言葉と聞き漏らした言葉があるかもしれません。そして、節談説教の一席一席の「一回性」ということを念頭にして、私の耳に聞こえたそのままを記しました。
節談説教資料 私の藝能学会研究大会発表資料から
1999年12月4日

尚、藝能学会研究大会発表時には、この記述資料の全文を配布し、音声資料を用いた。

祖父江省念師「口伝の蓮如」第九話

第九話 大坂建立

「さぁ親父さん首切らっしゃれ」、「いやいや儂は年寄り力もないし、とてもお前の首は切れん。じゃあどうかお前儂の首を切っての」、「いやいやそんな親の首がどうして切れる」、切れえ、切れん、切れえ、切れんの押し問答をしておりましたが、「まぁまぁ何時迄たっても埒明かん(受け念仏)。あーまぁ長い間の、お世話になったお内仏さまに、今生のお別れのお勤めをしようか」、「さあーそれがよかろう」と親子二人が(受け念仏)お内仏の前へ参りまして(受け念仏)、今生のお別れのご挨拶を致すわけでありますが、前に座りました父親源右衛門が、震える声のその中で「帰命無量寿如来…」。朝な夕なあーお勤めをしていた、読み慣れたとこのお正信偈でありますけれども、これが今生のお暇乞いと考えてみれば、最早声も出ずしどろもどろ、ようやく、「(節)願似此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽(end 節)国」(受け念仏)。涙ながらに取り出しましたが、世にも有名な「白骨の御文」(受け念仏)、「(節)それ、人間の浮生なる相を、つらつら観ずるに(受け念仏)、おおよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる(end 節)一期なり」、一言一言が五臓六腑に染み渡る、ごもっともさまでござります、その通りでござります(受け念仏)、「あなかしこあなかしこ」とようやくお勤めが終わりますと、家重代の名刀箪笥の引き出しから取り出しました源右衛門が、「倅成る程、親の首はお前が切れんと言うならば、この父親がお前の首を切ろう」(受け念仏)、鞘を払いまして大上段に振り上げて、今まさに首切ろうとするがなかなか切れるものじゃない(受け念仏)。「あー切れんわい」(受け念仏)、「早切らっしゃれ早切らっしゃれ」と、催促されて、いよいよ心鬼に致しました源右衛門が、「じゃあいよいよ切るぞォ、倅ぇ覚悟は...」「ちょちょちょっと待ちなされ(受け念仏)(節)浄土真宗は平生業成現生正定聚(受け念仏)、死に際に覚悟の用はない、一念南無と帰命し奉る時裟婆の終る臨終と思うべし、然らば臨終まつことなく来迎たのむことなしとかねがねご教化蒙っている身でありながら(end 節)、今際の際に『覚悟はいいか』(受け念仏)。あほなことを言わっしゃれ。そのようなこと言わっしゃら儂は親父さんのご安心を疑わざるを得ない」(受け念仏)、「いやいや倅、お前の言う通りかねがね聴聞さして頂いて、(節)死に際に覚悟の用はない、一声の念仏もよう唱えずに死んでも、閉じる眼は不浄の寝茣蓙開く眼は(end 節)安養淨土(受け念仏)。何時もかも常来迎と迎いに来詰めのお慈悲の中で(受け念仏)、その日その日を送らせて頂く身であれば、なにも臨終に覚悟の用はないが、余りの可愛さにのぉ(受け念仏)、言わずにおれんのじゃ」、「ああそうかそうかそれならば安心じゃ。さーあ切って下され」、今か今かと差し出す首を一思いにブァーッと切りました(受け念仏)。その場にコロッと落ちたこの生首を(受け念仏)、思わず知らず抱きしめた源右衛門、「うぁーせがれぇぇ(受け念仏)、可愛やなぁぁ...」(受け念仏)、抱きしめて泣いておりましたが思わず知らず源兵衛の着ておりました着物の片袖引き千切りまして、その生首包みましてふろしきに、丸めまして小脇に抱えた源右衛門韋駄天の如くタタタタタタタタタァッと、三井寺指して駆けて参ります。満徳院の大僧正の玄関先まで参りまして大音声を張り上げて、「満徳院の大僧正、本願寺の使いが生首を持参を致した、御真影をかやせーっ」(受け念仏)、大音声を張り上げて怒鳴っておりますと(受け念仏)、満徳院の大僧正悠々と玄関先へ出て参りまして(受け念仏)、「オゥ本願寺の使い。生首を持参をしたと。その生首をここへ出せ。余が検分してやろう」と、ふろしき包みを解きまして、「オイ親父、生首は二つと申したじゃないか(受け念仏)。こりゃ一つじゃないか。もお一つはどうする覚悟じゃ」、言われて源右衛門「うむむ…大僧正殿慌てなさるな。これは我が倅源兵衛二十三歳を一期に(受け念仏)、御真影の身代わりによろこび、よろこび、御恩報謝の大行を勤めた倅の生首じゃ(受け念仏)。も一つの首はそりぁあんたの前に立っておる、生きて用事のないこの白髪首、御真影をここへお迎いして、一目拝んだその上であんたの手でこの老い耄れ親父の首切らっしゃれ(受け念仏)。首を切られたその時が安養淨土の誕生日、十劫已来待ち給うた、如来の手許へ、よろこんで参らしてもらうじゃぁ(受け念仏)。さーあ切らっしゃれ」(受け念仏)。「よもや本願寺にこのようなお同行のあろうとは露さら知らず(受け念仏)、生首持参を致せというような無理難題を、出せば必ず御真影は三井寺のものになる、(節)このように思うたが申し訳ないお同行にすまんことじゃ、外面如菩薩内心如夜叉(受け念仏)、表姿は衣を着袈裟を掛けて立派な姿を現わいてはいる(end 節)けれども、心の中は夜叉の如く、うああーっお恥ずかしいはこの俺じゃ、謝る謝る堪忍してくれ。御真影もお返し申そう(受け念仏)。この首にも用はない、どおぞ手厚く葬ってやってくれ、この三井寺続く限り、今日を、命日としこの源兵衛の追善法要いついつ迄も勤めさせて貰おうぞ」(受け念仏)。御真影さまを背中に背負いまして、ふろしき包みの倅源兵衛の生首を前に掛けて(受け念仏)ヨロヨロヨロヨロ(受け念仏)、歩いて参れば後ろ眺めや「御恩尊や(受け念仏)、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」、前を眺むれば恩愛の情遣る方なく(受け念仏)、「(節)いくら御恩報謝の大行とはいいながら、僅か二十三歳を一期し今生のお別れをしてくれた(end 節)せがれぇぇ...(受け念仏)ああー俺は耐えられん、ご和讃さまを読んでみよう、(節) ご和讃さまのその中に『一切菩薩ののたまはく我ら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて萬善諸行を修せしかど、恩愛甚だ絶ち難く(受け念仏)、生死甚だ尽き難し(受け念仏)、念仏三昧行じて(end 節)ぞ、罪障を滅し度脱せし』(受け念仏)、あのような一切の菩薩様でも、(節)どんな難行よりもどんな苦行よりも恩愛の情を断ち切るは耐えられ(end 節)なんだと仰るのじゃ(受け念仏)(節)ましていわんや人間凡夫のこの源右衛門、倅のこの姿眺めて泣かずにおりゃりょうかぁ(受け念仏)、可愛てかわいて...どうにもならんわや」と、後ろ眺めて念仏し前を眺めて恩愛の情遣る方なくヨロヨロヨロヨロと、戻って参れば遥か向こうから蓮如上人大勢のお弟子をお連れになりお同行を伴おて、「おーい源右衛門や、おおーい源右衛門や、後ろに背負うたは御真影さまに相違はないが前に掛けたるそのふろしき(end 節)包み、そりゃぁなんじゃい」(受け念仏)。