修士論文 交感の宗教性の註と参考文献リスト (1996年)

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修士号は大正大学から1997年3月15日に取得。主査:藤井正雄先生 (宗教学)。副査:山ノ井大治先生 (宗教学)。  About Me


はじめに

註(1) 藤本浄彦、「二 救済と解脱 宗教経験としての"生成・摂化"への試論」(『現代哲学選書・11 宗教の哲学』、北樹出版、1989年)。
註(2) 人間は、未開の社会から今日の社会に至る迄ずっと、日常の言語のカテゴリーにはない超越的基準、すなわち、日常において、我々の体験にない、そして、体験し得ない究極的価値を持ち続けてきた。そうした究極性に向かう人間の関心は、この世界における自ら「位置づけ」をなさんが為のものであり、「意味を求める動物」の性向として、決して飽くことなくより絶対的な尺度を求め、そして、与えられた有意性や妥当性の下に、また、そこから提供される秩序や齎される統合の中で、一時の しかしながら確実な安定を得るのである。ただ、当然のことながら、このような究極性へ向かう関心は、日常的関心を超えるものであり、また、その尺度も現実を超えるものである故に、「象徴的過程」を通して表象されるのである。その表象のあり方が如何なるものにせよ、人間は、一つの意味ある世界の中で、自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を知り、生きいきと動き出すのであるが、ハンス・モル(Mol, Hans)氏は、「宗教とは、アイデンティティの聖化の過程である」(Religion is the sacralization of identity.)と述べ、また、P・L・バーガー(Berger)、T・ルックマン(Luckmann)の両氏は、「アイデンティティは、究極的にはそれを象徴的世界の文脈のなかに位置づけることによって正当化される」と述べている(a)
(a) Mol, Hans, Identity and the Sacred:A Sketch for a New Socialscientific Theory of Religion, Oxford:Blackwell, 1976, p.1.
P・L・バーガー=T・ルックマン/山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社、1977年)170頁。
註(3) ジョージ・スタイナー/喜志哲雄・蜂谷昭雄訳『悲劇の死』(筑摩叢書256、1979年)241頁。
註(4) デュルケム/古野清人訳『宗教生活の原初形態(上)』(岩波文庫、1941年)。
註(5) 八木誠一、「親鸞における『信の根拠』をめぐって」(『仏教 特集=親鸞』別冊1、法藏館、1988年)。

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I 浄土真宗の節談説教
1.法然から親鸞への系譜

註(6) 関山和夫『説教の歴史的研究』(法藏館、昭和48年)59〜60頁。
註(7) 『第三十一巻 日本高僧傅要文抄・元亨釋書』[げんこうしゃくしょ](吉川弘文館、昭和46年)434頁、濟北門師錬撰『元亨釈書第二十九』(「音藝志七」)。中世の説教等について、この「音藝志」は興味深い一資料になると思われるので、「唱導」と「念仏」に関する全文を以下に挙げる。     
唱道者。演説也。昔満滋子鳴于應真之間焉。自從吾法東傅。諸師皆切於諭導矣。而廬山遠公□擅其美。及大法瓜ノ如ニ。斯道亦分。故梁傅立爲科矣。吾國向方之初尚若。又無剖判焉。故慶意受先泣之譽。縁賀有後讃之議。而未有閥閲ハツエツ矣。治承養和之間。澄憲法師挟給事之家學。據智者之宗綱。台芒射儒林而花鮮カニ。性具出舌端而泉ノ如ニ湧。一昇高座四衆清耳。晩年不戒法。屡生數子。長嗣聖覚克家業ヲフス唱演。自此數世系嗣□テツタリ。覺生隆承。承生憲實。實生憲基。朝廷□ヨミソ其諭導于閨房。以故氏族益繁。寛元之間。有定圓ト云者。園城之徒也。善唱説。又立一家。猶如苗種。方今天下言唱演者。皆効二家。夫諭揚至理啓迪ナゝス庶品。鼓千百之衆。布聞思之道。其利愽如也。演説之益。何術如焉レニ。爭奈何イカンカセン。利路纔闢。真源即塞。數死期我活業。諂譎交生ナテ。變態百モゝ。揺身首音韻。言貴偶儷コウリヲ理主哀讃。毎檀主。常加佛徳。欲人心先或自泣。痛哉無上正真之道。流爲詐僞俳優之伎。願從事于此者。三復予言焉。
念仏者。持誦之一支也。修多羅中持于佛佛。此方局カゝル彌陀焉。或釋迦焉。其始与淨土同出。巳于上矣。元暦文治之間。源空法師建專念之宗。遺□末流或資于曲調。抑揚頓挫。流暢哀婉。感人性。士女樂聞雜踏駢□ヘムテムス。可シツ愚化之一端矣。然流俗益甚。動衒伎戯。交燕宴之末席盃觴之餘瀝。与瞽史倡妓ツゝメテ膝互唱。痛哉。真佛祕号。蕩爲鄭衛之末韻。或又撃鐃磬打跳躍。不婦女。喧噪街巷。其弊不言矣。
註(8) 関山、前掲『説教の歴史的研究』73頁、及び、大橋俊雄『法然全集 第二巻』(春秋社、1989年)198頁。
註(9) 薄井候「法然における民衆との接点」(『親鸞教学』29 [1976年]、大谷大学真宗学会)。この薄井氏の論文は、思想が根源的に民衆と関わるということはどういうことであるのかを、法然の思想形成を通して考察するものであるが、その中で、「思想にとっての民衆とは受容の問題ではない」としながら、氏は次のように述べている(66頁)。
     ここから我々がいえることは、思想と民衆との接点を受容の問題として把える限りは、思想と民衆の接点というのは、
     1 思想の論理が民衆の感性そのものであるか
    あるいは、
     2 思想が民衆の感性によって変容したか
    を問題とする、ということになる。
     2 は状況的にはどうであれ、"思想の本質"〔薄井氏原文は傍点を使用〕にとっては偶然的なものである。そこでは、個人の観念という意味における思想が、状況によってどのように共同の観念に変容したか、という歴史性の問題として現れる。
     1 は民衆の土俗的な共同観念が、如何に思想化されたか、ということである。このような思想は、民衆にしつこく残る部分においては民衆の本質を突いた思想である、とはいえる。しかし、その部分は、民衆の "負の部分"〔薄井氏原文は傍点を使用〕ともいうべきもので、民衆のトータルな本質ではない。現実の認識を隠蔽する形で現れざるを得ぬ民衆の感性のある領域の、盲目的肯定がその思想の本質である。
     思想と民衆の接点を受容という面から把えるなら、以上のふたつの問題を採りあげることに帰着する。
註(10) 関山、前掲『説教の歴史的研究』74頁。
註(11) ここでは、技術または手段としての芸能性を強調して述べた。しかし、そうした面をみるばかりではなく、語り手の感覚的情緒的行動として自然に発せられた表現であったであろう場合のことも、つまり、そこに〈儀礼〉的な要素がある場合をも、考えなければならないであろう。なぜならば、自然に発せられた表現があることは、省念師が(その抑揚について)「クライマックスになると自然にこう、節が出てくる」と言い、また、バーバラ氏が(その突然踊り出したことについて)「頭がおかしいのだ(crazy)と思わないで。こういう時には、どうしても踊り出してしまう」と言ったことによっても、明らかだと思うからである。
註(12) 石田瑞麿『親鸞全集 別巻』(春秋社、1987年)、『歎異抄』[たんにしょう] 3 〜39頁。
「歎異抄」は、弟子の唯円が、師親鸞の口伝による化導を慎重に筆録した、親鸞の語録である。親鸞の死後、唯円が撰したものであり、「歎異抄」とは、正しい信心の在り方が誤解されていることを歎いて作られた書という意味である。
註(13) 石田瑞麿『親鸞全集 第四巻』(春秋社、1986年)、『一念多念文意』287〜313頁。
  「一念多念文意」は、親鸞が関東の門弟に写し与えた、隆寛の『一念多念分別事』に引用された経論等の文章を、抜粋して注釈したものである。この「一念多念文意」において、親鸞は、一念多念の何れにも片寄ってはならないことを明らかにしている。
註(14) Bunce, William K., Religions in Japan Buddhism, Shinto, Christianity (Rutland, Vermont, Tokyo, the Charles E. Tuttle Company, 1955).
註(15) 細川行信『真宗教学史の研究 歎異抄・唯信抄』(法蔵館、1981年)、安居院法印聖覺御作『唯信抄』[ゆいしんしょう] 343〜374頁。
信心トイフハ フカク人ノコトハヲタノミテウタカハサルナリ タトヘハ ワカタメニイカニモ ハラクロカルマシク フカクタノミタル人ノ マノアタリヨクヨクミタラムトコロヲオシエムニ ソノトコロニハ ヤマアリ カシコニハ カワアリトイヒタラムヲ フカクタノミテ ソノコトハヲ信シテムノチ [マタ人アリテ ソレハヒカコトナリ ヤマナシカワナシトイフモ イカニモソラコトスマシキ人ノイヒテシコトナレハ ノチニ百千人ノイハムコトオハモチヰス モトキゝシコトヲフカクタノム コレヲ信心トイフナリ]
と、聖覚は説いている。
註(16) 石田、前掲『親鸞全集 第四巻』、『唯信抄文意』[ゆいしんしょうもんい] 259〜285頁。
註(17) 関山、前掲『説教の歴史的研究』127頁。
註(18) 野間宏・沖浦和光『日本の聖と賤 中世篇』(人文書院、1985年)253頁。
註(19) ここに挙げた和讃は、名畑應順校注『親鸞和讃集』(岩波文庫、1976年)60頁、及び、178頁からのものである。
親鸞の和讃は、四句を単位としてこれを一首と為し、数首ないし数十首を以て一つの大きな内容を詠っている。また、第一句が上げて書かれているのは、調声の句であるからである。親鸞の和讃は、後世、七五調のリズムを活用して見事なフィーリングを利かせる浄土真宗独特の節談説教に、多大な影響を与えている。親鸞の和讃の諷誦は早くから行われていたと思われるが、その普及は、文明五年(1473)に蓮如が『三帖和讃』に『正信偈』を加えた四帖を開版してからのことであり、近世に入って盛んに節談説教に採られていったものである。その『正信偈和讃』(上記の四帖を合わせて一部としたもの)には「フシハカセ(節譜)」が付けられ、それに依って唱いつつ読んでゆくのであるが、節を付けて、丁寧に唱読する時に「浄土真宗伝承音」が現れてくる。それについては、福永静哉『浄土真宗伝承音の研究 室町時代音韻資料として』(風間書房、昭和38年)が、非常に詳しい。
註(20) 吉川正二「親鸞の教化的姿勢」(『甲南女子大学研究紀要』創立十周年記念号)。吉川氏は、親鸞の宗教を形成した根本的要素と思われる「聞」を中心としてその考察を進めながら、次のように述べている(462〜463頁)。
また親鸞の聞は言葉の中に含まれるひびきを聞きとる聞であったといえる。彼は聖教を読みとる場合、その聖教の言葉の中に含まれるひびきとか語感を鋭く聞きとったのである。いわば言葉のもつパトスを聞きとることにおいて、非常にすぐれたものをもっていたようであるが、またそれを聞きとるために苦心もしている。従って彼の聞は知的理解でなく、自分の身に引きあてて、自分の胸にひびく言葉を聞きとっていったのである。いわばその語感を感じとる聞き方であり、本願や聖教の言葉の中に含まれる言葉のひびきを聞きとったのである。この聞き方読み方は時には無理な読み方と考えられることがあるが、親鸞にとってはそのように読まざるを得ないものを感じとった結果であったと思われる。そしてこのような読み方が親鸞の宗教の中核を形成するまでにいたっている。
註(21) 関山、前掲『説教の歴史的研究』129頁。
註(22) 多屋頼俊『和讃の研究』(法藏館、平成4年)38頁。
註(23) 亀井勝一郎『親鸞』[創元社、1950年]。
註(24) 豊田国夫『日本人の言霊思想』(講談社学術文庫、1980年)170〜172頁。
註(25) 親鸞の「聞法」ないし「聞」を巡っては、立場を異にした諸説が混在している。

