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修士号は大正大学から1997年3月15日に取得。主査:藤井正雄先生 (宗教学)。副査:山ノ井大治先生 (宗教学)。
About Me
(a) Mol, Hans, Identity and the Sacred:A Sketch for a New Socialscientific Theory of Religion, Oxford:Blackwell, 1976, p.1.註(3) ジョージ・スタイナー/喜志哲雄・蜂谷昭雄訳『悲劇の死』(筑摩叢書256、1979年)241頁。
P・L・バーガー=T・ルックマン/山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社、1977年)170頁。
唱道者。演説也。昔満滋子鳴二于應真之間一焉。自從吾法東傅。諸師皆切於二諭導一矣。而廬山遠公□擅二其美一。及二大法瓜ノ如ニ裂一。斯道亦分。故梁傅立爲レ科矣。吾國向方之初尚若レ彼カ。又無剖判焉。故カ慶意受二先泣之譽一。縁賀有二後讃之議一。而未レ有閥閲ハツエツ矣。治承養和之間。澄憲法師挟二給事之家學一。據二智者之宗綱一。台芒射二儒林一而花鮮カニ。性具出二舌端一而泉ノ如ニ湧。一昇二高座一四衆清レ耳。晩年不レ愼二戒法一。屡生二數子一。長嗣聖覚克二家業一課ヲフス唱演ニ。自レ此數世系嗣□テツ□タリ。覺生二隆承一。承生二憲實一。實生二憲基一。朝廷□ヨミソ二其諭導一緩二于閨房一。以レ故氏族益繁。寛元之間。有定圓ト云者。園城之徒也。善二唱説一。又立二一家一。猶如二憲カ苗種一。方今天下言二唱演一者。皆効二二家一。夫諭揚至理啓迪ナゝス庶品ヲ一。鼓二千百之衆一。布二聞思之道一。其利愽如也。演説之益。何術カ如焉レニ。爭奈何イカンカセン。利路纔闢。真源即塞。數ヲ二它ノ死期一寄二我活業一。諂譎交生ナテ。變態百モゝ出ツ。揺二身首一婉二音韻ヲ一。言貴二偶儷コウリヲ一理主二哀讃一。毎レ言二檀主一。常加二佛徳一。欲レ感二人心一先或自泣。痛哉無上正真之道。流爲二詐僞俳優之伎一。願從事于此者。三復二予言一焉。註(8) 関山、前掲『説教の歴史的研究』73頁、及び、大橋俊雄『法然全集 第二巻』(春秋社、1989年)198頁。
念仏者。持誦之一支也。修多羅中持二于佛佛一。此方局カゝル二彌陀一焉。或釋迦焉。其始与二淨土一同出。巳于上矣。元暦文治之間。源空法師建二專念之宗一。遺□末流或資二于曲調一。抑揚頓挫。流暢哀婉。感二人性一喜二人一。士女樂聞雜踏駢□ヘムテムス。可レ爲シツ二愚化之一端一矣。然流俗益甚。動衒二伎戯一。交二燕宴之末席一受二盃觴之餘瀝一。与二瞽史倡妓一促ツゝメテレ膝互唱。痛哉。真佛祕号。蕩爲二鄭衛之末韻一。或又撃鐃磬打二跳躍ヲ一。不レ別二婦女ヲ一。喧噪街巷。其弊不レ足レ言矣。
ここから我々がいえることは、思想と民衆との接点を受容の問題として把える限りは、思想と民衆の接点というのは、註(10) 関山、前掲『説教の歴史的研究』74頁。
1 思想の論理が民衆の感性そのものであるか
あるいは、
2 思想が民衆の感性によって変容したか
を問題とする、ということになる。
2 は状況的にはどうであれ、"思想の本質"〔薄井氏原文は傍点を使用〕にとっては偶然的なものである。そこでは、個人の観念という意味における思想が、状況によってどのように共同の観念に変容したか、という歴史性の問題として現れる。
1 は民衆の土俗的な共同観念が、如何に思想化されたか、ということである。このような思想は、民衆にしつこく残る部分においては民衆の本質を突いた思想である、とはいえる。しかし、その部分は、民衆の "負の部分"〔薄井氏原文は傍点を使用〕ともいうべきもので、民衆のトータルな本質ではない。現実の認識を隠蔽する形で現れざるを得ぬ民衆の感性のある領域の、盲目的肯定がその思想の本質である。
思想と民衆の接点を受容という面から把えるなら、以上のふたつの問題を採りあげることに帰着する。
信心トイフハ フカク人ノコトハヲタノミテウタカハサルナリ タトヘハ ワカタメニイカニモ ハラクロカルマシク フカクタノミタル人ノ マノアタリヨクヨクミタラムトコロヲオシエムニ ソノトコロニハ ヤマアリ カシコニハ カワアリトイヒタラムヲ フカクタノミテ ソノコトハヲ信シテムノチ [マタ人アリテ ソレハヒカコトナリ ヤマナシカワナシトイフモ イカニモソラコトスマシキ人ノイヒテシコトナレハ ノチニ百千人ノイハムコトオハモチヰス モトキゝシコトヲフカクタノム コレヲ信心トイフナリ]と、聖覚は説いている。
また親鸞の聞は言葉の中に含まれるひびきを聞きとる聞であったといえる。彼は聖教を読みとる場合、その聖教の言葉の中に含まれるひびきとか語感を鋭く聞きとったのである。いわば言葉のもつパトスを聞きとることにおいて、非常にすぐれたものをもっていたようであるが、またそれを聞きとるために苦心もしている。従って彼の聞は知的理解でなく、自分の身に引きあてて、自分の胸にひびく言葉を聞きとっていったのである。いわばその語感を感じとる聞き方であり、本願や聖教の言葉の中に含まれる言葉のひびきを聞きとったのである。この聞き方読み方は時には無理な読み方と考えられることがあるが、親鸞にとってはそのように読まざるを得ないものを感じとった結果であったと思われる。そしてこのような読み方が親鸞の宗教の中核を形成するまでにいたっている。註(21) 関山、前掲『説教の歴史的研究』129頁。