言われて堪り兼ねたる源右衛門、その場にどっさり座り込んで身を震わせながら、オゥオゥオゥオゥ泣いておるところへ蓮如さまが駆け寄って、「こりゃなんじゃ、これは」(受け念仏)、「お上人さま聞いて下され(受け念仏)。御恩知らずの倅源兵衛が、御真影の身代わりに、尊い命差し出してくれた源兵衛の生首でござる」(受け念仏)、「そぉか...ようようまぁ…(受け念仏)大行を勤めてくれた(受け念仏)(節)今頃はお淨土のど真ん中で諸仏菩薩に取り巻かれ大慈大悲の親さまが『よーう源兵衛、よ、参ってくれたのぉ(受け念仏)。十劫已来今日は来るか今日は参るかと待ち兼ねたが、今日は淨土の真ん中でお前の姿見るにつけ、五劫の思案も忘れ永劫の修行も打ち忘れおらぁぁ嬉しいぞ』と(受け念仏)、お褒めを蒙っていることであろう、軈てこの蓮如、淨土に往生さして頂いたらぁ、七重の膝を八重に折ってでも、『源兵衛、よおお勤めてくれた』と(受け念仏)、御礼を申そう(end 節)ぞ」と、源兵衛の首を蓮如さまがお頂きになりましお抱えあそばすなり(受け念仏)、「さぁさぁ戻ろ戻ろ」と、山科へとお帰りあそばし「落慶法要報恩講、そりゃぁ後回しじゃ、まず、源兵衛のお葬式じゃ」と(受け念仏)、蓮如さまが導師になられまして、源兵衛のお葬式をお済ましになったのでありますが、言い伝えられ聞き伝えられ今日迄、伝わっておりますが世にも有名な「源兵衛の生首」(受け念仏)。言うは易いが行えない(受け念仏)。身を粉にしても骨を砕いてもと、歌には詠っておりまするけれども(受け念仏)、我々が果たしてそのような御恩報謝ができようか。源兵衛が受けた御恩だとて儂が受けた御恩だて御恩にかわりはない、けれども、御真影の身代わりに我が命差し出し生首差し出すそんなことがでけようかと、思いますれば源兵衛源右衛門親子は如何に尊い方であったか(受け念仏)。色々と考えるわけでございますが、蓮如さまは段々年を召されまして、山科に南殿と申しまして南の方に御殿をお建てになりまして、ご隠居をあそばした。しばしご隠居しておいでになりましたが、念仏弘めたい欲がまだまだ旺盛でありまして、大坂へお出でになりまして今の大阪城のありますとこに、石山本願寺というをお建てになりました(受け念仏)。これは報恩講の初逮夜に、拝読をする御文の中に、「摂州東成郡生玉の庄内、大坂という在所は、如何なる前生よりの約束のありけるにや(受け念仏)。この大坂に一宇の坊舎を建立して、昨日今日と過ぎゆく程に、はや三歳の春秋を送りけり」(受け念仏)。三年間経ったその年の報恩講に、初逮夜という、初め、ま、御本山で申せば十一月の二十一日初逮夜、そこで拝読をする御文が、「大坂建立」という御文でありますが、ところが蓮如上人この時八十四歳であります(受け念仏)。稀な、その当時と致しましては長命。しかしながら「この夏より違例せしめていまにおいてその本腹のすがたこれなし、しからば当年寒中には必ず往生の本懐をとぐべき条一定と思いはんべる」(受け念仏)。もおいよいよ今年寒中には今生のお別れじゃと、お考えになっておりましたがこの報恩講をようやくお済ましになりましたが、まぁー十二月一月となりますと大変な衰弱をあそばし、なぁとても今生のお別れも近づいたと、いうような有様でありましたが、まぁ、蓮如さまはこういうような病気にもなったし、八十五にもなったことじゃで、ま、ま、この大坂城でこの石山本願寺で今生のお別れをしよう(受け念仏)、そういう覚悟であったのでありますが、二月の十二日の日に、お子様の実如上人と申します、こりゃぁ蓮如上人の御長男で、この方が、九代目の善知識におなりあそばすのでありますが、山科から、駕籠をご用意あそばして大坂までお出でになりました。「お父上様(受け念仏)、あなたは命まとうに(受け念仏)、御一代の間、御真影さまを、お守りなさった。その御真影さまのおいでる、山科へお帰りあそばして(受け念仏)、御真影さまのお膝下で(受け念仏)、今生のお別れをあそばしては如何がでございましょうか(受け念仏)。今日は駕籠をもちまして(受け念仏)迎えに参りました」と、仰せになると、蓮如上人オゥオゥオゥオゥと泣きながら(受け念仏)、「持つべきものは倅よのぉ(受け念仏)。儂の意中を察して、御真影さまのお膝下で今生のお別れがしたかろう(受け念仏)、迎えに行ってやろうと(受け念仏)、よぉく迎えに来てくれた(受け念仏)。お前の言う通り、儂は御真影のお膝下で死にたいのじゃ」(受け念仏)。いうので急遽ご用意をあそばして、大変なご病気でありますのでそろそろそろそろと、駕籠を進ませておいでになりましたが余りのご難儀のご様子でありますので、出口の光善寺というお寺で一泊されました(受け念仏)。ようやく、山科へご到着になります。駕籠からお同行やらお弟子方が手かごと申しまして、手をこう組み合わせて何人かが手を組み合わせて、この上へ蓮如さまをのせて運んで行くのです(受け念仏)。まぁご病気だから病床、寝床の中へと、いうその中で蓮如さまが、「御真影さまのご挨拶をせずに病床へ入れるかぁ(受け念仏)。御真影さまの前へ連れてってくれ」(受け念仏)。前住職でありますからお内陣で、拝礼されると、お内陣へと思い…「いやいや儂は隠居の身じゃ、外陣外陣」。丁度この、金障子の敷居に手をついて、涙ながらに「御真影さま(受け念仏)、この世においてはお目にかかれんと思いましたが、倅実如の計らいで(受け念仏)、再びお目にかかることができました(受け念仏)。ありがとうございます私はあなたのお膝下で、今生のお別れをさして頂く、こんな幸せが何処にありましょうぞ」(受け念仏)。「まぁーお疲れでございますから、どうか寝床へ入って下さるよう」、「いやいや、まだまだ。なんにも仰らんけどな、御真影さまは儂の胸にはなぁ、『よう来たなぁ(受け念仏)、よお戻って来たのぉ(受け念仏)、身体に長刀傷まで負わされて、儂を命まとうに守ってくれた(受け念仏)、あーぁありがたかったぞ』と、儂の胸にはひしひしと、御真影さまが、呼びかけて下さるように儂は感じずる(受け念仏)。昔から言うじゃろ、(節)なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼ(end 節)るる。(受け念仏)泣かずにおれん」。昔の時間で一時半と申しますから今の時間では三時間、御真影の前で(受け念仏)、まーあご病床へようようま、ご病床へ、連れて帰って参りました。そういうようなご無理をなさったので、大変なお疲れが出まして(受け念仏)、まぁこの二十日頃ではけっかいと申しまして、脈が打ったり打たなんだり、もぉいよいよこりゃあかんかと、考えておられたのでありますが、二十一日頃から回復をされまして、あくり月の三月の二十五日に御往生であります(受け念仏)。だから大変な生命力と申しますか、もあかん、もあかん、というような有様でも、三月の二十五日迄生き延びさっしゃったわけであります。しかもですね、まぁそのご臨終が如何にもすばらしい(受け念仏)、如何にも尊い(受け念仏)、本当に考えてみれば唯人じゃないなと、私は思うわけでございますが、まぁその御往生の模様をもう一席、お話を申しましょう。