大門照忍氏は、空海の『声字実相義』を意識した上での、親鸞の「声字観」(親鸞の音声に対する考え)というものについて、その諸相を考察した結果、「至徳の尊号を敬信するの一事に究竟する。名号本尊こそ声字観の極致といえる」と結んでいるが(「親鸞の声字観」〔『大谷大學研究年報』No.35、大谷学会〕)、その中で、次のように述べている(148〜149頁)。

経の宗体、六字釈、三心釈の字訓、転釈などに示される声字への関心と、鋭い感覚、そして聖教の読誦における音韻の厳正、これらは名号を通して、釈迦・弥陀二尊の直説を「如是我聞」する姿を明らかにしている。
宗祖〔親鸞〕が、読誦について「八幡大菩薩納受之声」に相応せんとし、聞思において「竊以」、「仏意難測、雖然竊推斯心」と願心に相応せんとした声字観を仰がねばならない。

小田良弼氏は、日本の文芸現象において詩的世界をなぞらうとする処に、「宗教の極致を行くことは詩の極致を行くことであるといふ」印象の中で、念仏を媒介として宗教と詩との連関を辿っているが(「念仏と文芸 原本的文芸の問題(二)」〔『國語國文』第45巻第3号、499号、京都大学文学部 国語国文学研究室〕)、その中で、次のように述べている(5頁、上段)。

……仏陀は呼びかけてやまない。その罪、惡の自覚そのものが仏陀に呼びかけられ、その呼びかけの声を聞くことにおいて成立するものであった。その意味において聞法といふことが言われるわけである。聞法において、罪、惡の自覚がもたらされ、そこに成立する念仏は、だから、仏陀の呼びかけに対して応ずる人間の声乃至は言葉であったのである。念仏は仏陀と人間との呼応の関係に成立する人間の声乃至は言葉であったのである。人間が自らの依つて立つ根拠の自覚をその出発点とするものである故に、親鸞の言ふやうに「信為本」が、その前提条件となるわけである。
註(26) 柳宗悦『保存版柳宗悦宗教選集第三巻 南無阿弥陀仏・一遍上人』(春秋社、1990年)23頁。
註(27) この事項については、節談説教と文芸の関係において、最も明らかに示すことが出来ると思われるので、改めて述べたい。

また、J・M・キタガワ(Kitagawa, Joseph M.)氏は、その著書 On Understanding Japanese Religion (New Jersey, Princeton University Press, 1987), p. 268 の中で、次のように、指摘をする。

Japanese Buddhism has a propensity for understanding the meaning of life and the world aesthetically rather than ethically or metaphysically. This understanding was undoubtedly grounded in the pre-Buddhist Japanese emphasis on the artistic and poetic, but it was furthered by the importance that cultural expression of Buddhism held from the time of the introduction of Buddhism to Japan. The aesthetic tendency was reiterated by Kukai and subsequent Buddhist leaders.
生と世界の意味を、倫理的もしくは形而上学的にでは なく、むしろ美的に理解する日本仏教の傾向である。この傾向は、疑いもなく、美的なもの及び詩的なものを重視する仏教時代以前の日本の傾向に基づいている。[しかしそれは、日本に仏教が導入されたときからすでに重要な傾向であった。仏教の文化的表現によって促進され、この美的な傾向は、空海やそれに続く仏教の指導者たちによって繰り返し説かれたものである。](J・M・キタガワ/荒木美智雄・宮本要太郎訳「変容と相続 日本バプティズムの考察(二)」、季刊『仏教』no.2、170-171頁。)

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I 浄土真宗の節談説教
2.安居院流の生成過程とその影響

註(28)及び(29) 安居院流唱導と呼ばれる源流をなす澄憲、ならびに流派の大成者であるその子聖覚については、唱導説教に触れる諸研究書において必ず述べられるところであるが、未だにその綿密な経歴を辿り得るものはないとされる。 澄憲の父は、保元・平治の乱で重要な役割を演じた、陰陽家であり、また、信西入道の名で知られる、少納言藤原通憲である。澄憲は、その第七子にあたり、はじめは家学である儒学を学んでいたが、出家して比叡山に登り天台の学を修めた。竹林院が澄憲の寺である。しかし、日頃は里坊の安居院に住していた為、安居院の法印と称せられたという。澄憲の著作としては、『源氏表白文』、『法滅の記』、『唱導鈔』、『澄憲作文集』、『澄憲作文大体』、『言泉集』等が伝えられている。聖覚は、澄憲の第三子であり、能説父に劣らぬ優れた説教者であったという。以下に、摘記による略系図を挙げる。
▼通憲の子:俊憲 [参議・従三位]、貞憲 [飛騨・摂津守・小納言・従四位下]、成範 [権中納言・正二位]、修範 [参議・兵衛佐・正三位]、静賢 [山・法勝寺執行]、澄憲、寛敏 [仁・法橋]、憲曜 [仁]、覚憲 [興・別当、権僧正]、明遍 [東大・権大僧都、高野遁世、空阿弥陀仏]、勝賢 [醍・座主、東大寺別当]、行憲 [寺]、憲慶 [寺]
▽澄憲の子:真雲、海恵、聖覚、覚位。
この系図は、永井義憲『日本佛教文學研究 第二集』(豊島書房、昭和42年)からのもので、澄憲の子四人が摘記されているが、澄憲は、真雲、海恵、聖覚、覚位、宗雲、理覚、恵聖、恵敏、覚真及び一女の十人の子供を設けたとされる。[系図省略]
註(30) 「晩年不戒法。屡生数子」とは、『元亨釈書』にみられる澄憲に対する悪評である。関山和夫氏は、これに触れながら、「歴史を通じて説教者が実力や教団への貢献度を認められながらも侮蔑される要因をなしている。後世の説教者も行状には共通点があり、様々な毀誉褒貶を浴びることになる」(前掲、関山『説教の歴史的研究』52頁)と述べている。
註(31) 伝教大師は、「能く行ない能く言うものは国宝、能く言いて行なう能わざるものは国師、能く行ないて言う能わざるものは国用」(山家学生式)と述べたというが、そこでは、表現能力が、僧侶としての行いと同じ重みで語られている。多賀宗隼氏は、「自行に終始することを陋として化他を以て仏道の完成とするいわゆる大乗的態度にたつとき、僧侶にとって、表現能力は必須不可欠であった。表現手段は身口の二業にわたる。〔中略〕もっとも普通の場合にあって口弁と文筆とをあぐべきであることはいうまでもない。/かく考えるとき、口弁、弁舌は僧侶の活動にとって、もっとも重要な、本質的な行儀の一であるとせねばならぬ」と述べているが、同様の観点からの、「説教技術の力」である。『元亨釈書』(Iー1.の註に原文を挙げた)に、朝廷が唱導における安居院の才能と業績を高く評価して、この一族だけに対しては、女性関係についてきわめて寛大な扱いをしたと書かれてあるが、それもやはり、そうした観点による表現能力の重視と考えてよいと思う。

しかし、その「支持」されたことについては、別の見方も、諸研究者によって述べられている。つまり、一族出身の有力な僧が諸寺に在ったことが、その説教の広く重んぜられる至った一因ではないかということである。