大門照忍氏は、空海の『声字実相義』を意識した上での、親鸞の「声字観」(親鸞の音声に対する考え)というものについて、その諸相を考察した結果、「至徳の尊号を敬信するの一事に究竟する。名号本尊こそ声字観の極致といえる」と結んでいるが(「親鸞の声字観」〔『大谷大學研究年報』No.35、大谷学会〕)、その中で、次のように述べている(148〜149頁)。
経の宗体、六字釈、三心釈の字訓、転釈などに示される声字への関心と、鋭い感覚、そして聖教の読誦における音韻の厳正、これらは名号を通して、釈迦・弥陀二尊の直説を「如是我聞」する姿を明らかにしている。
宗祖〔親鸞〕が、読誦について「八幡大菩薩納受之声」に相応せんとし、聞思において「竊以」、「仏意難レ測、雖レ然竊推二斯心一」と願心に相応せんとした声字観を仰がねばならない。
小田良弼氏は、日本の文芸現象において詩的世界をなぞらうとする処に、「宗教の極致を行くことは詩の極致を行くことであるといふ」印象の中で、念仏を媒介として宗教と詩との連関を辿っているが(「念仏と文芸 原本的文芸の問題(二)」〔『國語國文』第45巻第3号、499号、京都大学文学部 国語国文学研究室〕)、その中で、次のように述べている(5頁、上段)。
……仏陀は呼びかけてやまない。その罪、惡の自覚そのものが仏陀に呼びかけられ、その呼びかけの声を聞くことにおいて成立するものであった。その意味において聞法といふことが言われるわけである。聞法において、罪、惡の自覚がもたらされ、そこに成立する念仏は、だから、仏陀の呼びかけに対して応ずる人間の声乃至は言葉であったのである。念仏は仏陀と人間との呼応の関係に成立する人間の声乃至は言葉であったのである。人間が自らの依つて立つ根拠の自覚をその出発点とするものである故に、親鸞の言ふやうに「信為本」が、その前提条件となるわけである。註(26) 柳宗悦『保存版柳宗悦宗教選集第三巻 南無阿弥陀仏・一遍上人』(春秋社、1990年)23頁。
また、J・M・キタガワ(Kitagawa, Joseph M.)氏は、その著書 On Understanding Japanese Religion (New Jersey, Princeton University Press, 1987), p. 268 の中で、次のように、指摘をする。
Japanese Buddhism has a propensity for understanding the meaning of life and the world aesthetically rather than ethically or metaphysically. This understanding was undoubtedly grounded in the pre-Buddhist Japanese emphasis on the artistic and poetic, but it was furthered by the importance that cultural expression of Buddhism held from the time of the introduction of Buddhism to Japan. The aesthetic tendency was reiterated by Kukai and subsequent Buddhist leaders.
生と世界の意味を、倫理的もしくは形而上学的にでは なく、むしろ美的に理解する日本仏教の傾向である。この傾向は、疑いもなく、美的なもの及び詩的なものを重視する仏教時代以前の日本の傾向に基づいている。[しかしそれは、日本に仏教が導入されたときからすでに重要な傾向であった。仏教の文化的表現によって促進され、この美的な傾向は、空海やそれに続く仏教の指導者たちによって繰り返し説かれたものである。](J・M・キタガワ/荒木美智雄・宮本要太郎訳「変容と相続 日本バプティズムの考察(二)」、季刊『仏教』no.2、170-171頁。)
しかし、その「支持」されたことについては、別の見方も、諸研究者によって述べられている。つまり、一族出身の有力な僧が諸寺に在ったことが、その説教の広く重んぜられる至った一因ではないかということである。