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Go To and read 第四話、第五話、第六話は Fushidansekkyo Written Material 1-a-456

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Go To and read 第七話、第八話、第十話は Fushidansekkyo Written Material 1-a-7810


Fushidansekkyo Material 1-a-123

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これらの資料に記しましたのは、あくまでも私が私の耳で聞き取れた範囲のことばです。繰り返し確認作業をいたしましたが、それでもなお聞き違えた言葉と聞き漏らした言葉があるかもしれません。そして、節談説教の一席一席の「一回性」ということを念頭にして、私の耳に聞こえたそのままを記しました。しかしながら、不明確な言葉があります。「第三話 御文の製作」において、私の耳には紀州冷水浦の喜六太夫が「(前略)命終わりましたならば、ふしんぴちょうそくしょうさいほうまげたひじりのばさんはやさんお淨土へ往生させて頂いてお上人さま(後略)」と言っているように聞こえましたので、私の耳に聞こえたそのままに「ふしんぴちょうそくしょうさいほうまげたひじりのばさんはやさん」と記しました。この私の不明確な記述につきましては、もしもご教示頂けますならば、誠に幸いと存じます。
節談説教資料 私の藝能学会研究大会発表時に部分的に使用した節談説教資料から
1999年12月4日

尚、藝能学会研究大会発表時には、以下の記述資料の一部分を配布し、音声資料を用いた。

祖父江省念師「口伝の蓮如」全5巻 全十話から 第一話 第二話 第三話

第一話 ご誕生、生母との別れ

えー今回は蓮如上人の御一代の御苦労につきまして、お話を申し上げるわけですが、えー浄土真宗におきましては、法然上人を元祖と仰ぎ、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、蓮如上人を中興の祖と、こう申しまして、このお三方が浄土真宗にとっては最も大切なお方々でありますが、特に、蓮如上人の御出生がなかったとしたならば、今日我々がこの末代の世の中において、仏法を聴聞するということはおそらく不可能なことであったではないかと思いますが、蓮如上人御一代の大変な御苦労をあそばし、御開山も御一代大変な御苦労をなさったのでありますが、それにも勝るような波瀾万丈を極めた御一代の御苦労についてお話を申し上げるわけでありますが、丁度御開山様が、御歳九十という稀にも長命をあそばしまして、えー丁度、十一月の二十一日頃から御病気が重くなりまして二十八日に今生のお別れをあそばすのでありますが、このことは『御伝鈔』の下巻の六段目に明らかにお示しをあそばしてありまして、「(節)第六段聖人弘長二歳、壬戌中冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来口に世事をまじえずただ仏恩のふかきことをのぶ、声に余言あらわさずもっぱら称名たゆることなし。同第八日午刻、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましあわり(end 節)ぬ」。かようにお知らせになっておりますが、十一月の二十八日になりますと、朝から呼吸困難というような有様でありまして、丁度お昼頃になりますると、いよいよ、今生のお別れが切羽詰まってまいったわけでありますが、余りにもお苦しいような有様でありますので、蓮位坊というお弟子がお背中を撫ぜ、お腰を撫ぜ、やがて御御足を撫ぜて足の甲に触れるなり、その足の甲にしがみつきまして蓮位坊はオオオオーと大声を上げて泣くわけであります。えー御開山様は長い間常随眤近傍離れずに、看護をしてくれた色々と世話をしてくれたこの蓮位が、いよいよこれが今生のお暇乞い、愛別離苦と申しまして、親しい者と別れる悲しみが胸一杯に感ぜられて、別れが辛いから泣くんだなぁと思し召して「蓮位や、誰でも生まれた以上は死なねばならず、逢うた以上は別れにゃならんと言うが、この世の定めである。そんなに泣いてくれてもいよいよ今生のお別れじゃが、まこと信心決定ができているならば、長い別れではない、やがてお淨土で直様会えるじゃないか、そのように泣いてくれるな、お前がそのように別れを惜しんで泣いてくれるならば、儂も人間である以上、後ろ髪引かれるような気持ちになる、どうぞ、泣かずに、お念仏を唱えてくれや」と、こう仰せになりましても、泣いておりますので、「蓮位や何故そのように泣くのじゃ、お前は本当の仏法がわかっておるならば、そのように泣く必要はないじゃないか何故泣くのじゃ」と、だんだんと諌められますると、「御師匠さま、私が今泣いておりますのはお別れが辛いから、泣いておるのではございません。長い間お伴をさして頂きながら迂闊にも、ちょっとも気がつきませなんだが、今、お背中をなぜお腰を撫ぜ、御御足を撫ぜて足の甲に触れましたら、あなたのこの御御足は皹やら皹皸やら草鞋食いというようなこの荒れ果てた御御足。九十年間の御苦労が、この御御足に刻み込まれておるこれも偏に我々を、彌陀の淨土へ連れて帰ろうの御苦労であったかと思いますれば、あなたのこの松の木肌に触るようなザラザラの御御足が、御一代の御苦労がこの御御足に刻み込まれているなぁと思えば御恩のほどが偲ばれ、御一代の御苦労が思われて、泣かずにおれんのでございます」、申し上げれば、「あーそうかそうか、それで泣いてくれたか、考えてみれば、成る程九十年間ひるがえってみれば様々なことがあったのぉ。あー叡山では二十年間の間血みどろになって苦労をし、煩悩妄念をどうぞして断じたいと思うて、死に物狂いであの修行この修行とやってみたけれども、悲しい哉や自性の哀れさ、煩悩妄念を断ずることはできず、(節)定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶(end 節)覆う、どのように修行をしてみても、煩悩妄念を断ずることはできず泣く泣くながら山から下り、法然上人のお弟子になり六年間の間、あー真の知識に遭わして頂いた、幸せ者は我が身じゃ無量永劫の命拾いができたと、よろこんでおれば三十五の歳に計らずも念仏停止の法難に出会い御師匠様は四国へご流罪、この儂は越後の雪の中へ流罪になる、七年間の間、あの雪の越後であの人この人と仏法を説いてようようお念仏が繁昌するようになって、やがて関東へ参って十八年余り、稲田を中心として関東八州に念仏の種を蒔い、ある時は弁圓に追いかけられ、ある時は日野左衛門の館の門前では雪の中で一夜を明かし様々なことがあったのぅ、しかしながらこの親鸞九十年間の苦労を、如来の五劫永劫の御苦労に比べてみれば物の数ではない。まぁーこのように苦労をした御蔭でのぅ、日本国中津々浦々お念仏の声が盛んに聞こえるようになったということも、苦労をしたけれども無駄ではなかった、皆、あとを慕うて、お淨土で往生をしお目にかかることができるかと思えば、九十年間の苦労は無駄ではなかったしかし蓮位や、このように仏法繁昌は致しておれども、やがて念仏の火の消える時期が来るであろう、その時は、再び親鸞この裟婆に現われ、念仏を広めにゃならん時機が来るであろう」と仰せになると、「はて、こんなことをおっしゃるが、このように日本中にお念仏が盛んに、唱えられている、何故このお念仏の火が消える時期があるであろう。これは熱に浮かされて、このような戯言をおっしゃるのではなかろうかしかし重要なお言葉、これは我が家の記録に書いて残いておこう」というので、我が家の記録に書き残しまして、御開山は遂に今生のお別れをあそばしました。それから八代目が下間法橋という、こりゃぁ御本山の御家老でありまして、寝ておりますと、枕辺に墨の衣に墨のお袈裟をお掛けあそばした御真影さまが、「こりゃぁ法橋、こりゃぁ法橋」と、お呼びになるのでふと眺めてみると、「こりゃあ御真影さまではござりませんか、こんなむさ苦しい私の寝間へ御真影さま、どうして御出まし下さったのでございましょうか」と、お尋ねをいたしますとにっこりとお笑いあそばした御真影さまが「其方の先祖の蓮位に約束をいたせし親鸞、恥ずかしながらまた来たぞよ」とのお言葉、「うぁーっ、堪り兼ねてこの世にまた再び御出ましを下さったしてみれば、先祖の蓮位が書いて残いてくれたは嘘ではなかった、アアー御苦労様なことじゃ」と泣いておりますと、門の扉をトントントントンと叩く御方が、はっと夢から覚め、「アッ今見たのは夢か、あーしかし尊い夢を見せて頂いたなぁ」と飛び起きながら門の扉を開いてみると、只今御本山で男の子の御子様がお生まれになった直様来いよのお使い、取るものも取り敢えず本山へ馳せ参じますると、今夢の中で拝み奉った御真影さまのお顔立ちと、お生まれになったこの赤ちゃんとが同じお姿同じお顔立ちを考えまして、「あぁーあぁ、これは唯人ではない。御開山様が堪り兼ねて、この裟婆に再び御出ましを下さったのじゃ」。口には出いては申しませなんだが、一代の間、この下間法敬は心の中で蓮如上人を御開山様の御再誕である、御開山の生まれ変わりであると尊敬を致しまして仕えるという身になったわけでございます。誠に不思議な出来事でありましたが、ただ、蓮如上人が御一代の御苦労もやはりこれは親鸞聖人の御再誕であればこそ、あらゆる難関を乗り越えあらゆる苦難の道を、乗り越えられて遂に浄土真宗を再興をして下さる大事業を成し遂げられたということでなかろうかと思うのでありますが、お生まれになりました時は誠に、春風駘蕩と申しまして、春の陽気に誘われたような誠に穏やかな御本山でありましたが、どうしたことかこのお母様のお生まれになったお家がどういうお家であったのか、ある学者は豪族からお出でになっていたという説を立てる人もある、または非常な貧困な家庭から、お出でになっていたというような説を立てる人もある、或いは石山の観世音菩薩の御化身であると、いうような説を立てる御方もありまして、なかなかこの蓮如上人のお母様のお生まれになったお在所がわからんのでありますが、しかし考えてみると誠に賢婦人と申しますか、誠に偉い御方であったと思うわけでありますが、丁度蓮如上人がすくすくとお育ちになりまして、六歳におなりあそばした時に、どういう出来事ができたのかどういう訳かわかりませんけれども、このお母様が御本山に、おるのが本当だろうか身を引くが本当だろうかと、幾夜にもやらずお考えになりましたが、我が身が本山から身を引くことが集団の為であり、この教団の為であるとお考えになったのか、いよいよ本山から身を引こうという覚悟をあそばした。ところうが可愛い我が子を本山に残し自分が身を引くということは、親として耐えられんことであり生木の枝裂かれるような思いではあるが、我が身が身を引くことが宗門の為とお考えになりまして、今では写真というものがありますがその当時は写真というものはありませんので、絵描きを連れて来られまして、ご自分の膝に蓮如上人をお抱きになったその姿を絵に描かせられた。後の程の思い出としてそれを懐中あそばして、いよいよ決行をしよう何時しようかと色々お考えになりましたが十二月の二十八日、月こそ違え御開山様の御命日、この二十八日にいよいよ本山を後にして、可愛い我が子とも別れて行こうと覚悟をあそばしました。二十八日になりますと日はとっぷり暮れた真っ暗な、その時に我が子可愛いお子様六歳におなりあそばした蓮如上人を我が膝に抱き上げ、ああーどうしたことか、前生の約束とは言いながら蒔いた種の顕れとは言いながら、親子一緒に暮らすことはできず死別に勝る生別、悲しい哉や今日は別れて行かねばならんとお考えになってみると、止めどもなく両眼から頬を伝うて流れ出ずる涙をご覧になりまして「お母様、泣いて下さるな。お母様がお泣きになれば麿も悲しくなります。お母様を泣かせたようなおいたを私がしたのでありましょう。明日からはいい子になります。どうかお母様泣いて下さるな」と止めどもなく両眼から頬を伝うて流れ出ずるその涙を、紅葉のような手でお拭きなさって「堪忍して下され、おこう、お堪え下され」と言われれば堪ったものではない。やという程抱きしめて、「なんであんたが悪かろう。あんたはいい子じゃ。お母様を泣かせるようなおいたはなさらん。じゃけれども今この儂が泣いておる涙の説明をどのようにしたとて、幼いあんたにわかる道理はない軈て長じて、あの時お母様が何故お泣きになったのか、あの涙は何であったであろうか、わかる時代が来るであろう」。口惜しいけれど今はどうすることもでけず説明もできず、ああー可哀相じゃがおそらくは後添いがお出でになってそのまま親様の為にどのような日を送るかと、思し召すと堪らんことになって、なかなか別れることがでけんのでありますが、人の気配に驚いてもしもやこんなことが見つかったら事為損ずると思し召したのか、抱いておいでになりました蓮如上人をその場に放り出し闇の中に姿を隠そうとあそばしたのであります。これが別れかというようなことが虫の知らせか、お母様の足にしがみついて「お母様、麿も行きたい、麿も連れてって下され」と、泣き叫ばれるその手を邪険にも振り解し、耐えられん気持ちの中に着ておいでになりました鹿子の小袖という片っぽの袖を引き千切って、思わず知らず闇の中へ姿をお隠しになりました。後ろから「お母様、お母様」と、泣き叫ばれる蓮如さまの声を背中に聞いて、闇の中に姿をお隠しになりましたが、後の程石山の観世音菩薩の御前に、この引き千切って来られた鹿子の小袖の片袖が、納めてありました、おそらくは、「この幼い麿が潰れかかっておる念仏の教えを御開山御在世当時のように、盛んにいたそうと努力をいたします。どうぞ観世音菩薩、お力添えを下さるよう、どうぞお力を貸して下さるよう」と、お願いをあそばして何処ともなく姿をお隠しになったのだそうであります。蓮如上人は「お母様に会いたい、お母様に会いたい、何処においでるだろう」、探し求められたのでありますが、なかなかお母様の在り処がわからなかったのでありますが、『御一代聞書』という御聖教をお書きになったその中に、「我が母は西国の人なり」ということが書いてあります。おそらくは、お母様の在り処がわかったのでありましょう。これは、尾道というところうへお出でになりまして、頭をお剃りになりまして尼になって、念仏三昧の日を送っておいでるお母様を蓮如上人は尋ね尋ねて、お出でになったのであろうと思います。まぁーこの世においては再び会うことがでけんと思し召したが、お母様の在り処がわかりお母様と対面のできたその時には、おそらく双方がいやと言う程抱き合うて、お母様、あの時は悲しゅううございましたが、このように成人を致しまして、お母様どんなに切なかったでございましょうかと、親子が涙に暮れながら劇的な対面をあそばした、のであろうと思うのでありますが、こういうような御苦労をあそばしまして、幼い時分から死別に勝る生別、生木の枝を裂かれるような悲しい思いをされたわけでありますが、直様、後添えがお出でになりましたがこのお母様の為にまた、言語に絶するような大変な御苦労をなさるわけであります。御歳四十三歳迄、蓮如上人は苦しみ悩まれたわけでございます。誠に考えてみらぁ幼少の頃からこのような苦難の道をお歩きを下さったことも偏に我々の為だなぁと思えば私も胸一杯になるわけでございますが、こういうようなことがありまして、これから蓮如上人の苦難の道が続いていくわけでございますが、ちょっと休憩をいたしまして......。