註(32) 吉記 [きつき] 治承五年六月六日「説法之妙不□富楼歟」、吉記元暦二年五月十二日「説法不異富楼那」、玉葉 [ぎょくよう] 養和二年正月二十二日「説法殊優美」、玉葉文治三年閏十二月五日「説法珍重、実是当時の逸物、緇素之才芸未此師之説法」等、澄憲の説教の卓越さを物語る記事の枚挙に遑がない。なお、本文にも幾つかの例を挙げたが、補足すれば、寿永元年十二月二十八日の条については、九条兼実の家での皇嘉門院の為の仏事の説法であり、この時の説教内容が、女が男に勝るという趣旨のものである。また、建久二年閏十二月三日は、法皇御悩逆修の説教であり、「今日説法、萬人拭涙、法皇萬歳之後、天下之人有様、人民愁歎等、悉演説云々」と記され[単に感傷の涙を誘うだけのものではなく世上の有り様や人々の悲歎にも及んだことが知られ] ている。
註(33) 「一切女人三世諸仏真実之母也。一切男子非諸仏真実之人。故何者。仏出生之時。必仮宿胎内。縦為権化胎生之乗無論。於父君陰陽和合之義。身体髪膚不其父。仍無父子之道理之故也。依之言之女者勝男者歟」と澄憲が説教したことに、九条兼実が、「尤此事可珍事、有興言」と述べたもの。兼実は、激しい感動を覚えたとみえ、その説教を日記に書きとめ、「僧俗を通じて才芸澄憲に及ぶ者を未だ知らない」と迄述べている。
註(34) 国立公文書館底本所蔵『源平盛衰記』[げんぺいじょうすいき] 第一冊(巻第一〜巻第八)、全六冊、(勉誠社、昭和52年)184〜185頁。
此僧カ高座ヨリ下リン時各ハヤセ何ナル風情才覺ヲカ申振ル舞フト仰アリ院ノ依テ御氣色二若キ殿上人四五人心ヲ合チ拍子ヲ打テアマクタリ□□ト拍〔中略〕澄憲三百人□□ト云音ヲ出ス殿上人猶アマクタリ□□拍ス澄憲三百人ノ其内ニ女御百人稗裨販公卿百人伊勢平氏驗者百人皆乱行三百人□□ト云テ扇ヲヒロケテ殿上ヲサゝト扇散メ皆人ハ母ガ腹ヨリ生ルゝニ澄憲ノミソアマクタリナルト申走リ入ニケリ
澄憲は、その出生の秘密として、信西入道と或尼との間に生まれた子であるとされる。ここでの「あまくだり」は、尼の腹から生まれたという意味と、高座から下りるということを言いかけたものである。
註(35) 高座は真剣勝負だと言う説教師は、説教者魂とも言うべきプライドと強い信念を持って、一語一句を大切にした。その一語一句が救済の役割を演ずるからである。決して変わることのない宗教的真理の核心を確りと掴みながら、民衆の為に語る。それは、説教師の個性、更にそこから発する話法の相違によっても、種々様々な表現を取り得る。しかし、どの様な表現が民衆の心に最もぴったりといくのであろうか。それぞれの時代に即することは勿論、人々が望む条件の全てを満たすべく、説教師達は様々な創意工夫を試み続けた。そして、苦悩に満ちた人間社会の底辺に生きる庶民のエネルギ−の発露となる、多くの枝葉を生じさせるに至ったのである。

中世の浄土教興隆後、説教の芸能化の流れの中から、説教の変形とみられる芸能と説教師の変形である芸能者(或いは音芸者)とが生まれてきた。前者には平曲、修羅物語、説教浄瑠璃(説教節)等があり、後者は琵琶法師、絵解き法師、物語僧、熊野比丘尼等である。民衆は大いに喜んでこれらを迎え、大道芸や民間演芸として盛んな流行をみせてゆく。説教浄瑠璃その他仏教に発した芸能と寺院、法席で行われる説教とは、正に紙一重のものが実に多い。しかし、高座では、節談説教が主導権を握り、絶大なる人気を博したのである。つまり、日本人に最も適した話し方をあらゆる角度から研究し、その方法を樹立して来た説教が、日本の話芸の伝統において厳然たる主流であったのである。

日本の大衆芸能と言われるものの中で、殊に浄瑠璃、講談、落語、浪曲は、その発生や発達史において、節談説教と極めて強い絆で結ばれている。説教に端を発した浄瑠璃の流行や、説教の改作とも言える親鸞に関する浄瑠璃の上演と多数の浄瑠璃本の刊行(『しんらんき』六段[1624-1644])等は、それを窺い知る為のほんの一事である。

節談説教から派生して遂に特異な芸態を確立した民間芸能が、平曲、説教浄瑠璃(説教節)等である様に、浄瑠璃、浪花節から現代の演歌に至る日本人の節の素が、節談説教の中にあるのである。節談説教系の流れが、一つのはっきりとした色分けとして、浪花節の中に残っていると言えるだけではなく、事実、節談説教の節まわしと全く同一の箇所が、浄瑠璃、浪曲において随所にみられる(a)。遡ればそれは声明、読経の名調子(節)となり、また、浪曲師木村松太郎氏が、「浪花節は、あくまで自分がお客様からお金をいただいて、お客に聞いてもらう、生きた演芸として成長発達して来ましたものですら、[中略]あっちもこっちもととりっこしたり、いつのまにかうまく結び合ったりしながら生きております」(b) と述べているように、仏教に発した芸能を考える上で、節談説教だけをその源として事足りるのではない。しかし、「声明、お経の節を説教に加味し、地の部分がいつしか節になり、節の部分がいつしか地になって、見事なフィ−リングを効かせながら聴衆の感情に強く訴えていく節談説教の手法」(c) こそが、浄瑠璃、浪曲といった日本の音曲語りに極めて大きな影響を与えたのである。そして、幾多の説教師達の創意工夫と長い歴史の中で培われたその節まわしには、日本人の心に訴える言い知れぬ力が秘められているのである。昭和四十二年に没した浪花節の吉田大和丞(奈良丸)氏は、生前によく、「儂らの先祖は澄憲さん[安居院流]や」と語っていたという。

講談、落語は、近世に入り急激な発展をみせ、寄席芸能として繁栄したが、節談説教の方法から生まれた、あるいは、説教師がそれらの芸と形を創したと言える民間芸能である。寄席で上演するに当たり、高座に端坐し、講釈師は張り扇を、噺家は扇子を用いながら、様々な所作と身振り手振りで話して聴かせる形は、正に説教師が高座で中啓を用いて話した説教形式を踏襲するものである。前座修業の方法も、説教師の随行制度による修業と同じものである。また、講談の祖とされる赤松法印の先祖に、明秀光雲(1403-1487)という浄土教の優れた説教者があり、落語の祖とされる安楽庵策伝が浄土宗の僧であり、安居院の聖覚に発する「説教念仏義」系の説教師であったことも、大変に興味深い。

講釈師田辺南洲氏は、「講談で一番大事なことは、語るとはいわず読む、と申します。語るというと、意味が違ってまいりまして、『語ってはいけない、読め』といわれます。つまり、本を前におきまして、文章を皆さんに、聞いてもらったわけです。読んで、解説をして、正に講釈をしたわけです。そういう伝統を引いていますから、決して語るとは言いません。読みます」(d) と述べている。このことからみれば、講談は、主として純粋な経典講釈の流れの中から生まれたように思われる。しかし、「六道説教」、「六趣説教」と古くから呼ばれたものの中で、修羅場説教、すなわち、「逼り弁」と称して節談説教者の得意とする表現法の一つであったこの激しい口調の説教が、講談最大の売り物「修羅場読み」として、今日も講談に残っているのである。太平記読みから講談への話芸として洗練されてゆく過程において、節談説教が強い影響を与えたであろうことは、容易に考えられる。また、僧侶(説教師)から講釈師へ還俗して名を馳せた者達の存在や、『親鸞聖人御一代記』など、説教と同じ話材を扱った講談は、説教と講談の関連を考える上で無視出来ないことである。延いては説教と話芸の密接な繋がりとなるが、この傾向は現代にも続き、講釈師悟道軒円玉氏は、浄土真宗大谷派の説教師祖父江省念師に師事して節談説教を学び、自己の講談に導入し、法然や親鸞の伝記を講演していたという。

安楽庵策伝(1554-1642)は「落とし噺」を説教の高座で実演し(e)、その数々の話 材を集録した『醒睡笑』八巻を後世に残した。この本に収められた咄は、策伝の説教師としての生活から生まれたものであり、あくまで説教の話材であるが、当時の庶民層の生活意識を反映し、笑話で充満している。この『醒睡笑』から取材した咄は、「平林」、「無筆の犬」、「てれすこ」等を代表として、現代落語にも数多く継承されており、説教から落語への系譜の一端を確認することが出来るであろう。また、今日に残る古典落語の中から仏教を取り除けば、あとは寥々たるものとなる様に、明らかに説教に取材したもの、あるいは、説教そのものが落語になったと思われるものの枚挙にいとまがない。特に上方落語には浄土教系のものが目立っている。「人情噺」は、節談説教で行われてきた感動的な話法から生まれた「長ばなし」であり、「怪談噺」は、正に譬喩因縁談の変形と言えるものである。節談説教は、日本の話芸の成立に極めて強い影響を与えたのであるが、殊に落語に及ぼしたその影響には著しいものがあった。

節談説教は、その長い歴史と伝統の中で幾多の説教師達が、厳しい修業と共に、その一語一句を繰り返し繰り返して練り上げてきたものである。そこに優れた話芸が生み出された要因がある。しかし、如何に話術としてすばらしくとも、民衆の心がついてこなければ、軈て消え去るものとなる。中世から近世を経て明治・大正・昭和初期に至る迄、節談説教が日本の話芸の主流を占めてきたということは、説教師達が、民衆の為に語るという姿勢を守り続け、その鋭敏な感覚を以て、それぞれの時代における庶民の感性と情操、そして、生活意識に直結した説教を展開してきたからである。説教師の卓絶した話術も然る事ながら、ここに、説教者と聴衆が自ずから一体となってゆく一つの素因がある。節談説教は完全に民衆のものであった。また、説教師達は、庶民の娯楽的要求にも最大限応えるべく努めてきた。しかし、それは全くの大衆への迎合ではなく、厳然たる伝統の上に立ち、揺るぎない説教者魂を固持し、決して説教の本質を崩しはしなかったのである。これらの事項は、先に述べた日本の大衆芸能にとっても、第一義的な課題であろう。