註(32) 吉記 [きつき] 治承五年六月六日「説法之妙不□富楼歟」、吉記元暦二年五月十二日「説法不異富楼那」、玉葉 [ぎょくよう] 養和二年正月二十二日「説法殊優美」、玉葉文治三年閏十二月五日「説法珍重、実是当時の逸物、緇素之才芸未レ加二此師之説法一」等、澄憲の説教の卓越さを物語る記事の枚挙に遑がない。なお、本文にも幾つかの例を挙げたが、補足すれば、寿永元年十二月二十八日の条については、九条兼実の家での皇嘉門院の為の仏事の説法であり、この時の説教内容が、女が男に勝るという趣旨のものである。また、建久二年閏十二月三日は、法皇御悩逆修の説教であり、「今日説法、萬人拭レ涙、法皇萬歳之後、天下之人有様、人民愁歎等、悉演説云々」と記され[単に感傷の涙を誘うだけのものではなく世上の有り様や人々の悲歎にも及んだことが知られ] ている。此僧カ高座ヨリ下リン時各ハヤセ何ナル風情才覺ヲカ申振ル舞フト仰アリ院ノ依テ二御氣色二一若キ殿上人四五人心ヲ合チ拍子ヲ打テアマクタリ□□ト拍〔中略〕澄憲三百人□□ト云音ヲ出ス殿上人猶アマクタリ□□拍ス澄憲三百人ノ其内ニ女御百人稗裨販公卿百人伊勢平氏驗者百人皆乱行三百人□□ト云テ扇ヲヒロケテ殿上ヲサゝト扇散メ皆人ハ母ガ腹ヨリ生ルゝニ澄憲ノミソアマクタリナルト申天走リ入ニケリ澄憲は、その出生の秘密として、信西入道と或尼との間に生まれた子であるとされる。ここでの「あまくだり」は、尼の腹から生まれたという意味と、高座から下りるということを言いかけたものである。
中世の浄土教興隆後、説教の芸能化の流れの中から、説教の変形とみられる芸能と説教師の変形である芸能者(或いは音芸者)とが生まれてきた。前者には平曲、修羅物語、説教浄瑠璃(説教節)等があり、後者は琵琶法師、絵解き法師、物語僧、熊野比丘尼等である。民衆は大いに喜んでこれらを迎え、大道芸や民間演芸として盛んな流行をみせてゆく。説教浄瑠璃その他仏教に発した芸能と寺院、法席で行われる説教とは、正に紙一重のものが実に多い。しかし、高座では、節談説教が主導権を握り、絶大なる人気を博したのである。つまり、日本人に最も適した話し方をあらゆる角度から研究し、その方法を樹立して来た説教が、日本の話芸の伝統において厳然たる主流であったのである。
日本の大衆芸能と言われるものの中で、殊に浄瑠璃、講談、落語、浪曲は、その発生や発達史において、節談説教と極めて強い絆で結ばれている。説教に端を発した浄瑠璃の流行や、説教の改作とも言える親鸞に関する浄瑠璃の上演と多数の浄瑠璃本の刊行(『しんらんき』六段[1624-1644])等は、それを窺い知る為のほんの一事である。
節談説教から派生して遂に特異な芸態を確立した民間芸能が、平曲、説教浄瑠璃(説教節)等である様に、浄瑠璃、浪花節から現代の演歌に至る日本人の節の素が、節談説教の中にあるのである。節談説教系の流れが、一つのはっきりとした色分けとして、浪花節の中に残っていると言えるだけではなく、事実、節談説教の節まわしと全く同一の箇所が、浄瑠璃、浪曲において随所にみられる(a)。遡ればそれは声明、読経の名調子(節)となり、また、浪曲師木村松太郎氏が、「浪花節は、あくまで自分がお客様からお金をいただいて、お客に聞いてもらう、生きた演芸として成長発達して来ましたものですら、[中略]あっちもこっちもととりっこしたり、いつのまにかうまく結び合ったりしながら生きております」(b) と述べているように、仏教に発した芸能を考える上で、節談説教だけをその源として事足りるのではない。しかし、「声明、お経の節を説教に加味し、地の部分がいつしか節になり、節の部分がいつしか地になって、見事なフィ−リングを効かせながら聴衆の感情に強く訴えていく節談説教の手法」(c) こそが、浄瑠璃、浪曲といった日本の音曲語りに極めて大きな影響を与えたのである。そして、幾多の説教師達の創意工夫と長い歴史の中で培われたその節まわしには、日本人の心に訴える言い知れぬ力が秘められているのである。昭和四十二年に没した浪花節の吉田大和丞(奈良丸)氏は、生前によく、「儂らの先祖は澄憲さん[安居院流]や」と語っていたという。
講談、落語は、近世に入り急激な発展をみせ、寄席芸能として繁栄したが、節談説教の方法から生まれた、あるいは、説教師がそれらの芸と形を創したと言える民間芸能である。寄席で上演するに当たり、高座に端坐し、講釈師は張り扇を、噺家は扇子を用いながら、様々な所作と身振り手振りで話して聴かせる形は、正に説教師が高座で中啓を用いて話した説教形式を踏襲するものである。前座修業の方法も、説教師の随行制度による修業と同じものである。また、講談の祖とされる赤松法印の先祖に、明秀光雲(1403-1487)という浄土教の優れた説教者があり、落語の祖とされる安楽庵策伝が浄土宗の僧であり、安居院の聖覚に発する「説教念仏義」系の説教師であったことも、大変に興味深い。