第二話 比叡山での御修行

えー前席でお話を申したように、いよいよ後添いのお母様がお出でになりましたが、この方がまた言語に絶するところうの、御方でありまして、この御方の為に、蓮如上人は大変な御苦労をなさるわけであります。えー丁度冬の寒い寒い時に、そう寒ければ綿入れを作ってやる、さぁこれを着さっしゃれ。お着になりますと何か身体中がおかしい様子でありますので下間法橋が、どうも御様子がおかしい、こらぁどうしたことじゃろう、どうもおかしな有様じゃが、何とかこれは調べてみなけりゃならんと思いまして、まぁ勉強学問をあそばす時刻になりまして、この御年齢でも勉強学問を仕込まにゃなりませんので、暫くの間私がお借りして参りますと我が家へ蓮如上人を連れて参りまして、あー一遍この着ていらっしゃるところうの着物を調べてみよと、女房に申します。脱がせて調べてみるとあろうことかあるまいことか、この綿入れの中に絹針の折れが幾十本と仕込んである為に身体中がみみず脹れにおなりになっておいでる。「ウァァ(受け念仏)、なんとしたことじゃ。このような有様ではお命にも関係することじゃ(受け念仏)、もう暫くの間はお預かりをしておかねばならん」と勉強学問を教えましょうという口実でお預かりをしていたのでありますが、御本山の跡をお継ぎになる方は九歳におなりあそばしますと、必ず粟田口の青蓮院というお寺へお出でになりまして、出家得度という儀式を行うという例であります。ところうが代々の善知識方は皆悉く九歳におなりになればお得度をお受けになるのに、蓮如上人は十歳になっても十二歳になってもお得度をという声すらも出ないわけであります。丁度十七歳におなりになったその時に、叔父上様が堪り兼ねて上京をして来られまして、「えー頭が悪い人間ならいざ知らず、気が狂っておる者ならいざ知らず、このような人一倍聡明な、頭を持っておるこの蓮如を何が故ぞ得度を受けさせんのだ、得度を受けさせる迄は、儂はこの京都の地を去らんぞ」と、御本山に座り込まれたので、止むを得ず、十七歳の御歳、粟田口の青蓮院へお出でになりまして、御開山様の出家得度の儀式に倣うて出家をあそばした、お得度をお受けになりまして、法名を蓮如と頂かれたわけであります。ところうが、いよいよまぁ御開山様に倣うて、出家得度をあそばせば叡山へ上って修行学問を致さねばならんということで、五年間のお約束で東塔無動寺というお寺へお出でになりまして勉強学問をなさることになったのであります。ところうがどうしたことか一銭半銭のこづかいも持たせず、着ておいでになったお着物が夏冬通いて袷が唯一枚、着の身着の儘の有様で、おいでになりまして、まぁ紙買う銭もなく、筆買う銭もなし、お友達と机並べて勉強しておいでても、どうもご不自由な有様、このお友達どもが、「さぁ儂の寺へ行っての、着物を貰って来い」、「儂の在所へ行ってお金を貰って来い」。蓮如上人が走り使いをあそばし、その貰う僅かな駄賃で墨を買い、筆を買い紙を買うて勉強学問をしておいでになったのであります(受け念仏)。けれども、一年間の間着の身着の儘のお姿、誰言うことなしに「蓮如は臭い、蓮如は臭い」、いうような声が上がりましたので、とてもお友達と机並べて勉強学問をしておることがでけんと思し召して、御師匠様にお願いをあそばし、書物をお借りになりまして叡山の北谷という所ぅへお出でになりまして、自ら掘っ立て小屋をお建てになりまして、そこで毎日日日借りて来た書物を勉強し読み終わるとまた、新しい書物をお借りあそばして苦心惨憺していらっしゃたわけでありますが、食べ物といえば木の実を拾うたり、食べれる草を何もかも鍋の中へ入れて、何の味もない物を炊いてお上がりになるというような有様でありました(受け念仏)。丁度三年経ちまして、金森に弥七というよろこびてがありました。これが御本山へ参詣を致しましたついでに、下間法橋の館へ参りまして、「若様が叡山で御修行をしてらっしゃる学問をしてらっしゃると聞いたが、御達者であろうかなぁ、音信はあるか」と、お尋ねを致しますと下間法橋が、「ははははぁ初め一年間は音信もありました、お手紙も頂きましてお返事も差し交いていたのでございますが、二年目からは更に音信がございません。御本山様へ参りまして御達者でございましょうか、音信がありませんがとお尋ねをすれば『達者ということじゃから音信がないのじゃ、音信がないということは達者じゃと思い、まぁいらんことを言うな、いらん世話を焼くな』と厳しい御言葉。心ならずも今日迄便便と、おりましたが御達者であろうかなぁ、どのような有様で勉強学問していらっしゃるだろうかと心には思えどもどうする事もでけず今日迄過ごして参りました」(受け念仏)。聞くなり弥七はオゥオゥと泣きながら、「何たる事じゃ、こらぁ立っても居てもい堪らん儂は明日は叡山へ上って若様の安否を見て来んことには承知はならん」と、我が家へ飛んで返りますると、この弥七というのは非常なよろこびてではありますが、誠に経済的には恵まれない貧乏な家庭でありまして、女房なけらにゃ子供もない、唯妹のみょうさんという目の見えない妹と二人暮しがこの弥七の毎日でありまして、我が家へ戻るなり、「妹よ、明日はのぉ、儂はどうでもこうでも叡山へ訪ねて行って若様の安否を見届けんことにはじっとはしておれんが、明日は叡山へ上るじゃが、何ぞお土産がないじゃろかな」、「何を言わっしゃる兄さん、食うに食わずのこの貧乏人、お上人さまに差し上げるような気の利いた御土産がどうして」、「あーそりゃやそうじゃわな、あー誠にそりゃ気の利いた御土産は…、じゃこないだな、あの儂が刈込んで来て置いてあるはずじゃがあの大麦はどうした」、「いやそのまま」、「そうかそれならばな、今宵俺とお前が力を合わしての、あの大麦をこなしての、はったいの粉というものを作ろうじゃないか、それを御土産に持って行こう」、いうので目の見えない妹とこの弥七が一晩中かかりましてようやく一袋のはったいの粉というものがでけました。所によってはこれを香煎とも申します。こういうはったいの粉を一袋用意を致しますと、妹みょうさん、「儂がこないだうちから、手探りでようよう拵えておいたがこの一袋の青茶じゃ。この青茶も御土産に持って行ってく......」「あーそりゃお喜びになることじゃろ」、いうので、このはったいの粉一袋青茶一袋を準備を致しまして、それを背に背負いまして朝早々と我が家を出ようとしたところうが大変な雪なん、「麓ですらこのような雪じゃ、叡山はさぞかし雪は深かろうがしかし、雪が降ろうが槍が降ろうが、思い立ったが吉日じゃ、もう後へは引けん」。段々段々と雪を踏みしめまして、叡山へ近づけば近づくほど段々段々雪が深くなって参ります。根本中堂へようよう到着をした頃には、膝株迄雪がある中を、弥七が訪ねて参りまして、「このお寺に本願寺の若様が勉強学問をしておいでると承りまして、訪ねて参りましたがどうぞ若様に会わして下さい」、「おう、その若様はなぁ、一年はここで勉強学問をしておいでになったけどの、二年目からは、自分でえー北谷という谷間へ下りて行かっしゃっての、そこで自分で掘っ立て小屋を拵え、そこで儂から書物を借りて行って勉強なさる、読み終わるとまた新しいのを借りて行くという有様で、二年間の間はな、殆ど人間らしい生活はなさっておらん」(受け念仏)、聞くなり弥七はオゥオゥ泣きながら、「そうでございますか、そうじゃろうと思って、訪ねて参りましたが、この雪の中どうすることもでけんと、仰るけれども私どうしても会わにゃ帰れません」。これから参りますると、段々段々雪が深くなって根本中堂迄お出でになった頃には弥七の股立迄雪が降っておる(受け念仏)。段々谷を降りて行けば行くほどに、どうにもならん雪の中を泳ぐような有様でようやく近づいて参りま靴銅上げて「若さまー、若さまーっ、本願寺の若さまー」と、声を限りに呼びますと、掘っ立て小屋からお出ましになった蓮如上人のお姿一目弥七が、見るやいなやウァー(受け念仏)と泣き出しまし、余りにもお気の毒なこの有様、頭の毛はぼうぼうと伸び、髯は顔中むしゃくしゃに生えて、お着物はといえばそこも破れここも破れ、あー何としたことじゃと、京都の方向を睨みつけまして「親が違うからじゃ(受け念仏)、本当の親であるならば自分が食べる物迄食べんでも我が子に食べさしたいのが、本当の親じゃないか」、地団駄を踏んで力んでおるところへ、蓮如上人は雪を蹴立てて飛んでお出でに「弥七、何を言うぞ。仮にもお母様じゃ。深い深い因縁で親子になった、儂はどのような辛いことがあろうとも苦しいことがあろうとも、お母様の悪口言うたことは一度もない、皆自分の宿業じゃ蒔いた種の現われじゃ、人恨んでなるものかと常に母親尊敬しているお母様の悪口を言や儂は許さんぞ」(受け念仏)。「若様、あなたのようなお若い方に、この年寄りがご意見を蒙るとはァァァ......。いやいや余りのことにそう言わずにおれませなんだが、まぁ今後は如何なることがありましても悪口雑言は申しませんが、このような雪の中で、このような有様でよーうあなたは生きていらっしゃる」、「やややや、俺は若いんじゃ、まだまだ元気じゃ、ま、ま、ま、そんなところに立っておらずに儂のな、あの掘っ立て小屋へ入れ、焚き物だけはな、まぁ夏の内にあちらこちらと枯れ枝拾って来て山の如くに薪の準備がしてあるからの、寒かったであろう、さぁさぁ、当たってくれぃ。温とまってくれ」と、どんどんどんどん火をお焚きになりまして、弥七を労わっしゃるわけで、あーぁ有難うござりますと、軈て背中から下ろしました二袋の御土産、「若さま、こんな物は召し上がれるでしょうか、誠にお粗末な物で何の塩の味もついてもおりません、砂糖の味もついておらないこのはったいの粉、こんな物でも召し上がれましょうか」、「むぁーぁようこそ持って来てくれた」、「これは妹みょうさんの志青茶でございます」、ようそのと茶碗もなけりゃにゃ箸もない、手のひらをお出しになりましてその上にはったいの粉をお開けになって、水を二三滴落といて指の先でそれをお掻きになって、一口召し上がるとボロボローッと(受け念仏)涙を零して「弥七(受け念仏)、おいしいなぁ(受け念仏)。この二年間の間儂は五穀を一口も食べたことがない(受け念仏)。このようなおいしい物は、食べたことがないのじゃ。弥七や、今度お淨土へ参らして頂いたら百味の飲食とかを頂くじゃけだがのぅ、このような味がしようかなぁ」(受け念仏)、「若様、もったいのうございます。いくら貧乏人のこの弥七でも、お粥なり雑炊なり三度が三度満腹しております。それじゃのに、本願寺の八代目をお継ぎになる善知識が、このような物を召し上がって百味の飲食も斯くやあるらん(受け念仏)。おもったいのうございます」。色々と、お話をしておりますと、「なぁ弥七や、これからまだあと二年間ここで勉強学問しての、一旦京都へは戻るけれども直様奈良へ行っての、五年間の勉強学問をして、それから京都へ戻って御開山様のお示しになった数々の御聖教ををのぅ、よくよく調べたその上でお前方に話をするでのぉ、それ迄は生きておってくれよ」(受け念仏)、「は、どんな年を寄りました私も若様のお説教を聞く迄は死んでも死にきれません。若様、待っておりますぞ」。色々話をしている内に、このようなお姿では、この寒い雪の中を凌げますまい。家へ帰れば、ついたちものではありましても山ほど持っております、この上っ張りをあなたに差し上げましょうと脱いで、上っ張りを蓮如さまに差し上げると「いやいや儂ゃ若いんじゃ、まだまだ、こんなこと位では何でもないことじゃ、お前は年寄りじゃ風邪でも引いて身体損ねたら、仏法が聞けんじゃないか。身体は仏法の元手じゃぞ(受け念仏)。さぁ、貰うたもんなら俺のもんじゃ俺が着せてやろう。浄土真宗の御教はなぁ、一声一声の御恩報謝のお念仏を唱えさして頂いても、これは如来様からの賜り物ものじゃ、あなたから頂いた物じゃ、頂いてみれば自分のものじゃ、何に使おうと自由なことじゃ、頂いた南無阿弥陀仏を唱えさせて頂くことが御恩報謝の大行じゃ」(受け念仏)。「ありがとうございます。お上人さまから着せて貰いまして、あーあぁどうぞお身体お大事に、どうぞお帰りを待っております」と涙に暮れまして、「まぁー年寄りのことでございますので、日が暮れた道は歩けませんので日の暮れん内に麓迄下りて行きたいと思いますので、お名残惜しゅうはございますがまた伺うことと致しまして、今日はこれでご無礼を致します」、「おお気をつけて行かっしゃれや。儂が仏法を説く迄はどういうこがあっても生きておってくれよぉ」、「ありがとうござります」と、涙に暮れながら弥七が一足出いては後ろ振り向き、お労しや、お気の毒やと、涙に暮れて立ち去る後ろ姿をご覧になりまして、姿の見えんようになる迄「弥七や、身体を大事にしろよ、お念仏忘れるじゃないぞよ」と、大声上げて仰せになる度毎に後ろ振り向く弥七がボローッと涙こぼして、「なんで忘れてなりましょうぞ、大悲の親さまは儂が寝ておろうが起きておろうが油断なく念じ続けておって下さるじゃもの、唱える念仏の一声一声が親さまのこころが通うて何時もかも念仏の声あるところうに親さまはおいでると、心得まして慶ばさして頂きます」と(受け念仏)、雪の中をとぼとぼと難儀をしながら弥七は山から下りて行くのでありますが、ようやくこのような御苦労が終わりまして、叡山から京都へ一旦お帰りになりましたが間もなく、奈良へお出でになりまして三論であるとか法相であるとか華厳であるとか、あらゆる宗派の教義を、教えを学ばれまして京都へお帰りなさった。さぁーそれから御開山のご制作になりました数々の御聖教を、表紙が何遍破れて、替えさっしゃったというようなことでありますからどのようにご覧になったのか。いよいよ、このようにまぁ、「ありがたい御慈悲に満足さして頂いたが、儂のこのよろこびが本当であろうか、間違いはないであろうか物持たずしては施されず、真の信心がなかったならば、人に教化をすることはできん、儂の真の信心か真の信心でないか何方からに調べて頂きたい、何方がよかろうぞ」と、色々お考えになりましてふと、頭に浮かんだのは石山の観世音菩薩。お母様と深ーい因縁がある、この石山の観世音菩薩に我が安心をお調べ願おうということになるわけであります(受け念仏)