(a) 関山和夫『説教と話芸』(青蛙房、昭和39頁)262頁。
(b) 伝統芸術の会編『話芸 その系譜と展開』(三一書房、1977年)。
(c) 関山、前掲『説教の歴史的研究』8頁。
(d) 伝統芸術の会、前掲『話芸 その系譜と展開』114頁。
(e) 関山和夫『庶民文化と仏教』(大蔵出版、1988年)203頁、及び、関山、『落語風俗帳』(白水社、1985年)18頁。
註(36) 関山、前掲『説教の歴史的研究』53頁。
註(37) 「祖師聖人御一代記」5〜51頁、(藝能史研究会編『日本庶民文化史料集成 第八巻 寄席・見世物』〔三一書房、1976年〕)。『親鸞聖人御一代記』(「祖師聖人御一代記」の別名)の「信行両座事」は、親鸞の発案で、信を重んずる者と行を重んずる者とを両別しようと信不退、行不退の二座を設ける段である。     
時ニ一番カ法印大和尚聖覚、第二番釈ノ信空上人法蓮信不退ノ御座ヘ着クベシト云云、〔中略〕祖師上人〔親鸞〕人々ノ出言ヲ相待チ玉ヘモ何レモミナ無言ナレハ、ハヤ是レギリト思召シテ御自身ノ御名ヲ書キノセ玉フヤ、暫クアリテ大師上人オホセラレテノ玉ク、源空〔法然〕モ信不退ノ御座ニツラナリ待ベルベシト〔後略〕。
「ただ一向に念仏すべし」(『一枚起請文』)とする法然が行を否定した史実はないが、この段に、浄土真宗における法然、親鸞、聖覚の係合、そして、不退の安心を民衆に届ける浄土真宗の立場が窺えて興味深い。
註(38) 本文に挙げた例については、建久二年閏十二月二十二日の条が後白河院御逆修に召されて説法した時のもので、建暦二年二月十八日は春花門院の百ヶ日の仏事、元久三年四月十六日は宜秋門院の仏事において、建永元年九月六日は慈円の甥良通の供養に請じられた時のものである。また、聖覚が文暦二年に六十九歳で入寂した時のことが『明月記』にみられるが、藤原定家は、嘉禎元年二月二十一日の条で、「濁世富楼那、遂為還化之期者、実是道之滅亡歟、非有餘、今年六十九云々、先師七十八由被陳、碩學能説於今断絶歟」と [重病の聖覚について] 述べ、その死去をいたく悲しんでいる [聖覚の死去は嘉禎元年(文暦二年)三月五日とされている]。説話や伝説としては、本文に挙げたものの他に、承久三年に但馬宮雅成親王が浄土の教義に不審を立てた時、聖覚が見事な解答 [「御念佛之間御用意者、一切功徳善根之中、念佛最上候、雖十悪五逆罪shou全不爲其shou、雖一稱十念之力、決定可令往生由、真實堅固御信受可候也、聊猶豫之儀努力々々不可候、或shou身懈怠不浄、或恐心散乱妄念、於往生極樂成不定之思、極僻事候、可背佛意也 [中略] 十二月十九日法印聖覺」(親鸞平仮名本『唯信抄』)] を示したこと、嘉禄二年に後鳥羽上皇が隠岐より詔書を承円(西林院)に下して念仏往生の義を問うた時、広く観・称の難易を説いて、持名の益が巨大であることを記し、それを表進したこと、建保二年正月二十五日の法然上人三回忌に報恩の為、洛東真如堂に道俗を集めた七日間の念仏会の説教を行ったこと等が、伝えられている。
(I) 瘧病療治祈祷について。
或時、上人有瘧病コト療治一切不叶、于時月輪禪定殿下大之云、我圖絵善導御影上人養之、此由被安居(院ヲ脱ス)僧都許御返事云、聖覺同日同時瘧病仕事候、雖然爲御師匠報恩可參勤仕、但早旦可御佛事云々、自辰時説法未時説法畢、導師併上人共瘧病落畢。又其説法大旨者、大師釋尊衆生時者恒病悩、況凡夫血肉身、云何无其憂、雖然淺智愚衆生者不此道理、定懐不信之思歟、上人化導已佛意往生者千萬々々、然者諸佛菩薩諸天龍神、争衆生不信四天大王可佛法者、必可大師上人病悩也。善導御影前香薫云々、僧都云、故法印雨擧名、聖覺此事尤奇特云々、世間人大驚不思議云々。(醍醐本『法然上人伝記』の「一期物語」)
註(39) これらの著作と浄土宗・浄土真宗の説教との繋がりを、以下に簡単に述べる。
「四十八願」は、法然浄土教の骨子を成す重要なものである。『唯信鈔』は、聖道・浄土の二門を叙し、特に念仏往生は専修を以て肝要とすべきことを釈している。臨終と尋常の念仏、弥陀願力と前世の罪業、五逆と宿善、信心と称名について通釈したことは、後世の説教において、貴重なテキストとして長く尊重された。近世から近代に入っても、浄土真宗の説教台本を見れば、『唯信鈔』の釈文に従っていることが明らかである。『十六門記』においては、法然の回心の感動を述べた「歓喜の余に聞く人なかりしかども、予が如き下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをやと、高声に唱えて感悦髄に徹り、落涙干行なりき」という箇所が、法然の『小消息』の結びの部分である「天にあふぎ地にふしてよろこぶべし、このたび弥陀の本願にあへる事を。〔中略〕たのみてもなをたのむべきは乃至十念の詞、信じてもなを信ずべきは必得往生の文なり」と直接に関連し、浄土門徒が深い感銘を受ける処であるという。そして、「大原問答」は、後世の浄土宗や浄土真宗の説教の高座に常にかけられ、聴聞者に良く親しまれた大切な説教演目となっている。
註(40) 当然のことながら、それだけではなく、永井義憲氏が述べるように、「その説草の類聚、整理と、〔中略〕山、寺などとは異なった特異な解釈、さらに一つの伝書としてそれらが権威をもって門流に伝えられて行ったことなどがその原因」(前掲『日本佛教文學研究 第二集』441頁)と考えられる。
註(41) 櫛田良洪「唱導と釈門秘鑰」(『印度學佛教學研究』第一巻第一号)。また、永井義憲、前掲『日本佛教文學研究 第二集』、及び、関山、前掲『説教の歴史的研究』においても、取り上げられ、論じられている。
註(42) 関山、前掲『説教の歴史的研究』56〜57頁。
註(43) 櫛田良洪氏は、「その説く所は絶待三学思想、法華超八の思想、諸行往生思想にも依りながら、時には一向専修、弥陀本願思想をも説いて、真俗一貫、信心為本の道理を説かんとしたものである」(前掲「唱導と釈門秘鑰」)と述べている。また、山口光円氏は、安居院の学風が、論義と法談と法式の三方面を通じたもので、教学の面から言えば、法華による浄土信仰であることを述べている(「新出草案集と安居院流学派」〔『仏教文化研究』第七集、昭和37年三月〕[『佛教文化研究』第5号、昭和31年11月])。
註(44) 永井、前掲『日本佛教文學研究 第二集』432頁。
註(45) 良希撰『普通唱導集』の序文にみられる、旧来の表白体説教に対する批判を以下に挙げる。
况復表白章句ノ、非言泉之弁舌、懇丹ノ釈段背ク学山之名目、至ハ加彼語拙而少其理、聞喧而滞其事、万人反唇ルヲ、皆解キ嘲弄之頤、一会成吹無感情之涙、既而疲ル長居者ハ起テ座且退出シ、適残リ留ム輩ハ、倚テ墻ニ而頻ニ睡眠ス。
註(46) 『法然上人行状画図』には、「安居院の法印聖覚は、〔中略〕深く上人の化導に帰して、浄土往生の口決をうく。大和前司親盛入道、御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり。浄土の法門にをきて所存をのこされざる事しりぬべし」[(一七)] とある。さらに、聖覚と法然の思想的立場の同一性を裏付けるものとして、親鸞書写の平仮名本である専修寺蔵の『唯信抄』(『唯信鈔』)末尾における [末尾に記録されている]、聖覚の表白文 [の存在] が知られている。
法然上人之御前ニシテ而隆信右京大夫入道法名戒心親盛大和入道法名見佛爲上人之御報恩謝徳修御佛事御導師法印聖覺表白詞日夫利鈍漸頓奢促難易(二)聖道諸門漸教也又難行也淨土一宗者頓教也又易行也所(二)眞言止觀之行猿猴エンコウノ情難三論法相之教牛羊眼易我宗彌陀本願定行因十念善導料簡決器量三心利智精進專念實多聞廣學信力何ラムハラスレハ滅罪之功力五逆於上稱名之十聲スレハ生善之徳用十地順次之一生(二)濁世之凡夫横五趣之昏衢末代之愚士堅九品之階級大師聖人爲シテ釋尊之使者者念佛之一門シテ善導再誕メタマヘリ稱名之一行專修念之行自マリ無間無餘之勤レハ破戒罪根之輩ラキシリテ往生之道下智淺才之類クテタゝムキヲ淨土之門无明長夜之大ナル燈炬也何マム智眼キコトヲ生死大海之大ナル船筏也豈ハムヤ業□コトヲ法主幸上人化導セシメリ本願淨土往生敢テス彌陀来迎只專ノムヘキハカリキヤ悠悠タル生死以今生最後漫漫タル流轉以セムトイフコトヲ際限ツラツラ[原文は約物]ヘハ教授恩徳實二等シキ彌陀悲願コニソテ(二)報恩齋曾修眼前値遇願念萠キサス心中彌陀来善導和尚尚鑒カゝミテ信心哀愍大師上人同學等侶照シテ懇志シタマヘリ隨喜自他同シク極樂界師弟共セム彌陀佛蓮華初開之時先今日之縁引接結縁之夕カムト今日之衆
註(47) 関山、前掲『説教の歴史的研究』56頁。
註(48) 「法則集 上下二帖合之」(永井、前掲『日本佛教文學研究 第二集』所収、444〜462頁)。
註(49) 関山和夫氏、永井義憲氏、本田安次氏等諸研究者が、その文体や調子等について認めている。
註(50) 安居院流の唱導集については、菊地良一氏、櫛田良洪氏、清水宥聖氏、永井義憲氏等の諸研究者によって、既に詳しい研究報告が為されている(菊地良一『中世の唱導文芸』〔塙選書 63〕、櫛田良洪「金沢文庫蔵安居院流の唱導書について」〔『日本仏教史学』4、日本仏教史学会〕、清水宥聖「安居院流の唱導書について」〔『仏教文学研究』10 [1-10]、仏教文学研究会〕、永井義憲・清水宥聖編『安居院唱導集』〔貴重古典籍叢刊6〕、等々)。
現存する称名寺蔵・金沢文庫保管の安居院流唱導書についてその文献名の一部を挙げる。
『安居院僧都問答条々』(英禅手沢本、一冊)。観応二年(1351)、称名寺における英禅の書写。聖覚の孫大納言僧都覚守が関東に招かれ下向した際(徳治二年〔1307〕六月)、安居院流の秘訣を鎌倉の僧に伝えた書で、説教の次第、作法等の問に応えたものであるとされる。「式法則用意条々」の奥書によれば、嘉元三年(1305)、安居院において、僧忍宗の写したものを、高恵 - 湛睿 - 英禅と相承したとある。
『言泉集』[ごんせんしゅう](釼阿手沢本、残本二十二帖四十冊)。安居院流の唱導集として最も著名なものである。澄憲の文章を主として集めた、聖覚の編述によるものとされている。
『釈門秘鑰』[しゃくもんひやく](残本三十五冊)。仁平(1151)から正治(1199)に至る澄憲の作で、聖覚の編述であろうとされる。
『転法輪抄』(釼阿手沢本、残本十五冊)。現存の表白文願文等に附せられた年時や注記に従い、永暦二年(1161)から建仁二年(1203)に至る澄憲の作品を主とし、聖覚の編述であるとされる。目録によると『言泉集』もこの中に含まれており、全てが現存すれば八箱七十九結七百六十帖をさらに超える厖大なものになるという。
『鳳光抄』(残本五本)。金沢文庫現蔵のものは法花経講讃時のもののみであるが、本来は広範囲に亙る唱導文集であったらしい。その成立事情ならびに全貌を辿り得る注記はないが、明らかに澄憲・聖覚の作品であるとされている。
註(51) 柳田国男氏は、次のように述べている(「不幸なる芸術」〔『柳田国男全集 9』ちくま文庫〕)。
カナシという国語の古代の用法、また現存多くの地方の方言の用例に、少しく注意してみれば判ることであるが、カナシ、カナシムはもと単に感動の最も切なる場合を表わす言葉で、必ずしも悲や哀のような不幸な刺戟には限らなかったので、ただ人生のカナシミには、不幸にしてそんなものがやや多かっただけである。〔中略〕元は一般に身に沁み透るような強い感覚がカナシイで、その中から悲哀のカナシイだけを取り分けて、標準語の内容としたのは中世以後、この悲という漢字を最も多く需要した仏教の文学や説教がもとかと思われる。