講釈師田辺南洲氏は、「講談で一番大事なことは、語るとはいわず読む、と申します。語るというと、意味が違ってまいりまして、『語ってはいけない、読め』といわれます。つまり、本を前におきまして、文章を皆さんに、聞いてもらったわけです。読んで、解説をして、正に講釈をしたわけです。そういう伝統を引いていますから、決して語るとは言いません。読みます」(d) と述べている。このことからみれば、講談は、主として純粋な経典講釈の流れの中から生まれたように思われる。しかし、「六道説教」、「六趣説教」と古くから呼ばれたものの中で、修羅場説教、すなわち、「逼り弁」と称して節談説教者の得意とする表現法の一つであったこの激しい口調の説教が、講談最大の売り物「修羅場読み」として、今日も講談に残っているのである。太平記読みから講談への話芸として洗練されてゆく過程において、節談説教が強い影響を与えたであろうことは、容易に考えられる。また、僧侶(説教師)から講釈師へ還俗して名を馳せた者達の存在や、『親鸞聖人御一代記』など、説教と同じ話材を扱った講談は、説教と講談の関連を考える上で無視出来ないことである。延いては説教と話芸の密接な繋がりとなるが、この傾向は現代にも続き、講釈師悟道軒円玉氏は、浄土真宗大谷派の説教師祖父江省念師に師事して節談説教を学び、自己の講談に導入し、法然や親鸞の伝記を講演していたという。
安楽庵策伝(1554-1642)は「落とし噺」を説教の高座で実演し(e)、その数々の話 材を集録した『醒睡笑』八巻を後世に残した。この本に収められた咄は、策伝の説教師としての生活から生まれたものであり、あくまで説教の話材であるが、当時の庶民層の生活意識を反映し、笑話で充満している。この『醒睡笑』から取材した咄は、「平林」、「無筆の犬」、「てれすこ」等を代表として、現代落語にも数多く継承されており、説教から落語への系譜の一端を確認することが出来るであろう。また、今日に残る古典落語の中から仏教を取り除けば、あとは寥々たるものとなる様に、明らかに説教に取材したもの、あるいは、説教そのものが落語になったと思われるものの枚挙にいとまがない。特に上方落語には浄土教系のものが目立っている。「人情噺」は、節談説教で行われてきた感動的な話法から生まれた「長ばなし」であり、「怪談噺」は、正に譬喩因縁談の変形と言えるものである。節談説教は、日本の話芸の成立に極めて強い影響を与えたのであるが、殊に落語に及ぼしたその影響には著しいものがあった。
節談説教は、その長い歴史と伝統の中で幾多の説教師達が、厳しい修業と共に、その一語一句を繰り返し繰り返して練り上げてきたものである。そこに優れた話芸が生み出された要因がある。しかし、如何に話術としてすばらしくとも、民衆の心がついてこなければ、軈て消え去るものとなる。中世から近世を経て明治・大正・昭和初期に至る迄、節談説教が日本の話芸の主流を占めてきたということは、説教師達が、民衆の為に語るという姿勢を守り続け、その鋭敏な感覚を以て、それぞれの時代における庶民の感性と情操、そして、生活意識に直結した説教を展開してきたからである。説教師の卓絶した話術も然る事ながら、ここに、説教者と聴衆が自ずから一体となってゆく一つの素因がある。節談説教は完全に民衆のものであった。また、説教師達は、庶民の娯楽的要求にも最大限応えるべく努めてきた。しかし、それは全くの大衆への迎合ではなく、厳然たる伝統の上に立ち、揺るぎない説教者魂を固持し、決して説教の本質を崩しはしなかったのである。これらの事項は、先に述べた日本の大衆芸能にとっても、第一義的な課題であろう。
(a) 関山和夫『説教と話芸』(青蛙房、昭和39頁)262頁。註(36) 関山、前掲『説教の歴史的研究』53頁。
(b) 伝統芸術の会編『話芸 その系譜と展開』(三一書房、1977年)。
(c) 関山、前掲『説教の歴史的研究』8頁。
(d) 伝統芸術の会、前掲『話芸 その系譜と展開』114頁。
(e) 関山和夫『庶民文化と仏教』(大蔵出版、1988年)203頁、及び、関山、『落語風俗帳』(白水社、1985年)18頁。
時ニ一番カ法印大和尚聖覚、第二番釈ノ信空上人法蓮信不退ノ御座ヘ着クベシト云云、〔中略〕祖師上人〔親鸞〕人々ノ出言ヲ相待チ玉ヘモ何レモミナ無言ナレハ、ハヤ是レギリト思召シテ御自身ノ御名ヲ書キノセ玉フヤ、暫クアリテ大師上人オホセラレテノ玉ク、源空〔法然〕モ信不退ノ御座ニツラナリ待ベルベシト〔後略〕。「ただ一向に念仏すべし」(『一枚起請文』)とする法然が行を否定した史実はないが、この段に、浄土真宗における法然、親鸞、聖覚の係合、そして、不退の安心を民衆に届ける浄土真宗の立場が窺えて興味深い。
或時、上人有二瘧病コト一ノ療治ニ一切不レ叶、于レ時月輪禪定殿下大ニ歎レ之云、我圖二絵善導御影ヲ一於二上人ノ前ニ一供二養之一、此由被三仰二安居(院ヲ脱ス)僧都許ニ一御返事云ク、聖覺モ同日同時ニ瘧病仕事候、雖レ然爲二御師匠報恩一可參二勤仕一、但早旦可レ被レ始二御佛事ヲ一云々、自二辰時一始二説法ヲ一未時ニ説法畢ス、導師併ニ上人共ニ瘧病落畢ス。又其ノ説法大旨者、大師釋尊モ同ル二衆生ニ一時者恒ニ受ケ二病悩ヲ一給キ、況ヤ凡夫血肉身、云何无二其憂一、雖レ然淺智愚衆生者不レ顧二此道理一、定懐二不信之思ヲ一歟、上人化導已ニ稱チ二佛意ニ一面リ遂二往生一者千萬々々、然者諸佛菩薩諸天龍神、争カ不レ歎二衆生ノ不信一四天大王可レ守二佛法ヲ一者、必可下癒二我カ大師上人ノ病悩ヲ一給上也。善導ノ御影前香薫云々、僧都云、故法印ハ下レ雨擧レ名、聖覺カ身ハ此事尤奇特云々、世間ノ人大驚テ生二不思議ヲ一云々。(醍醐本『法然上人伝記』の「一期物語」)註(39) これらの著作と浄土宗・浄土真宗の説教との繋がりを、以下に簡単に述べる。