第三話 御文の制作

えー物持たずしては施されず真の信心が御正意でなかったならば人に教化をすることはでけんという思し召し何方かにこの安心をお調べが願いたい、かねがね何方がよかろうか何方がよかろうかとお考えになっておりましたがふと浮かんだのが石山の観世音菩薩、お母様と大変な深いご因縁があると思し召して、この観世音菩薩に我が安心が御正意であるか御正意でないかをお調べを願おうというので、この石山観世音菩薩の御前に三七二十一日の参籠をされるわけであります(受け念仏)。えーまぁ二十日間の間、昼ともなく夜ともなく寝もやらずにお願いをしておいでになりましたので、二十一日満願の朝ともなれば眠たくて眠たくてどうにもならんことになりましてウツウツウツウツとしておいでになります。それも無理からんことや昨夜よーう寝たお婆が早眠っとるものなぁ、なかなかその、眠たて眠たてどもこもならんということでウトウトウトウトしてらっしゃると、いきなり観世音菩薩から、「聖人一流の御勧化のおもむきは何と心得るか」(受け念仏)。こういうお尋ねが突然出ましたので、「信心をもって本とせられ候」(受け念仏)。お答えになると「そのゆえは」、「(節)もろもろの雑行をなげすてて一心に彌陀に帰命すれば不可思議の願力として、佛のかたより往生は治定せしめた(end 節)もう」、「その位は」、「一念発起入正定之聚とも釈し」、「そのうえの称名念仏は」、「如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏とこころぅーべきなーり」(受け念仏)。このように問いつ答えつ答えつ問いつの問答で、出来上がりましたのが、「聖人一流の御文」。最後に余り文章がうまくない、傅きて遠慮しながら「あなかしこあなかしこ」、お恥ずかしい文章でござりますという、そういう思し召しであなかしこあなかしこと、おつけになりましてこれを紙に書いて読めば読むほどありがたいこれが御正意だ、これが御開山様の腹底じゃと思し召して、それを読みながらあの高ーい石段を泣きながら、読んでは泣き読んでは泣き下りてお出でになりました(受け念仏)。そこの石段の下に道西という、お弟子がおりまして「お上人さま、何を読んでそのように感激の涙をお零しになっておるのでございましょうか」と、お尋ねをいたしますと「道西、何にも言わずにこれ読んでみよ」。お渡しになりました今できたばっかの「聖人一流の御文」、手に取って読んでみる内に、「ウァー、尊やぁ、ありがたやぁ。(節)これ金言なり、これ聖教(end 節)なり」、「何を言うぞ、金言というのは、仏さまのお知らせになったお言葉を金言と言う。光を放つような高僧のお書きになったものを聖教と言う。蓮如ごとき者の書いたものを、金言だの、聖教だの申しては畏れ多い、今後いかなるものをこの蓮如が書こうとも唯『文』と言え」(受け念仏)。ここに「御文さま」というお名前がつくわけであります。ま、お西の方ではこれを『御文章』と申しますが何れに致しましても、『御文』ということでありますが、これが「手始めの御文」と申します(受け念仏)。あーこれが御正意じゃこれが真の教えじゃと、およろこびになりましてそれからもう、御一代の間に二百二十五しゅという御文をお書きになったので、ま、その中で、三通だけはどうもこれは蓮如さまのお筆ではないと、いう疑問のある御文が三通あります。まぁ、正しくは二百二十二通という、こういう、まぁ、御文をお書きになりまし。えー、参れ参れと言うても、なかなか参らん人、何とか参らしょう、お出でになりまして、「まぁまぁ参ったらどうだ、仏法聞いたらどうだ」、仰ると、「まぁ儂ゃ忙しての、とてもそんな参っとるような暇はない。今日もこの麦を刈ってしまわんことには、まぁー次の仕事が待っておる」、「そうかそうかそれじゃあな、儂が手伝って、この麦を刈るからのぉ、えー、捗が行ったならば、たとい五分間でも十分間でも仏法聞いてくれ」。こりゃあうまいことじゃこの坊主ひとつ手伝わして、今日の仕事を早く片付けることがでけると、さくじという農民が喜んで鎌を持たせて、「さぁ刈らっしゃれ」。蓮如上人聞いて貰いたいばっかりでありますから、己忘れて一生懸命、今迄一度もお刈りになったことのない麦を次から次へと刈っていかっしゃる。このさくじも、汗かいて付いて行こうとしても蓮如上人には適わずとうどうこの麦が全部刈られたわけ。思わず知らず懺悔の涙に暮れまして、「ハァァーッこのような俺が長い間百姓やっていても適わんということは、これは唯人じゃない、儂に仏法聞かしょう為に死に物狂いで刈っておくれたんじゃ」と、惡に強いは善にも強い、遂に頭を下げまして(受け念仏)。田んぼの畦道に腰掛けまして「じゃあ聞かして下され。彌陀の本願、南無阿弥陀仏のお謂れを。聴聞さして下され」と、段々とお説きになる感慨無量、胸一杯の気持ちになったこのさくじが、蓮如上人の刈って下さった麦、自分の刈った麦、それをこなしまして、全部蓮如さまの手許へ持って参りました。そのお礼にお書きになったのが、「南無阿弥陀仏と申す文字はその数わずかに六字なれば、さのみ功能あるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには、無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」。こういうような御文をお書きになる(受け念仏)。或いは参れ参れと言うても参らん。そのうちに可愛い子供を死なかいて、女の方が通って行かっしゃる前に、落とし文と申しまして、御文をお書きになりまして落といて行かっしゃる。何気なくその御文を手にしまして読んでみると、「人間というものは長生きをする人もあれば若死にをする者もおる。まことに老少不定の世の中じゃ」と、いうことを諄諄とお書きになって最後に「我が子じゃと思うたら間違うておるぞ。お前をどうぞして仏法を聞かしたい、どうかお念仏のお謂れ聴聞さしてやりたいの思し召しから、或いは観音様、或いは勢至様、或いは二十五菩薩、そういうお淨土様から、お前の腹に宿って可愛い子供に先立たれたということも、皆これは御方便ではなかろうか。目を覚まいて仏法を聞け、子供に会いたければ我が身が信心決定をし、お淨土に往生しなければ逢う世界はないぞよ」と、色々とお書きになりまして、最後に、「(節)極楽のまことの親に子を渡し、なに故歎くらん仮の親子(end 節)が、我が子じゃと思うたら大きな間違いじゃ(受け念仏)。お淨土様から衆生済度の為に御苦労下さった、それを無にしては申し訳はないぞよ」と、ま色々とお手紙をお書きになる、これを『御文』と申すのでありますが、或いは、自分のよろこびを本堂に貼り付けておいて「字の書ける者は書いて写いて我が家へ持ち帰り、自分の女房や子供にこれを聞かしてやれ」、いうようなことで御一代の間数々の御文をお書きになったわけでありますが、このような、御文をお書きになる、或いは、村々に十人なり十五人なりをお集めになりまして、アマ講であるとか、或いは二十八日講であるとかそういうような講組織をあそばして、我が信心や人の信心や如何があるらんという、信心沙汰を致せという、こういう講組織をあそばし、これもまた仏法を弘めるには大変な大きな力になったわけであります(受け念仏)。蓮如上人お一人ではなかなかお念仏は全国には広まりません。ただ御文をお書きになるその御文を読んでよろこぶ人が十人なり二十人なり、アーァありがたいというので、蓮如上人が何百人とできるわけであります。蓮如上人のこのお骨折りで段々段々と念仏の教えが繁昌しまして、あちらでもナンマンダブこちらでもナンマンダブ、あー仏法を今迄聞かなんだということはお恥ずかしいことだ、人間としては申し訳のないことじゃと、至る所ぅでお念仏の火の手が上がって来るわけであります(受け念仏)。段々段々と、こういうことで蓮如上人の、ま、お力で念仏の教えが広まります。えー数々の御文をお書きになっておりますが、丁度、この、紀州冷水浦の喜六太夫という、よろこびてがありましたが、この人が「今日は参っておらんがありゃどうしたんじゃい」、お尋ねになりますと、「えーあれはもう大分前から重い重い病気で、今か今かの大病で、とても手足運んで参詣のでけんことを悲しんでおります」。お聞きになるなりご親切な蓮如上人は「そうか。