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I 浄土真宗の節談説教
3.祖父江省念師の節談説教

註(52) 祖父江省念『節談説教七十年』(晩聲社、1985年)、189頁。
註(53) 朝日新聞、1996年1月22日。
註(54) 祖父江省念師の孫娘である佳乃さんからの手紙より。
註(55) 省念師は、弘誓山浄雲寺で修業を続けていたが、「どうしても勉強したい」という思いが募るばかりであった。そこへ、札幌の教務所長の安田力師からの誘いがあり、教務所の住み込み書記として、昼は事務の仕事をしながら、夜は近くの私立中学へ通うという、北海道での生活が始まった。また、この間に省念師は、教務所で開かれる大谷高等学校普通会(夏の間の三ケ月の講習)を三年続けて受講し、検定試験に合格して、十八歳で「教師」(住職の資格)を取得している。

次いで省念師は、旭川別院に列座として就職することとなった。この旭川別院には多くの直檀があり、省念師は、毎日あちらこちらへお経を上げに通い、人々と語り合ったという。その中には、あいまい屋(飲食店と女郎屋を兼ねた店)やたこ部屋もあり、そうした酷い境遇の下で生活せねばならない人々の悩みや辛い体験に、省念師は共に涙を流したのである。こうした社会の底辺に生きようとする人々との交流の中で、この旭川時代に、「単なる僧侶で終わるのではなく、立派な説教師になろう」という考えが頭を擡げてきたと、省念師は述べている。また、旭川別院へは内地から様々な説教師が訪れて、連日のように説教が行われていたことも、省念師の「立派な説教師になろう」という考えに、一層の拍車をかけるものとなったという。

註(56) 「一声、二節、三男」とは、声がよく、節まわしが巧みで、男ぶり(人品)が良いことをもって上等の説教者としたことをいう。これに対して、梁の慧皎の『高僧伝』では、「声、弁、才、博」の四つが、名手としての必須の資格となっている。つまり、声は美しく豊かであって、時に応じて弁説さわやかに、その場にかなった適切な語句を自由に駆使する才能を備え、且つ経典や故事・説話を博く引用することが、その心得であるとされる。また、『仏教法話大事典』(名著出版、昭和58年)によれば、「説法儀式品」(『仏本行集経』巻四九)においては、説法者の資格とその選択に関して、「(1) 諸根闇鈍及び欠漏し戒の不具なる者を請じて、其の法を説くを得ざれ、...... 勝行成就せる妙行具足の人を請ずべし。(2) 応当に弁才知法にして、次第に旧くより阿含経等を解するを簡択し、請じて説法せしむべし。(3) 復修多羅を解し、及び摩登伽を解する者をも応に是の人を請じて説法せむべし」と、規定されているとある。
註(57) 随行制度は、関山和夫氏によれば、ずっと古くから行われていたことであるが、特に浄土真宗においては、江戸時代に盛んに行われたと推察され、そして、明治時代には大説教者で「和上」と呼ばれる人は必ず随行を二人連れて歩いたことを、今でも記憶している者がかなり生存しており、さらに大正時代には随行を三人も連れて巡廻した説教者があった程であるという。節談説教は、師弟相承であるから、師匠に弟子入りして随行し、師匠の袴たたみ、袈裟たたみからはじめるのであるが、殊に中啓の扱い方には十分気を配らなければならなかったとされる。本文でもみてきたように、説教には頗る芸能的要素が濃く、登高座に際して、中啓を高座に落とす作法にも種々の意味づけがあり、随行者は高座で中啓を持つことが許されなかった程であるという。随行は、師匠である説教者の登高座の前に、高座に登って一席を語り、これを、「御前座」と呼んだのである。この随行修行は、期間を定めて行われるものではなく、説教の技術を習得すると同時に、心を伝承することが第一であるとされ、したがって、それが十年にも及んだ者もあれば、僅か数年で独立した者もあるという。
註(58) 福島真人編『身体の構築学 社会的学習過程としての身体技法』(ひつじ書房、1995年)。同書において(424頁)は、以下のような文脈で使われている。      
さらに、この独特な教授法及び習得法、それからその目指すべき型なんですが、それらを効果あるものとしている重要な要素が、世界への潜入という条件であると考えます。わざの世界で重要なことは、その世界に足を踏み入れることなしにはわざは習得できない、型は習得できないということです。したがって、ビデオ学習は、形の学習、形の習得という意味では、可能だと思うんですが、型となってくると、当該の世界に足を踏み入れることなしには不可能である。この究極の形が内弟子制度、徒弟制度というようなことになるわけです。世界への潜入が、つまり、わざを生み出している存在である師匠の生活への接近が、単なる形の模倣におわらせずにはいないということ。それがまた、型の習得へ導いていくということなんですね。
(III) ピーター・バーガー (Peter L. Berger) 氏は「超越のしるしとしての滑稽」について(ピーター・バーガー/森下伸也訳『癒しとしての笑い』、新曜社、1999年、370頁)、次のように述べている。
ここで言いたかったのは、滑稽の経験はそうした超越のしるしのひとつ、しかも重要なひとつだということであった。キリスト教の言葉で言えばこれは、滑稽なものは秘跡的な宇宙 ―聖公会祈祷書をもじって言えば、目に見えざる恩寵の目に見えるしるしを包摂する宇宙― のひとつの顕現だということを意味している。(中略)滑稽の経験はこの世界の苦しみと悪を奇跡によって取りのぞくのでもなければ、神が世界のうちに生きて動いているとか、神が世界を救おうとしていることをしめす一目瞭然たる証拠をもたらすわけでもない。だが滑稽なものは、それが信仰のうちに感じとられならば、大いなる慰めとなり、いまだ来らぬ救いの証人となる。
註(59) 祖父江、前掲『節談説教七十年』、カバー裏表紙の推薦文。
註(60) 七五調というものについては、寿岳章子氏の研究があるが、同氏の著書『日本語の裏方』(創拓社、1990年)においては、以下のように述べられいる。      
しかし、今の私はいわば嫌悪すべきメロメロ七五調のも一つの下に横たわる日本人の七五の必然性を感ぜずにはおれなくなってきた(9頁)。
おそらくそれは深甚な仏教の真理にひかれているのではなく、七五調のリズムに酔うという面もあるのではないか。それは心を和め、辛いこの世のさまざまのわずらいから、一時、心を解放してくれる。何よりの心の癒し薬である(17頁)。
なぜそうなったか。詠歌の影響、坊さんの説教の影響、彼女の生きた時代の影響、それらはすべて七五の世界に彼女を導いた。七・五・七・五と続く単調なことばのうねりの中に、彼女は安心を感じていた。仏の世界は七五調によって顕現しているのであった(20頁)。
まこと七五調は話芸の大切な形式であった。日本の民衆の心に残り、人の胸に火をつけてゆく大事なパターンであった。その限りにおいては、七五は永遠の律であろう。[寿岳氏原文改行] 欝勃たるエネルギーのそれしかないような鋳型となるとき、七五調は輝く(22〜23頁)。
リアルな手法で描けば千万言も費やして書くことのできる内容を、万感の思いをおさえねばならぬという至上命令のもとに、噴出するエネルギーの処理のように選ばれるたった一つの文体……(24頁)。

また、山折哲雄氏は、親鸞との係わりにおいて、七五調に触れている(「帰りなんざ親鸞のたたずむ風景」、前掲雑誌『仏教 特集=親鸞』、53頁)。

親鸞は、和歌の形式をあきらかにきらっていたと思う。和歌の叙情を好まなかった、とわたしは勝手に想像している。かれが一首の和歌ものこさなかった唯一の原因は、おそらくそこにしかない。

親鸞が、その最晩年に情熱をかたむけて制作したのは、周知のように「和讃」である。「和讃」は一見和歌に似ていて、その実それとはまったく非なるものである。形式的にいえば、和歌の五七調三十一音にたいして、和讃は七五調四十八音からなりたっている。しかしそこに盛られた内容という点からみるとき、両者の相違は決定的である。七五調四十八音の形式は、その内容をするどく規定している。〔中略〕ここには、信仰告白の力強い表明がある。叙情をふり切って、単純にして明晰な信仰の論理がほとばしっているだけだ。