况復表白章句ノ、非二言泉之弁舌一、懇丹ノ釈段背ク二学山之名目一、至ハレ于レ加彼語拙而少二其理一、聞喧而滞二其事一、万人反レ唇ルヲ、皆解キ二嘲弄之頤一、一会成レ吹無レ催二感情之涙一、既而疲ル二長居一者ハ起テレ座且退出シ、適残リ留ム輩ハ、倚テレ墻ニ而頻ニ睡眠ス。註(46) 『法然上人行状画図』には、「安居院の法印聖覚は、〔中略〕深く上人の化導に帰して、浄土往生の口決をうく。大和前司親盛入道、御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり。浄土の法門にをきて所存をのこされざる事しりぬべし」[(一七)] とある。さらに、聖覚と法然の思想的立場の同一性を裏付けるものとして、親鸞書写の平仮名本である専修寺蔵の『唯信抄』(『唯信鈔』)末尾における [末尾に記録されている]、聖覚の表白文 [の存在] が知られている。
法然上人之御前ニシテ而隆信右京大夫入道法名戒心親盛大和入道法名見佛爲上人之御報恩謝徳修御佛事御導師法印聖覺表白詞日夫レ根ニ有レ二利鈍一者ハ教ニ有リ二漸頓一機ニ有レ二奢促一者ハ行ニ有リ二難易一當ニ(二)知ル一聖道ノ諸門ハ漸教也又難行也淨土ノ一宗者ハ頓教也又易行也所(二)謂一眞言止觀之行猿猴エンコウノ情難ク學ヒ三論法相之教牛羊ノ眼易シ二迷一然ニ至テ二我宗ニ一者ハ彌陀ノ本願定メ三行因ヲ於二十念一善導ノ料簡決ス器量ヲ於二三心一雖モ三非ト二利智精進ニ一專念實ニ易シ二勤メ一雖三非二多聞廣學ニ一信力何ソ不ラム二備ハラ一況ヤ論スレハ二滅罪之功力ヲ一消シ二五逆ヲ於上稱名之十聲ニ一談スレハ二生善之徳用ヲ極ム一十地ヲ於二順次之一生一依(二)之一濁世之凡夫横ニ載リ二五趣之昏衢ヲ一末代之愚士堅ニ極ム二九品之階級ヲ一然ニ我カ大師聖人爲シテ二釋尊之使者者ト一弘メ二念佛之一門ヲ一爲シテ二善導再誕ト一勸メタマヘリ二稱名之一行ヲ一專修念之行自二此レ一漸ク弘マリ無間無餘之勤メ在テ二今ニ一始テ知ヌ然レハ則チ破戒罪根之輩ラキシリテ加二肩ヲ一入リ二往生之道ニ一下智淺才之類ヒ振二□クテタゝムキヲ一赴ク二淨土之門ニ一誠ニ知ヌ无明長夜之大ナル燈炬也何ソ悲マム二智眼ノ闇キコトヲ一生死大海之大ナル船筏也豈ニ煩ハムヤ業□ノ重コトヲ爰ニ法主幸ニ依テ二上人ノ化導ニ一大ニ信セシメリ二彼ノ佛ノ本願ヲ一淨土ノ往生敢テス不三殘サ二疑ヲ一彌陀ノ来迎只專ラ憑ノムヘキ者ノ歟カ豈ニ圖ハカリキヤ悠悠タル生死以テ二今生ヲ一爲シ二最後ト一漫漫タル流轉以テ二此ノ身ヲ一爲セムトイフコトヲ二際限ト一倩ツラツラ[原文は約物]思ヘハ二教授ノ恩徳ヲ一實二等シキ二彌陀ノ悲願ニ一者ノ歟カ粉コニソテ二骨ヲ一可シ三報ス二之ヲ一摧テ二身ヲ一可シ三謝ス二之一依テ(二)之一報恩ノ齋曾修シ三於二眼前一値遇ノ願念萠キサス三於二心中一願ハ彌陀来善導和尚尚鑒カゝミテ二信心ヲ一垂レ二哀愍ヲ一大師上人同學等侶照シテ二懇志ヲ一致シタマヘリ隨喜ヲ自他同シク往二生シ極樂界ニ一師弟共二奉二仕セム彌陀佛ニ一蓮華初開之時先ツ悟リ二今日之縁ヲ一引接結縁之夕ヘ必ス導カムト二今日之衆ヲ一註(47) 関山、前掲『説教の歴史的研究』56頁。
カナシという国語の古代の用法、また現存多くの地方の方言の用例に、少しく注意してみれば判ることであるが、カナシ、カナシムはもと単に感動の最も切なる場合を表わす言葉で、必ずしも悲や哀のような不幸な刺戟には限らなかったので、ただ人生のカナシミには、不幸にしてそんなものがやや多かっただけである。〔中略〕元は一般に身に沁み透るような強い感覚がカナシイで、その中から悲哀のカナシイだけを取り分けて、標準語の内容としたのは中世以後、この悲という漢字を最も多く需要した仏教の文学や説教がもとかと思われる。
次いで省念師は、旭川別院に列座として就職することとなった。この旭川別院には多くの直檀があり、省念師は、毎日あちらこちらへお経を上げに通い、人々と語り合ったという。その中には、あいまい屋(飲食店と女郎屋を兼ねた店)やたこ部屋もあり、そうした酷い境遇の下で生活せねばならない人々の悩みや辛い体験に、省念師は共に涙を流したのである。こうした社会の底辺に生きようとする人々との交流の中で、この旭川時代に、「単なる僧侶で終わるのではなく、立派な説教師になろう」という考えが頭を擡げてきたと、省念師は述べている。また、旭川別院へは内地から様々な説教師が訪れて、連日のように説教が行われていたことも、省念師の「立派な説教師になろう」という考えに、一層の拍車をかけるものとなったという。