じゃこのお話が済んでから、あの喜六太夫の、ひとつ病気を見舞うてやろうかのぉ」と、お弟子をお連れになりまして喜六太夫の枕辺へ、お出でになりまして諄諄とお話をあそばしますと、かねがね聴聞してよろこんでおる喜六太夫は、「ありがとうござりまする、もーう、命旦夕に迫りまして、命終わりましたならば、ふしんぴちょうそくしょうさいほうまげたひじりのばさんはやさんお淨土へ往生させて頂いてお上人さま、あなたにまたお目にかかるを楽しみに」と、よろこんでおる枕辺でお書きになったのが世にも有名な「信心獲得の御文」であります(受け念仏)。大抵の御文さまには「それ」とか、「そもそも」とかと、いうような前置きの詞がありますけれども、この信心獲得の御文さまには「それ」もなけらにゃ「そもそも」もない、それは切羽詰まって今か今かの喜六太夫の枕辺でお書きになった御文さまじゃから「それ」とも言う余裕はない、「そもそも」とも言うとる暇がない、いきなり「「信心獲得すというは、第十八願のこころをうるなり。この願のこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」(受け念仏)。こういうようなお知らせをあそばすわけでありますが、まぁとにかくこの御文というものは、我々何度読んでも、あーありがたいな、尊いなぁ、蓮如上人は百のものを十にし、十のものを一つにし、難しい言葉を噛んで含めるように、やわらかな言葉にし仮名交じりの御文をお書きになったのが、念仏を弘めあそばすどぉーえらい力になったわけであります(受け念仏)。段々段々とお念仏の教えが繁昌を致しますが、おもしろくないのは叡山のお坊さまども、或いは、この奈良のお坊さまどもが「よぉこの頃蓮如が、あちらでもこちらでもお話をしたり御文を書いたり、お念仏の教えが段々段々これ繁昌して、なーんとかせにゃいかんなんとかせにゃいかん」というような、考え方があちらでもこちらでも噂されるようになったわけでありますが、委細構わず蓮如上人は、「人間に生まれながら仏法聴聞せんはあさましい。軈てまた流転していくならば無量永劫取り返しはつかんじゃないか、人間に生まれたればこそ、仏法聴聞のできる身でありながら、損じゃ得じゃに迷い暮れて、また流転をしていくならば、人間に生まれた幸せが何があろうぞ、どんな境界尋ねて歩いても、凡夫が仏になる道の開かれているのは、この人間の世界だけなのじゃ(受け念仏)。このような尊い人間界へ生をうけながら、またもや流転していくならば何時の世に我が身が助かる道があるであろう、この身今生において度せずんば、さらに何れの生においてかこの身を度せん。間違うて、また流転をするというようなことがあったならば、いくら生まれ変わり死に変わって人間に生まれるご縁ができても、その時にはもーぅお念仏は、消えて無くなっているであろう(受け念仏)。今度こそ(受け念仏)、後生の一大事、為損じてはならんぞよ」と、死に物狂いであちらこちらとお話をして歩かっしゃるやらお手紙をお出しになるやら、そういうご功績が段々段々積もり積もりまして、あらゆる所ぅにお念仏の声が聞こえ、人間として仏法を聞かんはあさましいという、考え方が一般の人々に漲って来たのであります(受け念仏)。ところうが、四十三歳におなりあそばしまして、お父上が亡くなりますので、いよいよ八代目の善知識におなりあそばすという手順になったのでありますが、お母様が、遺言状があるということを仰せになるわけです。これは御本山では譲状というものがありまして、これは留守職と申しまして、本願寺の善知識におなりあそばす方を、次の人は誰、次の人は誰と、ちゃんと書いて、ご存命中にこの譲状というものに次の御門跡は誰であるか、次の御門跡は誰であるかということを、書いて譲らっしゃるのを譲状と申します。さぁ譲状を出せ、譲状を出せと言われても、ま、そんなものはないけれども、遺言状がある。わぁ遺言状があるならば、ここへ出さっしゃれ、誰を、次の善知識にえーなさるということが書いてあるかと、御親戚が寄り集まって難詰をされますけ、元よりそんな遺言状のあるはずがない。さぁーその遺言状を出せというて調べても出るわけはない。元より無いのであります。あちらこちらと探し求められると譲状というが出て参りまして、お父上が次の八代目は蓮如に、執らせることを確約するという、譲状が出て参りました。まぁどうにもこうにもならんことになりましたお母様は、一夜の内に御本山のめぼしい法物を、纏めて大杉谷という所ぅへ逃げて行かっしゃったわけ。まぁ御本山のありとあらゆる法物、先祖代々伝わっております、そういう物を全部持って逃げてしまわれたのでありますが、ここで蓮如上人は八代目の善知識ということになったわけであり(受け念仏)、ところうがその四十三歳におなりあそばし、あーあいよいよ初めての報恩講、儂が導師で勤めるは今回が初めてと、こういうので初逮夜、十一月の二十一日、報恩講のお勤めをしておいでになりますと、あの大本堂へ参詣なさったお同行が僅か十二人(受け念仏)。如何に末代といいながら、いくら戦乱状態の中といいながら、このように報恩講の初逮夜の参詣が僅かに十二人(受け念仏)。涙とともにお勤めをあそばしてお勤めが終わります。軈て高座の上へ自らお上がりあそばしてこの十二人の、お同行を相手に延々二時間お話をなさる。聞いておりました十二人のお同行方が、余りにも感激を致しまして「あー生きとってよかったなぁ。このような尊い仏法聴聞がでけるとは、やれ嬉しやありがたや」と我が家へよう戻らずに、「近づきのお同行親戚の人々、参れ参れ、本山へ参らんような者は人間の値打ちはないぞ、仏法聞かん者はあさましいぞ」と、夜迄あちらこちらと誘って歩きましたので、あくる日のお朝事から六百人の参詣(受け念仏)。日を追うと共にどんどんどんどんと参詣が増えまして、最早二十六日頃になると、押すな押すなの参詣。あちらでも南無阿弥陀仏こちらでも南無阿弥陀仏、念仏の火の手が上がるという状態でありましたが、門前を通りかかってこの有様眺めたが叡山の惡僧ども。またぁ念仏が広まる。これではいかんというので、叡山へ立ち戻るなり、あの根本中堂の鐘をゴーンゴーンと打ち鳴らす。この鐘の合図で、あの叡山三千坊主全部集まりまして、「蓮如をどうするか」という大評議が始まるわけでございます(受け念仏)

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Go To and read 第四話、第五話、第六話は Fushidansekkyo Written Material 1-a-456

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Go To and read 第七話、第八話、第十話は Fushidansekkyo Written Material 1-a-7810

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Fushidansekkyo Material 1-b

節談説教資料 修士論文資料 (1996年)

節づけの五線譜表記

修士論文中に述べましたが、オタマジャクシにのせると違ってくる、あるいは、こぼれ落ちるものがあるということに、ご注意下さい。
三隅治雄先生が、1997年3月24日の「浅草寺 佛教文化講座」において述べられたように、西洋音楽がリズムを、例えば、4分の4とか4分の3などの整えられた間隔を以て正確に刻んでいくのに対して、日本の音楽には、「間」というものがあり、「同じ分量の音を一小節の中に四つなり三つ並べてリズムを刻んでいく形を取らない」という難しさがあります。遡れば天台声明にその源流を求められるであろう日本の音楽の伝統においては、「一つの音と一つの音と、あるいは一つの動きと動きの間に微妙に異なった時間の空白」を置き、「それを伸ばしたり縮めたり、伸ばしたり縮めたり」する、つまり、「伸ばし縮めを自由にする」のが大事である、「間」が大事であるということとなるのです。
三隅治雄「日本人と芸能文化」(『浅草寺 佛教文化講座 平成九年度』第42集 [浅草寺、平成十年])、48〜51頁。

節談説教資料 節づけの五線譜表記 1
節談説教資料 節づけの五線譜表記 2

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Fushidansekkyo Material 1-c

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この節談説教資料 1-c は、1992年9月16日に収録した古いものではあるが、有隣寺本堂の定例会でのインタビューにおける、私の質問に対する祖父江省念師のお答えの一部分を、以下に記す。
節談説教資料 卒業論文および修士論文資料