註(61) これは、不十分な述べ方である。如何に記述したらよいのか迷った結果、このように述べた。実際の観察においての率直なところを述べるとするならば、先ず、私はその中に入れなかったということ、さらに言えば、私は〈はじき出された〉ようであったということである。第三章においての論考にあたっては、それがどのようなものであったのか、もっと解り易く適切な表現をとりたいと思っている。
註(62) 阿弥陀如来と衆生との関係を親と子との愛情関係にたとえるいうことは、優れた説教の方法である。
註(63) 佐野清彦『音の文化誌 東西比較文化考』(雄山閣、平成3年)。
註(64) 関山、前掲『庶民文化と仏教』、84頁。
註(65) 仲井幸二郎・西角井正大・三隅治雄編『民俗芸能辞典』(東京堂出版、昭和56年)。
註(66) 柳田国男「民謡の今と昔」(『柳田国男全集18』ちくま文庫、1990年)、374頁。
註(67) こうした人々は実に多く、定例会における聴衆も確かに満堂の人である。ここで補記しておきたいことは、しかしながら、高齢者が大半を占め、若者の姿を殆ど見ることが出来なかったことである。

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II バプティスト教会の福音伝道
1.バプティスト教会

註(68) バプティスト派の源流を探ろうとする場合には、現在、「バプティスト継承説」、「精神的アナバプティスト同族説」、「英国分離派源流説」という、三つの異なった立場における考え方が存在している。

第一に、「バプティスト継承説」(Baptist Successionism)は、その源流をイエスの時代並びにエルサレムの初代教会に求める立場に立つ、つまり、その起源を原始教会に迄遡って求め、一世紀以来バプティスト教会は、歴史的に連続して存在してきたのだとする考え方である。第二に、「精神的アナバプティスト同族説」(Anabaptist Spiritual Kinship)とは、「バプティスト継承説」の立場を修正したものであり、使徒時代から近代のバプティスト教会成立迄の間に存在してきた多くの信仰集団の相互間においては、必ずしも組織的・史実的な結びつきが明確でないものの、しかしながら、精神的には密接な関連を有し、思想の継承の跡が十分にみられるとする考え方である。第三に、「英国分離派源流説」(English Separatist Descent) は、バプティスト教会とは、プロテスタンティズム(宗教改革運動)の中から発展してきたものであり、それは、特に、イングランド宗教改革運動の中で英国国教会から順次分離してきた会衆派(English Congregationalists)そして、その会衆派からさらに自分達を分離してきた集団である、と主張する立場である。

本文において明らかなように、この第一節では、「英国分離派源流説」の立場に基づいた考え方を述べている。

註(69) 本文において省略した、アルミニウス主義神学に立つジェネラル・バプティストと、カルヴィン主義神学に立つパティキュラー・バプティストについて、両教会の誕生への概略を以下に述べる。主たる参考文献は、斎藤剛毅『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』(ヨルダン社、1996年)、森島牧人『バプテスト派形成の歴史神学的意味』(燦葉出版社、1995年)である。

ジェネラル・バプティスト設立に深く係わることとなるイングランド非国教主義分離派の集団は、1606年頃に、イングランド中部トレント川沿いのゲインズバラ(Gainsborough on Trent) に現われたとされる。そして、1607年にこの集団は二つに分かれ、一つのグループは、スクルービー(Scrooby)の領主の邸宅における同様の集会へと接触を求めていったが、もう一つのグループは、ゲインズバラに残り留まっていた。とはいえ、このスクルービーの集会とゲインズバラの集会との関係は、いわば姉妹教会とも言うべきものであったという。

その後、イングランドで非国教主義分離派に対する宗教的弾圧と迫害が起こった為に、リチャード・クリフトン(Richard Clyfton)を牧師とするスクルービーの分離派グループは、オランダのアムステルダムに移住をした。彼らは、1609年には、アムステルダムからオランダ西部のライデン(Leyden)に移り、さらに、そこから一部の者達が、1620年に、ピグリム・ファーザーズとして新大陸へ渡っていくこととなる。

一方、ジョン・スマイス(John Smyth〔1570?-1612〕)を牧師とするゲインズバラの分離派グループも、イングランドでの宗教的弾圧と迫害から逃れる為に、1608年、オランダのアムステルダムに移住していった。アムステルダムにおいて、ジョン・スマイスらは、彼ら独自の聖書研究とウォーターランド派(オランダ・メノナイトの進歩的セクトを意味する)メノナイト(アナバプティスト、大陸の非国教主義分離派)との接触により(a)、自己の受けた幼児洗礼というバプテスマの非聖書性に気づいて、幼児洗礼否定の見解に至り、真のバプテスマを求めた結果、1608年の暮れもしくは1609年の初めに、「信仰者のバプテスマの教理」(Believer's Baptism)を以て、スマイスが、まず自己洗礼をなし、次いでグループの者達に、「灌水礼による再洗礼」(b) を施すに至ったのである。つまり、彼らはここに、「信仰者のバプテスマ」の意味を知り、その分離派教会を解散し、「自覚的信仰者のみからなる教会」を生み出したのである。また、彼らは、当時のオランダ国内を沸かしていた、カルヴィン主義神学者ゴマルス(Francis Gomarus)とカルヴィン主義修正神学者J・アルミニウス(Jacobus Arminius)の論争を知っており、アルミニウスの説く万人救済説を取り入れていったのである。

(a)スマイスらに対するウォーターランド派メノナイトの影響については、その有無からその程度の問題まで、実に諸説分かれている。例えば、森島牧人氏は、「ウォーターランド派メノナイトの助けを借り」、スマイスらが信仰者のバプテスマの意味を知ったという捉え方をするが、斎藤剛毅氏は、スマイスがメノナイト教会にバプテスマの依頼をしなかったという点からも、自己再洗礼の当 時においては、メノナイトの神学思想がスマイスに何ら大きな影響を与えてはいなかったとする。つまり、スマイスらが信仰者のバプテスマに至ったのは、彼らの独自の聖書研究の結果の神学的確信であるとするのである。
(b)ジェネラル・バプティスト派は「灌水礼」を行っていたが、1651年のジェネラル・バプティスト派の信仰告白(『初代の型にならって集会する三十教会の信仰と実践』)の中で、「バプテスマの方法と様式は水の中に沈められる浸礼である」(四十八条)と明記されるに及んでいる。[The Faith and Practice of Thirty Congregations Gathered According to the Primitive Pattern, 1651: "That the way and manner of baptising, both before the death of Christ, and since his resurrection and ascension, was to go into the water, and to be baptised; Math. 3. 6. Math, 1. 5. and 8. 9" (Article 48)]

このようにしてスマイスのグループは、1609年にアムステルダムにおいて、信仰者洗礼を以て新しい教会を形成した。しかし、その後まもなくしてスマイス自身が、自己バプテスマという行為に及んだことを強く後悔し始めるとともに、やがて、それを正統化する為にも、ウォーターランド派メノナイトとの合同を望むようになったのである。このことが、スマイスの教会内に分裂を引き起こす原因となり、同時に、一部の者達をしてメノナイトの信仰と自分達の信仰との明確な区別を意識せしむという結果を齎したのであった。

反対派の指導者は、このスマイスの教会の重鎮であるトーマス・ヘルウィス(Thomas Helwys〔1550?-1616〕)であった。スマイスに反対してヘルウィスと共に立つのは教会内の少数派であったが、彼らは、1. メノナイトのみが真のバプテスマを執行でき、且つ、その長老群のみが長老を叙任でき得るというような、その「継承」の理念は福音の自由に反すること [That there is no succession nor privilege to persons in the holy things]、2. ウォーターランド派メノナイト特有の教理である「キリストの人性の否定」や「キリストの神聖なる体である教会の内部には、一点の染みも汚れも見過ごすことはできない」等の律法主義的考え方は、イングランド宗教改革運動の担い手達の改革理念にとって全く無縁なものであることを主張し、3. また、同様の根拠に基づき、「剣を携えている故に、統治者は私人としても教会に所属することは出来ない」等の、メノナイトの考え方をも否定した。そして、これらの理由を以て、1610年頃、トーマス・ヘルウィスは少数派の支持により、メノナイトとの合同を申し出た、スマイス及び教会の多数派を破門したのである。こうしてヘルウィスの下に少数の者は、曾ての恩師であるジョン・スマイス等と袂を分かつこととなった。しかしながら彼らは、スマイスから受けた彼らの信仰者洗礼に関しては、それが聖書的に正しいことを確信し、この「信仰者のバプテスマの教理」の実現を強く待ち望んでいくのであった。

そして、遂にトーマス・ヘルウィスは、キリスト者が迫害にあって亡命することの誤りを覚え、その小集団を率いてイングランドに帰国し、1612年、ロンドン郊外のスピタルフィールドに、イギリスにおける最初のジェネラル・バプティスト教会を創設したのである。そしてまた、彼らは、イエスの贖罪の普遍性を説き、「イエスの贖罪はただ選ばれた者だけではなく、人類すべてを救うのに十分である」と主張するという、アルミニウス主義、すなわち「普遍贖罪説」に立つが故に、人々から普遍(ジェネラル)バプティストと呼ばれたのである。

パティキュラー・バプティスト派が生まれる母胎となった教会は、この教会形成に大きな役割を果たした三人の牧師、ジェイコブ(Henry Jacob)、ラスロップ(John Lathrop)、ジェシー(Henry Jessey)のイニシャルから、JLJ教会と呼ばれている。

初代の牧師ヘンリー・ジェイコブ(1563−1624)は、国教会の牧師であったが、分離派の牧師フランシス・ジョンソンと出会い、その影響を受けた。その時点では、ジェイコブは分離派の厳しい国教会批判に賛成できずに、より寛容な立場を主張していたが、やがて、国教会の改革を訴えるピューリタンの「千人嘆願」[Millenary Petition] に積極的に係わり、その執筆活動 [Reasons Taken out of Gods Word and Best Humane Testimonies Proving a Neccessitie of Reforming our Churches in England] により投獄された。彼は、釈放後、信教の自由を求めて、1605年にオランダのミッデルビュルヒ(Middelburg)へ移住をするが、1610年にライデンに居を移してから、その地で、真実の教会についての論考を深めながら、非国教主義分離派の牧師であるジョン・ロビンソン(John Robinson〔1575−1625〕)と六年間にも及ぶ交流を続け、分離派神学の影響を受けていくこととなるのである。なお、このジョン・ロビンソンとは、先に述べたスクルービーのグループにおいて、リチャード・クリフトンの助手としての働きをしていた人物である。