註(56) 「一声、二節、三男」とは、声がよく、節まわしが巧みで、男ぶり(人品)が良いことをもって上等の説教者としたことをいう。これに対して、梁の慧皎の『高僧伝』では、「声、弁、才、博」の四つが、名手としての必須の資格となっている。つまり、声は美しく豊かであって、時に応じて弁説さわやかに、その場にかなった適切な語句を自由に駆使する才能を備え、且つ経典や故事・説話を博く引用することが、その心得であるとされる。また、『仏教法話大事典』(名著出版、昭和58年)によれば、「説法儀式品」(『仏本行集経』巻四九)においては、説法者の資格とその選択に関して、「(1) 諸根闇鈍及び欠漏し戒の不具なる者を請じて、其の法を説くを得ざれ、...... 勝行成就せる妙行具足の人を請ずべし。(2) 応当に弁才知法にして、次第に旧くより阿含経等を解するを簡択し、請じて説法せしむべし。(3) 復修多羅を解し、及び摩登伽を解する者をも応に是の人を請じて説法せむべし」と、規定されているとある。さらに、この独特な教授法及び習得法、それからその目指すべき型なんですが、それらを効果あるものとしている重要な要素が、世界への潜入という条件であると考えます。わざの世界で重要なことは、その世界に足を踏み入れることなしにはわざは習得できない、型は習得できないということです。したがって、ビデオ学習は、形の学習、形の習得という意味では、可能だと思うんですが、型となってくると、当該の世界に足を踏み入れることなしには不可能である。この究極の形が内弟子制度、徒弟制度というようなことになるわけです。世界への潜入が、つまり、わざを生み出している存在である師匠の生活への接近が、単なる形の模倣におわらせずにはいないということ。それがまた、型の習得へ導いていくということなんですね。(III) ピーター・バーガー (Peter L. Berger) 氏は「超越のしるしとしての滑稽」について(ピーター・バーガー/森下伸也訳『癒しとしての笑い』、新曜社、1999年、370頁)、次のように述べている。
ここで言いたかったのは、滑稽の経験はそうした超越のしるしのひとつ、しかも重要なひとつだということであった。キリスト教の言葉で言えばこれは、滑稽なものは秘跡的な宇宙 ―聖公会祈祷書をもじって言えば、目に見えざる恩寵の目に見えるしるしを包摂する宇宙― のひとつの顕現だということを意味している。(中略)滑稽の経験はこの世界の苦しみと悪を奇跡によって取りのぞくのでもなければ、神が世界のうちに生きて動いているとか、神が世界を救おうとしていることをしめす一目瞭然たる証拠をもたらすわけでもない。だが滑稽なものは、それが信仰のうちに感じとられならば、大いなる慰めとなり、いまだ来らぬ救いの証人となる。註(59) 祖父江、前掲『節談説教七十年』、カバー裏表紙の推薦文。
しかし、今の私はいわば嫌悪すべきメロメロ七五調のも一つの下に横たわる日本人の七五の必然性を感ぜずにはおれなくなってきた(9頁)。
おそらくそれは深甚な仏教の真理にひかれているのではなく、七五調のリズムに酔うという面もあるのではないか。それは心を和め、辛いこの世のさまざまのわずらいから、一時、心を解放してくれる。何よりの心の癒し薬である(17頁)。
なぜそうなったか。詠歌の影響、坊さんの説教の影響、彼女の生きた時代の影響、それらはすべて七五の世界に彼女を導いた。七・五・七・五と続く単調なことばのうねりの中に、彼女は安心を感じていた。仏の世界は七五調によって顕現しているのであった(20頁)。
まこと七五調は話芸の大切な形式であった。日本の民衆の心に残り、人の胸に火をつけてゆく大事なパターンであった。その限りにおいては、七五は永遠の律であろう。[寿岳氏原文改行] 欝勃たるエネルギーのそれしかないような鋳型となるとき、七五調は輝く(22〜23頁)。
リアルな手法で描けば千万言も費やして書くことのできる内容を、万感の思いをおさえねばならぬという至上命令のもとに、噴出するエネルギーの処理のように選ばれるたった一つの文体……(24頁)。
また、山折哲雄氏は、親鸞との係わりにおいて、七五調に触れている(「帰りなんざ親鸞のたたずむ風景」、前掲雑誌『仏教 特集=親鸞』、53頁)。
註(61) これは、不十分な述べ方である。如何に記述したらよいのか迷った結果、このように述べた。実際の観察においての率直なところを述べるとするならば、先ず、私はその中に入れなかったということ、さらに言えば、私は〈はじき出された〉ようであったということである。第三章においての論考にあたっては、それがどのようなものであったのか、もっと解り易く適切な表現をとりたいと思っている。親鸞は、和歌の形式をあきらかにきらっていたと思う。和歌の叙情を好まなかった、とわたしは勝手に想像している。かれが一首の和歌ものこさなかった唯一の原因は、おそらくそこにしかない。
親鸞が、その最晩年に情熱をかたむけて制作したのは、周知のように「和讃」である。「和讃」は一見和歌に似ていて、その実それとはまったく非なるものである。形式的にいえば、和歌の五七調三十一音にたいして、和讃は七五調四十八音からなりたっている。しかしそこに盛られた内容という点からみるとき、両者の相違は決定的である。七五調四十八音の形式は、その内容をするどく規定している。〔中略〕ここには、信仰告白の力強い表明がある。叙情をふり切って、単純にして明晰な信仰の論理がほとばしっているだけだ。