祖父江省念師の節談説教の資料

質問:人々を導く説教師になると、はっきり決心された時のお気持ちについて、お教えください。
お答え : それはね、あの、色々の教えを研究してみてね、あの本当に真実の教えは親鸞聖人の教えしかないと。それが、色々と皆が迷ってね、こないだのしたような、統一、なんか、えー、言うような、その集団結婚とか、あういうようなもんがどんどんどんどん増えてくる、だけど真実の教えというのは親鸞聖人の教えなんだ、これを広めにゃ、本当に申し訳ないという考えで、まぁ笑われても謗られても、全国を廻って歩くわけです。それが、説教をして歩くという私の目的なんです。別に名声を高めようとも思わんし、他の人から敬われようとも思いませんけども、親鸞聖人はわらじ履きで日本中をお廻りになって、それだから、こりゃどうしても皆に話を聞いてもらいたい、こういう願いです。
質問:説教師となられましてから、説教師として悩まれたことがございましたでしょうか、お教えください。
お答え : そりゃもう一杯毎日悩んでる。ということは、あのね、あの大体日本の話芸、つまり浪花節でも落語でも講談でも、原点を尋ねると説教から出とるんです。だから、節の面が浪花節、笑いの面が落語、たたみこんで話をするのが講談、そういうのが皆こうルーツは、皆、説教なんです。それが、そいう説教をやる人が無くなってきている。あのだいたいー昭和八九年頃に、学者方が、節をつけて説教をやるっちゅうことは、どうもその、エー尊い教えを芸人紛いのような話をする、けしからん、こういうことを言いでぇた。ところが、節がいかんというならね、お経様でも節つけずに読んだらどやろ、え、なむあみだぶなむあみだぶ。それがあの節つけて読むと有り難いでしょ。やっぱりね、「山があってね」という言い方、「高あーい山がぁありまぁして」という方が徹底するんじゃねえの。相撲でもね、「ひがし」、「あけぼの」、そんなこと言うたっておもしろないでしょ。水泳でも、「いちのぉコォース、誰々」、そういうのが、やっぱり節というもいかんけど、これはね抑揚、クライマックスになると自然にこう節が出てくる。だから昭和八、九年頃までは、服部三智麿さんでも宮部円成さんでも森智寿さんでも、全部節があった。そういう先輩方が苦心して、ずっと受け継いで下さったこの説教を、我々の世代でなくするっちゅことは先輩に申し訳ない。だから生きとる間、なんと言われても私はやめない。ま、声もだんだんあかんになるけども、声の出る内はやる。そうすっと命はないかもしれん。えへっ。それが、やっぱり私のまぁ、先輩方に対する謝恩の意味と、それを、まぁ、伝えていきたい。こういう思いから、まぁ、色々とありますよ、そりゃね、えー長い間やっとりますと、私は、あの八歳の時に初めて説教した。八歳の時たなぁ信心も安心もないって、ただ書き放題。便箋四枚に説教書いてもらって、それを寝ても覚めても丸覚えに覚えて、それでま、説教を初めてやった。それはえー、十二月の二十七日、それはその、昔は全部お通夜ってこと、そいで私は二十七日の晩、お通夜の晩に説教をやった。昔は皆こういう高座ですから、高座へ上って、その説教やろうと思ったら、こう御堂は縁側迄いっぺい。だからあんまり仰山その人が出る、ぼーうっとなっちゃって、全部忘れちゃった。ほしたら高座の前にあの、一年生の、えー二年生か、友達がおって、ほいで口々に「忘れたな、ありゃ」、「何もよう言えせんじゃね」、そ言うもんで「やかましいわ、おみゃーらは」、叱っとったら、ぽっと思いでぇた。だから怒ることもたまたまええもんじゃ、思って讃題をやって、ほいでその時、まだ私は覚えとるが、御開山が叡山からえーそのまま、その当時は、六角堂へ通わっしゃったことがあった。で、その時の話が、「〔節づけで〕寒風凜凜と吹き来たりはなようと進む時は、八寒地獄の苦しみは如何がであろうぞとそれを思し召しての御苦労じゃ」、こういう話を作ってあった、幾つかな。おじいさんからおばぁさん泣いちゃってさ、ほいで、高座から下りたら、「お前は偉い」、で、まぁ、飴玉くれるやらお賽銭くれるやら、説教ぐれぇええものはねぇなぁと思って、そいでやみつきになっちゃって、六十何年やっとる、まぁ七十年近くしとりますわな。そういう長い間、あけてもくれてもやっとるわけ。まぁ、ちょこっと上手にならないかんけど、根がアホじゃもんで。えへへへ。えー、そういうことなんで、色々と、そりゃ一代の間には、えー、様々な苦しみがあり、困ったこともありましたけども、やっぱり私の後ろには仏さまがついておいでる。(後略)
質問:美声、卓越した話術、そして、その絶妙な節まわしについて、お教えください。
お答え : これはね、あの、私が初めて随行について、二十一歳でしたけど、あの、古池秀賢という名賢に、まぁ、名人と言われる人があって、その人にまぁ随行しとりまして、鞄を持って附いて歩いて、寝泊まりして色々と教えてまうわけです。で、大垣の俵町ってとこに願宗寺っちゅうお寺があって、そこが、私の初めて説教やる、寺だった。で、先生が座敷で聞いとって、「一席やって来い」。言われて、あの説教やったら、「内容はいいけども、声が駄目だ」。ということは、今はねマイクがあるんです。だからどんな声でもマイクを通ずれば、大抵は皆に聞こえるような説教がやれますが、昔はマイクがないんです。だから、大本堂の別院とか、本山で、話をやったら、一席で声が潰れっちゃう。だから、「本当の、本格的の説教者になるというならば、声を潰さなあかん。俗に声を破れ」と、「どうするんですか」ったら、「或いは谷間であるとか、どうどうどうどう水が流れておるそういう谷間とか、或いは海岸とか、そういうところうで、もう、声のありだけの声を張り上げて説教すると、ま、三日か四日で声は潰れっちゃって、うんともすんとも出んようになる。その内に喉から血が出てくる。それでも、耐えて話を一生懸命やっとると、まぁ、五日位経つと、まぁ、徐々に声が出てくる。その声なら、一日半話していても声は潰れない。やれるか、やれんか。やれなんだらもう説教者みたぁになるな」。(中略)で、あんた、節なんてものはね、これは、いくらその先生が上手にやられる真似したって、真似は真似なんです。自分独特のやっぱり考えで、考案しなけりゃ駄目なんです。ほいでまぁ、えー、よう、私のまぁ、随行二十人位おるけども、こりゃ皆途中でぼおらけぇて、楽なお経読んでた方がお礼もよけ貰えるし。説教者は昔はよかったんですが、今は、あんまりそう恵まれてないんだけれども、そんなことはどうでもええ、私は、この、説教するということが、自分の与えられた天職、これは使命だと、こう思ってやってますので、この声とか、或いは聞いてもらうに就いて、やっぱりこの、話芸、話術ということがありまして、それは色々自分自分が研究して、話をせんことには、しょうがないわけです。(後略)

節談説教をめぐって 記述資料だけではなく、音声映像として記録した資料もご覧になれます。

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Audio Video Material A2-1, A2-2, A2-3, A1, A3-3, S1, S2 and S3 :
祖父江省念師

A2-1: 節(抑揚)について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-2: 八歳でした初めてのお説教について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-3: 「儂から佛様をとってまったら何も残らん」 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A1: 人々を導く「説教師」になると、はっきりと決意された時のお気持ち (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A3-3: 美声、話術、そして、節まわしについて (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S1: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 雪の中の石枕 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S2: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 我が子善鸞に面会許さず (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S3: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 山伏弁圓 変わりはてたる我が心かな (.mov, .rm, .aif, .mp3)
U: 補足音声資料 U「受け念仏」の例 - 「受け念仏」の例として、30秒弱の非常に短い音声資料 (.aif, .mp3)

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Fushidansekkyo Material 1-d

(Macaronic)

Macaronic: English/Japanese - Only a few lines are in Japanese, but, without a Japanese font, the part written in Japanese will be garbled.

A part of Mission Work of the Pastor Barbara Ward Farmer, the Pastor of the Baptist Church in Philadelphia, USA, recorded in her Gospel workshop "One Voice United in Praise!" at West Chapel on Yokota AB, Tokyo, Japan, on the 7th of June, 1996. The material attached to my master's thesis in December, 1996.
1996年6月7日のウエウト・チャペルにおけるバーバラ・ワード=ファーマー牧師(米国フィラデルフィア、バプティスト教会)のゴスペル伝道の内容の一部分
ゴスペル伝道の資料 修士論文資料
1996年
The material attached to my master's thesis in December, 1996.