ジェイコブは、1616年にイングランドに戻ると、ロンドン市内のサウスワークに非合法の秘密集会を開始し、そこに会衆主義教会(c) を組織していった。ただ、彼の寛容な立場は依然として変わらず、この教会は、なおも国教会の牧師や信徒達との交わりを保ち続けた。しかし、激しい弾圧と迫害の為に、彼は、アメリカへの移住を決意し、信者の一部の者達と共に、1620年代の初め頃ヴァージニアへと渡航をして行った。

(c)このジェイコブの教会の性格については、諸説分かれている。この教会が、非分離派のピューリタン教会あるいは非分離派の会衆主義教会であったのか、それとも会衆主義的独立派教会あるいは準分離派教会なのか、それとも穏健な分離派教会であったのかは、研究者達の意見が分かれるところとなっている。例えば、S・A・ヤーボロー氏は、ジェイコブが、主流であった厳格な分離派よりも穏健な(moderate)分離思想を持ってイングランドに戻り、準分離派でも独立派でもなく、分離派の教会を設立する決意を固めていたとする (Yarborough, Slayden A., “The Ecclesiastical Development in Theory and Practice of John Robinson and Henry Jacob," Perspective in Religious Studies, V [Fall, 1988], 196−210)

ヘンリー・ジェイコブがアメリカへ渡った後に、イングランドに残った信徒を牧したのは、ジョン・ラスロップであり、さらに、ヘンリー・ジェシーへとその教会は引き継がれていった。二代目のラスロップ牧師も三代目のジェシー牧師も、初代の牧師ジェイコブの寛容路線を慎重に踏襲しつつ、その教会を守っていったのであるが、しかしその寛容性の故に、言い換えれば、この教会の半(準)分離派的な曖昧な姿勢の故に、そのバプテスマ理解のあり方を中心として、教会内の問題が生ずることとなったのである。

ラスロップの在職中に、つまり、その1624年の牧師叙任から1634年の獄中での牧師辞任迄の間には、教会内で二度の枝分かれが生じている。まず1630年に、幼児洗礼に対する教会の曖昧な態度に強く抗議し、十数名が教会を離脱し、次に1633年には、国教会に対する教会の寛容な立場を批判し、より厳しい分離派の立場への移行の為に、やはり信徒の教会離脱が起こったのである。1633年の離脱者の中には、後にオランダのリンズバーグに赴き、浸礼の方法を学んで帰国し、パティキュラー・バプティスト教会の創立に大切な役割を果たしたリチャード・ブラント [Richard Blunt] がいたのであった。1637年に招聘を受けて教会の牧師となったジェシーは、1663年に死去する迄この教会の牧師であったが、その在職中にも、やはり枝分かれが生じている。まず1638年に、1633年の離脱者達と同じく、より厳しい分離派の立場に転向することを願って六名が教会を離脱し、次に1640年には、教会は相互の同意に基づき大きく二つに、つまり、ジェシーと共に集会を守っていたグループと幼児洗礼を擁護する立場に立つグループとに分かれていくのであった。

このJLJ教会がパティキュラー・バプティスト派にとって、決定的に重要な意義をもつのは、上述の1633年と1638年に離脱したグループが、彼らの独自の聖書研究に基づき、「信仰告白をした者へのバプテスマを浸礼の様式で施すのが正しい」["it ought to be by dipping in ye Body into Ye Water, resembling Burial and riseing again"] という見解に至り、1642年一月に浸礼を実践し、そして、この浸礼式によって、あるいは、彼らが1644年に公表した『ロンドン告白』["The way and manner of the dispensing of this Ordinance the Scripture holds out to be dipping or plunging the whole body under the water"] によって、イギリスにおける最初のパティキュラー・バプティスト教会が設立されたからである(d)

(d) パティキュラー・バプティスト教会の起源としての時点を定めることにおいては、「バプティスト派の起源」の問題を包含しながら、諸説分かれている。例えば、それを1642年の彼らの「浸礼の実践」の年と規定した場合には、「灌水礼」を行っていたジェネラル・バプティスト派は、1651年〔註(b)を参照〕迄、バプティスト派とは認められないこととなるからである。

彼らは、JLJ教会から、国教会とピューリタンへの寛容性を否定して離脱し、厳格な分離派への接近をはかったのではあるが、結局のところ、既成の分離派教会に合流したのでもなく、また、自らの分離派教会を形成したのでもなかった。つまり、彼らが達した結論は、分離派教会を解散し、信仰者洗礼を以て新しい教会を形成した、ジェネラル・バプティスト派における先駆的人物であるジョン・スマイスの達した結論と同じである。そのように「信仰者のバプテスマ」の正しさを確信し、分離派の許容する幼児洗礼に対する否定を明確に打ち出してゆく、JLJ 教会からの離脱者グループが、受け入れられて、ジョン・スピルスバリーの牧する教会に合流したのであった。しかし、この離脱者グループがスピルスバリー教会に合流し、幼児洗礼反対と信仰者洗礼の正当性を主張した時、彼らはイングランドの土壌にあって、アルミニウス主義神学には影響を受けぬまま、教会論を除く基本的教理はカルヴィン主義神学に立っていた為に、ジェネラル・バプティスト派とは異なるパティキュラー・バプティスト派を形成していったのである。また、彼らが礼典論において徹底することを願ったのが、バプテスマの様式であった。そして、彼らは、浸礼こそが原始教会の実践であり、且つ、新約聖書の教説であるという確信の下に、「浸礼による再洗礼」を施すに至ったのである。

註(70) 斎藤剛毅『信仰の自由を求めた人々バプテスト教会の起源と問題』(ヨルダン社、1996年)、424〜426頁。
註(71) バプティスト派の「信仰告白」というものについては、森島牧人氏が述べる次のことに(『バプテスト派形成の歴史神学的意味』〔燦葉出版社、1995年〕、195頁。)、留意すべきであろう。
しかし彼らは、他の教派のようにそれらの信仰告白をそのグループの恒久的な信条とすることはなかった。なぜならば彼らにとって重要であったことは、神の言と彼らのおかれている現実との間に、一瞬神の側から下された閃光により示されるその出来事にのみ、忠実に従い続けることだったからである。つまり神の支配したもうその歴史の一瞬一瞬を、「その時にかなった仕方」で生きることであった。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植たものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、〔中略〕神のなされることは皆その時にかなって美しい。(伝道の書、第3章1節から11節)
註(72) 1642年一月に浸礼によるバプテスマを実践した五十三名のパティキュラー・バプティスト達は、1644年にはロンドン市内に七つの教会を有するようになる。そして、同年、その七教会からの代表達が集い、各教会二名ずつの署名を以て、七教会共通の信仰告白となる、この五十三箇条の『ロンドン告白』を作成し、それを公表した。なお、『ロンドン告白』は、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』、あるいは、森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』において、資料として引用されている、原文(第一次資料)からの翻訳によるものを使用した。
註(73) トーマス・ヘルウィス及びそのグループは、1610年の初めに、メノナイト派のアムステルダム教会に対して、自分達と、メノナイト教会との合同を目指すジョン・スマイスのグループとの混同を避ける為に、この『信仰概要』をラテン語で書き送った。なお、『信仰概要』は、註(72)と同じく、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』、あるいは、森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』において、資料として引用されている、原文(第一次資料)からの翻訳によるものを使用した [『信仰概要』の英訳は斎藤剛毅氏によって為され、氏の博士論文において発表されている]。
註(74) ヘルウィスがオランダで書き、1612年にイギリスで出版した『ロー・カウントリーズのニュー・フライラーズと人々が呼ぶ会衆への警告あるいは通告』(An Advertisement or Admonition unto the Congregations which Men Call Freyelers in the Lowe Countries)の中で述べられたものである。本文においては、その著作名の略記を用いて、『警告』(An Advertisement )とした。なお、Helwys, An Advertisement (Microfilemd), p. 35 からの、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』における引用文を使用した。
That wheresoever two, or three, are gathered together into Christs name, there Christ hath promis-sed to be in the midst of them Mat. 18. 20. and there-fore they are the people of god and Church of Christ, having right to Christ, and all his ordinances, and need not seeke to men to be admitted to the holie thin-ges, but may freely walke together in the waies of god, and enjoy all the holie thinges.
註(75) 彼らは、ワインの大きな桶を組み立て式の即席の説教台として、礼拝を守ったとされている。
註(76) 森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』、217頁。
註(77) M・トルミー/大西春樹、浜林正夫訳『ピューリタン革命の担い手達』(ヨルダン社、1983年)。
註(78) E・ダーガン/関田寛雄、中嶋正昭訳『世界説教史 IIII 17−18世紀』(教文館、1996年)、188〜189頁。
註(79) Ecclesiastical Records of the State of New York, vol. I, pp. 399 f.
註(80) 『キリスト教大事典 改訂新版』(教文館、第11版、1995年)。
註(81) H・リチャード・ニーバー/柴田史子訳『アメリカ型キリスト教の社会的起源』(ヨルダン社、1984年)、156頁。
註(82) ニーバー、前掲『アメリカ型キリスト教の社会的起源』。
註(83) Wheeler, Edward L., "Beyond One Man:A General Survey of Black Baptist Church History," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), p. 311.
エドワード・L・ウィーラー氏は、メルヴィル・ハースコヴィッツ氏 (Melville Herskovits) の『The Myth of the Negro Past』における主張に言及し、E・フランクリン・フレイジャー氏 (E. Franklin Frazier) の説と対立するそのハースコヴィッツ説に、アメリカで見られる黒人教会はハースコヴィッツ氏の言う「アフリカニズム」によって特徴づけられるという点において、賛同している。

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II バプティスト教会の福音伝道
2.黒人の霊歌とゴスペル・サウンドの流れ