第一に、「バプティスト継承説」(Baptist Successionism)は、その源流をイエスの時代並びにエルサレムの初代教会に求める立場に立つ、つまり、その起源を原始教会に迄遡って求め、一世紀以来バプティスト教会は、歴史的に連続して存在してきたのだとする考え方である。第二に、「精神的アナバプティスト同族説」(Anabaptist Spiritual Kinship)とは、「バプティスト継承説」の立場を修正したものであり、使徒時代から近代のバプティスト教会成立迄の間に存在してきた多くの信仰集団の相互間においては、必ずしも組織的・史実的な結びつきが明確でないものの、しかしながら、精神的には密接な関連を有し、思想の継承の跡が十分にみられるとする考え方である。第三に、「英国分離派源流説」(English Separatist Descent) は、バプティスト教会とは、プロテスタンティズム(宗教改革運動)の中から発展してきたものであり、それは、特に、イングランド宗教改革運動の中で英国国教会から順次分離してきた会衆派(English Congregationalists)そして、その会衆派からさらに自分達を分離してきた集団である、と主張する立場である。
本文において明らかなように、この第一節では、「英国分離派源流説」の立場に基づいた考え方を述べている。
註(69) 本文において省略した、アルミニウス主義神学に立つジェネラル・バプティストと、カルヴィン主義神学に立つパティキュラー・バプティストについて、両教会の誕生への概略を以下に述べる。主たる参考文献は、斎藤剛毅『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』(ヨルダン社、1996年)、森島牧人『バプテスト派形成の歴史神学的意味』(燦葉出版社、1995年)である。ジェネラル・バプティスト設立に深く係わることとなるイングランド非国教主義分離派の集団は、1606年頃に、イングランド中部トレント川沿いのゲインズバラ(Gainsborough on Trent) に現われたとされる。そして、1607年にこの集団は二つに分かれ、一つのグループは、スクルービー(Scrooby)の領主の邸宅における同様の集会へと接触を求めていったが、もう一つのグループは、ゲインズバラに残り留まっていた。とはいえ、このスクルービーの集会とゲインズバラの集会との関係は、いわば姉妹教会とも言うべきものであったという。
その後、イングランドで非国教主義分離派に対する宗教的弾圧と迫害が起こった為に、リチャード・クリフトン(Richard Clyfton)を牧師とするスクルービーの分離派グループは、オランダのアムステルダムに移住をした。彼らは、1609年には、アムステルダムからオランダ西部のライデン(Leyden)に移り、さらに、そこから一部の者達が、1620年に、ピグリム・ファーザーズとして新大陸へ渡っていくこととなる。
一方、ジョン・スマイス(John Smyth〔1570?-1612〕)を牧師とするゲインズバラの分離派グループも、イングランドでの宗教的弾圧と迫害から逃れる為に、1608年、オランダのアムステルダムに移住していった。アムステルダムにおいて、ジョン・スマイスらは、彼ら独自の聖書研究とウォーターランド派(オランダ・メノナイトの進歩的セクトを意味する)メノナイト(アナバプティスト、大陸の非国教主義分離派)との接触により(a)、自己の受けた幼児洗礼というバプテスマの非聖書性に気づいて、幼児洗礼否定の見解に至り、真のバプテスマを求めた結果、1608年の暮れもしくは1609年の初めに、「信仰者のバプテスマの教理」(Believer's Baptism)を以て、スマイスが、まず自己洗礼をなし、次いでグループの者達に、「灌水礼による再洗礼」(b) を施すに至ったのである。つまり、彼らはここに、「信仰者のバプテスマ」の意味を知り、その分離派教会を解散し、「自覚的信仰者のみからなる教会」を生み出したのである。また、彼らは、当時のオランダ国内を沸かしていた、カルヴィン主義神学者ゴマルス(Francis Gomarus)とカルヴィン主義修正神学者J・アルミニウス(Jacobus Arminius)の論争を知っており、アルミニウスの説く万人救済説を取り入れていったのである。
(a)スマイスらに対するウォーターランド派メノナイトの影響については、その有無からその程度の問題まで、実に諸説分かれている。例えば、森島牧人氏は、「ウォーターランド派メノナイトの助けを借り」、スマイスらが信仰者のバプテスマの意味を知ったという捉え方をするが、斎藤剛毅氏は、スマイスがメノナイト教会にバプテスマの依頼をしなかったという点からも、自己再洗礼の当 時においては、メノナイトの神学思想がスマイスに何ら大きな影響を与えてはいなかったとする。つまり、スマイスらが信仰者のバプテスマに至ったのは、彼らの独自の聖書研究の結果の神学的確信であるとするのである。