バーバラ・ワード=ファーマー牧師のゴスペル伝道の資料 1

While you were coming, the Lord let me know that some of us speak some english or no english but can make a bilingual recommitment to God. You know about the Word, you have heard the Word. If there is someone in here who loves singing but is still a backslider and going the wrong way, the Lord wants you to reach out and embrace Him again because He loves you. I want you also to come to the altar. Don't worry about who knows or who doesn't know you, because I'm trying to help you today. He says He knows you're a backslider and He loves you. ...... I want you to come. that's right, that's right, that's right, just come on up. ...... Don't worry about who's looking at you, you're the one who's going to stand before God, you're the one who will stand before God. Hallelujah. Hallelujah. That's right, that's right, that's right, ............ (singing) (voices)lujah. If you believe that the Lord has done something for you tonight, put your hands up and show your faith. Aren't you glad the Lord stopped by? Aren't you glad the Lord stopped by? Aren't you glad and happy that the Lord stopped by? (clapping) ...... (Amen!) (Lord) (loud voices) (humming) ............ That's right. Stay in the Spirit. Stay in the Spirit. Just stay in the same Spirit. ...... ...... It was worth it all. Wasn't it worth it all? If we don't see that no more comes but us ...... (a lot of clapping) ...... I could take the plane right now and go back to Philadelphia. That's how I'm feeling right now. You know why, because our mission is accomplished. Oh God, I said our mission is accomplished. (a lot of clapping) ...... You've felt the power and strength of Jesus' Name. And we've saved some of those that were lost. Oh yes, sir! ... This lady has come and accepted Jesus as her Saviour. There must be some one out there who knows who Jesus is, and for those who do know, Oh God, you have a best friend, come here baby. (loud voices) (crying and moaning) This sister wants to know if she can trust Jesus. Give her a Hallelujah. (a lot of clapping and saying Yeah!) Can we trust Jesus? ... We can trust Him. You can trust Him. Somebody else give her a hug and let her know that Jesus loves her. Jesus loves you. (a lot of clapping) ...... [someone is getting saved and people are clapping.] ............ Thankyou Jesus. Thankyou Jesus. Thankyou Jesus. Cut it loose. Cut it loose. Cut it loose. I am loose, ...... set me free. (a lot of clapping and shouting) ...... Free me, Free me, yeah, Loose, Loose, all lose, Cut it loose. Cut it loose. Cut it loose. ...... (a lot of clapping and shouting) ...... Set your soul free with Jesus. Set it loose, set it loose. Oh yes, set it loose. Cut it loose. Hallelujah! I'm loose. I am loose. The Lord has set me free. The Lord has come and set me free, He has set me loose. (a lot of clapping, hooting, shouting and happy sounds) ...... Hallelujah! Hallelujah! (a lot of clapping, hooting, shouting and happy sounds) ...... Cut it loose! Loose! ...... (a lot of clapping, hooting, shouting and happy sounds) ......aise Him. I said, praise Him. Let Him into your hearts. Praise Him. Come on, bring down the roof. Glorify the Lord. Come on and glorify Him. Show Him that you love Him. Come on and let the Lord in. Thank you. Amen. Thank you. Amen. I came up here to say, " Amen." While all of you were feeling loose, loving Him and letting Him love you, I felt like saying Hallelujah. Come on and praise Him. Can I get an Amen? (Amen) Come on and praise Him. Lets give Him praises. (clapping and Amens and Hallelujah's) ............ We are going to say a prayer together. We're going to pray with one heart. We're going to all pray together. Come on, say it. Say it. (Amen) Alright. And if you ain't saved, I'm going to lead you to the Lord right now. He's going to come and lift you up. Come on and praise the Lord. When I count to three, praise the Lord. One! Two! Three! (Hallelujah's) (shouting and crying) We're going to praise His Name. We're going to praise the Lord. We are here to praise Him. Praise God. ...... (shouting and crying) (clapping) (Thankyou Lord) ............ [Evangelist Barbara] Hallelujah. Praise Him. Praise Him. ...... (a lot of clapping and shouting) ...... Praise! ...... Loose! Hallelujah! Loose! Hallelujah! In the Name of Jesus! Hallelujah! Loose! Hallelujah! ...... Hallelujah! Loose! Hallelujah! Loose! Hallelujah! Hallelujah! In the Name of Jesus! Hallelujah! Hallelujah! ...... Thankyou! Thankyou! Thankyou! Thankyou! ...... come on up here right now, ...... You don't have to be able to understand everything that's been said and done, just surrender to Him. Surrender to the Lord. Stand right there. He's just saying, " Trust Me." ...... Surrender and you shall receive it. Just believe and you shall receive it. ...... If there is somebody out there right now who has not fully accepted Jesus Christ in your life, right now, would you come to the altar. ...... Don't be embarrassed. (clapping) (Hallelujah's) Come on, in Jesus' Name. Come on, in Jesus' Name. Come on, in Jesus' Name. Come on, in Jesus' Name. (clapping) ...... Bless you. The Lord says you are all God's little children. And if you stand with Me, I will stand with you. (Alright!) You can run, but you can't hide. ...... You can hide behind marriage, you can hide behaind pain, but God knows who you are. (Yeah) ...... And He says right now, come and surrender yourself to Me right now. ...... He will always keep you. I'll bring you to God. ...... I'm going to ask all of you to come to the altar right now. Those of you who are still standing out there, please pray for those coming to the altar right now. We need someone to come and interpret for those seeking Jesus Christ and the light. Can I ask those to come, who are feeling the power of God. Those who feel the power that is with us right now. I want you to lay hands on them and pray for them right now. Pray for them and let them feel the power of God. Pray for these your people right now. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. Surrender your hearts and minds to Him right now. All that you have belongs to Him, give it to Him right now. Don't hold anything back. He says, just give it to Me. Surrender and talk to Him. Just talk to Him. Just talk to Him right now. Surrender ---


Centering upon Fushidansekkyo You will see not only the material which I committed to paper, but also the audio and video material, if you would like to.

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Audio Material G4-1, G4-2, G4-3, G1-1, G1-2, G1-3, M2 and M3 :
The Pastor Barbara Ward Farmer

G4-1: The first time that music was mentioned in the Bible: Genesis Chapter 31, Verses 26 and 27 (.aif, .mp3)
G4-2: In a religious context: Exodus Chapter 15, Verses 1 and 2 (.aif, .mp3)
G4-3: Singing was the act of communicating with God - Psalms (.aif, .mp3)
G1-1: The Black experience (.aif, .mp3)
G1-2: This [Music] belongs to the Lord (.aif, .mp3)
G1-3: The Father of Gospel Music (.aif, .mp3)
M2: Gospel Mission Work - with a Japanese Baptist pastor (.aif, .mp3)
M3: Gospel Mission Work "If God Be For Us!" (.aif, .mp3)


ゴスペル伝道の資料 修士論文資料
1996年
The material attached to my master's thesis in December, 1996.

バーバラ・ワード=ファーマー牧師のゴスペル伝道の資料 2

...... Pray for that person right now, in the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. Pray for them. Pray for them. Pray for them in the Name of Jesus. Let the power of God ...... Glorify Him. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. Right now. Right now. Right now. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. Oh, Lord. Glorify Him. We will glorify Him. Oh, we glorify Him. Oh, we glorify Him. In the Name of Jesus. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. Praise Him. Hallelujah. In the Name of Jesus, right now refresh your spirit. Refesh your spirit, ...... Hallelujah. By the blood of Jesus. By the blood of Jesus. Right now, surrender to Him. Hallelujah. ........... ( music ) ............ [People are being led to Jesus.] rs to be a leader unless you came back to the Lord. I'm not talking about secular, I'm talking about spiritual. Does everybody understand that? Does everybody here in this line understand ? Leadership? You are leadership, you're a minister, not a musician or singer? I'm talking about the ministry. You all understand that? Explain that to the Japanese. ......e the healing would be too bad. See you thought it was finished a few moments ago and yesterday. He's really mad. See, Heaven rejoices though one repents. But if it gets bad the Lord forgives us. (Alright, twice) Look how many people are here tonight that were delivered to Him. Look how many people that were set free. Look how many, and let me tell you something, the Lord is letting us know that the press and the test is on. He [Satan] will, he 's has already started attacking leaders. Because if he can catch, attack and destroy leadership, remember God uses people to minister to the people. If you are in jeopardy, if you've been beat up, if you are almost down, how can anybody else hear the words of God? There is a spiritual war worth winning and you know it. We've got to win it. There is a spiritual war going on. But God said that He has the power, all power, and He'll give it to you. And the power that God has given is released into you, so that if evil comes, you'll be able to stand. God just wants you to just grow up a little bit more. He's going to strengthen you more, because there are ministries that are there for you. He's going to get real fat off of rain and water through your office. And He just wants assurance. He just wants assurances to keep Him important. He wants to put you in the front. He wants to give you a fresh anointing even before, because Hallelujah! even before this night is over, you're going to just speak to Him. (Hallelujah) You may not be able to lay hands, but God is going to endow you to speak the Word. Oh yes, God will help us. Speak the Word. You see all of these people here that have been delivered? God is going to need you to be their prayer partners. God is going to need you to stand against. God is going to use you, Hallelujah! to lay hands. God is going to need you just to pray, even on the telephone. Glory to God. Even as some of you are getting ready to go other places, God is going to use you there. He's going there, so sayest God, Hallelujah. God just wants me to touch, that's all. Just reach, touch my hand. Pray with me. Pray. Just a touch, Hallelujah! because He is the one who is gping to touch through the flesh. Let those hands open us up. As we pray the prayer of healing, we just want you to come. We're going to lay hands. We pray in the Name of Jesus. We faithfully believe that you will heal us, everytime we pray. For it's not by our power nor by magic, but by Thy Spirit that we feel it moving through our being. Let me feel that movement to help these ministers. God told them, even in their mother's wombs, what to do. Even though some of them did their own thing, you arrested them from it. ...... give them another chance. We pray in the Name of Jesus that thy rod and thy staff will do as You said they would. Go on, out your faith in the Lord. Oh, God, we pray that the spiritual evangelism will be bold. We pray that the Spirit will be in us as we pray. Let Your power prevail God. Do what You think God. Let them hear You Jesus. Let them not hear the people God, but let them hear You Jesus. Let them not see the people God, but let them see You Jesus. Let them be moved. Let Your poer prevail. Let Your Spirit work the miracle. And we pray for ...... In the Name of Jesus. ...... In the Name of Jesus. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. Hallelujh. In the Name of Jesus, so be it. We find the Spirit of ...... We find the Spirit of ...... We find the Spirit of ...... We find the Spirit of ...... Hallelujah. The blood of Jesus, redemption. Hallelujah. We plead with the Lord Jesus ...... We plead the Lord Jesus, in the Name of Jesus. Do things. Do things. Do things. Do things. Do things. Do things. Calling on Jesus' Name. Do things. Do things. Do things. Redemption. Do things, ...... Do things God. Do things. In the Name of Jesus. Amen and redemption. Do things. Do things God. Oh, God. Hallelujah. ...... God will let you feel something. Feel it. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. In the Name of Jesus. So be it. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. ...... In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. Hey, hey, come on now. In the Name of Jesus, so be it. In the Name of Jesus, so be it. Oh. (Hey!) ....... Oh, Oh, Oh, Oh, Oh, Oh, Oh, in the Name of Jesus. ...... In the Name of Jesus. And the saints. In the Name of Jesus. ...... Hallelujah. Hallelujah. Hallelujah. You are my beloved Whom I'm going to please. You are my beloved Whom I'm going to please. Come on and glorify God. Glorify God. (a lot of clapping) Glorify God. Glorify God. Glorify God. ...... Hallelujah. Hallelujah. GO and do the will of God. Hallelujah. ...... Come on and bless Him. Come on and bless Him. Hallelujah. ...... Hallelujah. The Spirit singing has left. (Yeah) I said the Spirit singing has left. (Amen) (Yes) Somebody said, " Well you need to take a moment and come on and rehearse." Brother Byron will tell you, we've been to concerts, and had several songs to go, the Lord said, " One song," and that's all she wrote, because the Lord said, " Okay, they have a good picture." (Yeah! shouting a few times) We can sing, I say ...... (Hey! real loud) ...... love, because that's a very popular word- love. We need to get you to say that once this ...... because when the Lord is gone we have work to do. That's it! (a lot of clapping.)ned to trust in Him. However, I do want to (Hey!) I do want to just sing one song. If God be for us, who can be against us? Because, for all those of you who have accepted the Lord, and those of you who, as Elvis said, and I have to agree with him, who really know that you need to get strong with God, need a commitment, I'm here to let you know who can make it, in Jesus' Name I really know you can. (a lot of clapping) When we get finished singing this song ...... Hallelujah. (singing "If God Be For Us!" starts.)


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G4-2: In a religious context: Exodus Chapter 15, Verses 1 and 2 (.aif, .mp3)
G4-3: Singing was the act of communicating with God - Psalms (.aif, .mp3)
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G1-2: This [Music] belongs to the Lord (.aif, .mp3)
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