(b)ジェネラル・バプティスト派は「灌水礼」を行っていたが、1651年のジェネラル・バプティスト派の信仰告白(『初代の型にならって集会する三十教会の信仰と実践』)の中で、「バプテスマの方法と様式は水の中に沈められる浸礼である」(四十八条)と明記されるに及んでいる。[The Faith and Practice of Thirty Congregations Gathered According to the Primitive Pattern, 1651: "That the way and manner of baptising, both before the death of Christ, and since his resurrection and ascension, was to go into the water, and to be baptised; Math. 3. 6. Math, 1. 5. and 8. 9" (Article 48)]
このようにしてスマイスのグループは、1609年にアムステルダムにおいて、信仰者洗礼を以て新しい教会を形成した。しかし、その後まもなくしてスマイス自身が、自己バプテスマという行為に及んだことを強く後悔し始めるとともに、やがて、それを正統化する為にも、ウォーターランド派メノナイトとの合同を望むようになったのである。このことが、スマイスの教会内に分裂を引き起こす原因となり、同時に、一部の者達をしてメノナイトの信仰と自分達の信仰との明確な区別を意識せしむという結果を齎したのであった。
反対派の指導者は、このスマイスの教会の重鎮であるトーマス・ヘルウィス(Thomas Helwys〔1550?-1616〕)であった。スマイスに反対してヘルウィスと共に立つのは教会内の少数派であったが、彼らは、1. メノナイトのみが真のバプテスマを執行でき、且つ、その長老群のみが長老を叙任でき得るというような、その「継承」の理念は福音の自由に反すること [That there is no succession nor privilege to persons in the holy things]、2. ウォーターランド派メノナイト特有の教理である「キリストの人性の否定」や「キリストの神聖なる体である教会の内部には、一点の染みも汚れも見過ごすことはできない」等の律法主義的考え方は、イングランド宗教改革運動の担い手達の改革理念にとって全く無縁なものであることを主張し、3. また、同様の根拠に基づき、「剣を携えている故に、統治者は私人としても教会に所属することは出来ない」等の、メノナイトの考え方をも否定した。そして、これらの理由を以て、1610年頃、トーマス・ヘルウィスは少数派の支持により、メノナイトとの合同を申し出た、スマイス及び教会の多数派を破門したのである。こうしてヘルウィスの下に少数の者は、曾ての恩師であるジョン・スマイス等と袂を分かつこととなった。しかしながら彼らは、スマイスから受けた彼らの信仰者洗礼に関しては、それが聖書的に正しいことを確信し、この「信仰者のバプテスマの教理」の実現を強く待ち望んでいくのであった。
そして、遂にトーマス・ヘルウィスは、キリスト者が迫害にあって亡命することの誤りを覚え、その小集団を率いてイングランドに帰国し、1612年、ロンドン郊外のスピタルフィールドに、イギリスにおける最初のジェネラル・バプティスト教会を創設したのである。そしてまた、彼らは、イエスの贖罪の普遍性を説き、「イエスの贖罪はただ選ばれた者だけではなく、人類すべてを救うのに十分である」と主張するという、アルミニウス主義、すなわち「普遍贖罪説」に立つが故に、人々から普遍(ジェネラル)バプティストと呼ばれたのである。
パティキュラー・バプティスト派が生まれる母胎となった教会は、この教会形成に大きな役割を果たした三人の牧師、ジェイコブ(Henry Jacob)、ラスロップ(John Lathrop)、ジェシー(Henry Jessey)のイニシャルから、JLJ教会と呼ばれている。
初代の牧師ヘンリー・ジェイコブ(1563−1624)は、国教会の牧師であったが、分離派の牧師フランシス・ジョンソンと出会い、その影響を受けた。その時点では、ジェイコブは分離派の厳しい国教会批判に賛成できずに、より寛容な立場を主張していたが、やがて、国教会の改革を訴えるピューリタンの「千人嘆願」[Millenary Petition] に積極的に係わり、その執筆活動 [Reasons Taken out of Gods Word and Best Humane Testimonies Proving a Neccessitie of Reforming our Churches in England] により投獄された。彼は、釈放後、信教の自由を求めて、1605年にオランダのミッデルビュルヒ(Middelburg)へ移住をするが、1610年にライデンに居を移してから、その地で、真実の教会についての論考を深めながら、非国教主義分離派の牧師であるジョン・ロビンソン(John Robinson〔1575−1625〕)と六年間にも及ぶ交流を続け、分離派神学の影響を受けていくこととなるのである。なお、このジョン・ロビンソンとは、先に述べたスクルービーのグループにおいて、リチャード・クリフトンの助手としての働きをしていた人物である。
ジェイコブは、1616年にイングランドに戻ると、ロンドン市内のサウスワークに非合法の秘密集会を開始し、そこに会衆主義教会(