註(84) この論文の第二章は、バプティスト教会の福音伝道について述べることを、主たる目的とするのものである。しかし、次の第三節で記述することとなるバーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道に対する前提的考察としての必要を感じ、この第二節では、特に、「黒人教会」について述べることとなった。バーバラ・ワード=ファーマー氏のワークショップは、在日米軍横田基地の招聘で福音伝道師であるバーバラ氏が来日し、それは、あくまで、在日するアメリカ人バプティストの全員(軍関係者、民間人を問わず)と、日本人バプティストの全員を参加の対象とするものであったのであるが、私が参加した五日間において何れの日も、アメリカ人バプティスト会衆の中では、おそらく九割が黒人によって占められるという状況であった。したがって、教会堂内の雰囲気や会衆の反応等をよりよく観察するということにおいて、「黒人教会」というものの輪郭を得ることなくしては、的確な記述が不可能に思われたのである。しかしながら、私には決して、アメリカ人バプティストにおいて、白人と黒人とを分離する意図がないことを、ここに明記しておきたい。彼らは、バプティストというキリスト者として、全く同一の人格である。
註(85) 皆河宗一、『アメリカ・フォークソングの世界』(民俗民芸双書、岩崎美術社、1971年)、6頁。
註(86) Benjamin E. Mays, The Negor's God : As Reflected in His Literature (New York: Russell & Russell, A Division of Atheneum House, Inc., 1968), pp. 23-24.
それらは、黒人達に苦難を耐え忍び、痛みに耐え、不適応状態に持ちこたえることを可能にさせる観念であるので、報償的パターンに従っているが、必ずしも黒人達に苦難を強いている不義の源を取り除こうという意欲を起こさせるものではない。このことは、この件で調査した122の黒人霊歌に見られる観念についても言える。それらの殆どが他界的であるのである。すなわち、この世を無効なものとし、仮のすみかとして捉え、この世では表わすことが許されないニーズと願望の完全なる実現を天国に期待するように、人を導くものである。
(Mays, Ibid., pp. 23-24.)
註(87) ワイヤット・T・ウォーカー/梶原寿訳、『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』(新教出版社、1991年)、65〜66頁。
[Wyatt Tee Walker, "Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change (Valley Forge: Judson Press, 2000), p. 50.]
Howard Thurman, "The Meaning of Spirituals," in Lindsay Patterson comp. and ed., International Library of Negro Life and History: The Negro In Music And Art (The Association for the Study of Negro Life and History, 1967), pp. 3-8.
南北戦争前の黒人説教師は、奴隷達の共同体の霊的運命を決定する最も大きなファクターであった。奴隷達にとっての紛れもない「希望の扉」となった或視座を多くの同胞に与えた者、それが彼である。〔中略〕それ故に、彼の一つのメッセージは、広範な多様性を以てさまざまな言い回しで繰り返された、此れであった。「あなたたちは神にかたどって創造された。あなたたちは奴隷ではない。『黒んぼ』でもない。あなたたちは神の子供なのだ」。
(Thurman, "The Meaning of Spirituals," Ibid., p. 3.)
註(88) James H. Cone, The Spirituals and the Blues:An Interpretation (New York:The Seabury Press, Inc., 1972), 1 Interpretations of the Black Spirituals.
註(89) 1620年のピューリタン移民と共に移入された歌集を、一層ヘブル語原文に忠実な詩篇歌集として、新たに訳し直したという Bay Psalm Book [The Whole Booke of Psalms Faithfully Translated into English Metre]WattsWesley の讃美歌集等が、一般に、正統的アメリカ讃美歌とされるが、その他に、アメリカ南部植民地の白人移民の間では、キャンプ・ミーティング・ソング、あるいは、白人霊歌(White Spiritual)と呼ばれる、単純素朴な民謡的讃美歌が盛んにうたわれていた。キャンプ・ミーティング・ソングや白人霊歌は、19世紀中期以降に西部開拓の進行と共にアメリカを風靡した大リバイバルの集会と密接な関係を持ち、そうした場で使用する為に大量に作られる福音唱歌、いわゆるゴスペル・ソングの源流となったと一説には言われている(本文では触れたが、黒人霊歌との連関においては、問題がある)。この種の讃美歌は、きわめて主観的且つ通俗的であるが、率直に個人の救いをうたい、また、回心や伝道への呼びかけをうたうものである。
註(90) 皆河宗一、前掲『アメリカ・フォークソングの世界』、247〜248頁。
註(91) ワイヤット・T・ウォーカー/梶原寿訳、『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』(新教出版社、1991年)、22〜23頁。
註(92) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』。

柳生望氏が、その著『アメリカ・ピューリタン研究』(日本基督教団出版局、1981年)において、ベンジャミン・パルマー(Benjamin M. Palmer, 1818-1902)の1861年の説教を挙げて述べているが、そこでも明らかなように、南部の説教おいて顕著である教えは、奴隷制が神に定められた制度であるということである。そして、その妥当性については、旧約「創世記」の第九章を引いて説かれる。すなわち、ノアの子供が黒、黄、白人種の特性を有し、ハムに対する呪いが黒人にふりかかったのであり、したがって、黒人は永遠に奴隷たるべき宿命にあるというものである。

箱船から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」
また言った、
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。」
註(93) H・リチャード・ニーバー/柴田史子訳『アメリカ型キリスト教の社会的起源』(ヨルダン社、1984年)、227頁。
H. Richard Niebuhr, "The Social Sources of Denominationalism (New York: Henry Holt And Company Inc., 1929), pp. 251-252.
Under the persuasion of such srguments and of their own conscience masters might yield a point and allow the slave to receive so much Christian instruction as would suffice for his salvation from Satan but not so much as might lead him to desire redemption from servitude.
註(94) C. Eric Lincoln, “The Development of Black Religion in America," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), pp. 305-306.
註(95) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、序文。

ほとんどの黒人霊歌は、抗議の歌ではなく、本質的に「他界的」であり「報償的」なものである。しかしながら、 あるものは、「抗議的」な性格のものであり、「反逆的」な性格のもの、すなわち、ベンジャミン・メイズ氏が述べる (Mays, op. cit., pp. 28-29.) ように、天国における救済や平安を探求することなしに、現世の状況に反抗する霊歌の存在を例証するものである。よく例として挙げられるのは、奴隷達が自分達の奴隷状態をイスラエル民族のエジプトの捕囚になぞらえて歌ったとされる「Go Down, Moses」であるが、J・H・コーン氏によれば、もっと「戦闘的」な黒人霊歌が、「私は奴隷になる前に墓に葬られよう」と歌う、「Oh, Freedom!」である。

おお、自由よ!おお、自由よ!
おお、われに自由を!
奴隷にするなら、その前に、
私を私の墓に埋めてくれ、
わが主の家に帰し、自由にしてくれ。

Lyrics from James H. Cone, The Spirituals and the Blues, Twelfth Printing (Maryknoll, New York: Orbis Books, 2005), p. 41.
(II) 「キャルヴァリで」
ただし、ゾラ・ニール・ハーストン氏が述べているように(
Zora Neale Hurston, "Spirituals and Neo-Spirituals," Lindsay Patterson comp. and ed., op. cit., p. 15.)、黒人霊歌の歌詞は、たとえ活字化されたものであっても、集会から集会へあるいは教会から教会へと伝わり会衆によって歌われていく間に変形が繰り返されて、その原形はあってなきに等しいものである場合が多いということに、留意されたし。
Every time I think about Jesus, (3x)
surely he died on Calvary......

Refrain: Calvary, Calvary,
Calvary, Calvary,
Calvary, Calvary,
surely he died on Calvary.

Don't you hear the hammer ringing? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Don't you hear him calling his Father? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Don't you hear him say "It is finished"? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Jesus furnished my salvation. (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Sinner, do you love my Jesus? (3x)
surely he died on Calvary...... (end with refrain)
#249 in Hymnal: A Worship Book, Pew Edition (Elgin, Illinois: Brethren Press; Newton, Kansas: Faith and Life Press; Scottdale, Pennsylvania: Mennonite Publishing House, 1992)
註(96) 伝統的に「解放宣言」と呼ばれている、エブラハム・リンカンの大統領行政命令によって齎された動産奴隷制 [the chattel slavery] の法的終焉を指す。1863年に、同大統領が署名した。
(97)註 これは、黒人達が自分達に起こった解放の現実を、聖書の「出エジプト記」における奴隷状態からのイスラエルの民族の解放の物語りになぞらえた、「主はわが叫びを聞きたまえり」という揺るぎない信念である。霊歌の神は、彼らを「エジプト」の奴隷状態から救い出してくれたのである。     
主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている......(「出エジプト記」第三章)。
註(98) 物理的な礼拝場所が確立する以前において、南部プランテーションで、イエス信仰の下に、非合法的に奴隷達の間で守られた礼拝のことであるが、自己の文化と言語を奪い取られた奴隷達に結合力と共同性を与え、彼らの宗教的生活と活動が最も集中していたのが、この「見えざる教会」(invisible church)である(研究者によっては、「不可視的な制度」[invisible institution] と呼ぶ場合もある)。このような彼らの集会は、しばしば奴隷主から喜ばれなかった為に、固定した集会場所を持つことがなかった。それゆえに、「見えざる教会」という用語が用いられている。或研究者においては、この「見えざる教会」は、奴隷制に反対する彼らの主たる抵抗運動であったとし、また、黒人霊歌においても、それを「二重意味歌」[double meaning song] として、つまり、霊歌の奴隷制からの脱出と係わる「暗号歌」[code song] としての可能性、蓋然性ないしは予測性を認めようとする傾向がある。しかし、私は、「黒人の闘いの歴史」に対して言及をする力も余裕も私にはないという理由から、ここでは、黒人霊歌を信仰歌或いは「信仰のことば」としてのみ捉えることとしている。
註(99) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、114頁。
註(100) さらに、この頃に起こった二つの人口移動の帰結、すなわち、北部と南部における都市中心部の黒人人口の急増という「都市化」の影響をも、みなければならないであろう。二つの人口移動とは、一つは、経済的環境に誘発されて、黒人が南部の農村から南部の都市へと移動したことであり、もう一つは、第一次世界大戦の人的資源の緊急なる必要性に誘発されて、主要人口が南部の農村及び都市から北部の都市へと移動したことである。これらの両者の人口移動の帰結として、北部と南部における都市中心部の黒人人口の急増が起こったのである。こうしたアメリカ都市地域における黒人民衆の存在は、黒人教会の生活と様式を著しく変容することとなるのである。この時期以前には農村的、あるいは、半農村的性格を温めていた彼らの宗教的生活と機構や制度は、「都市化」され、その性格を変え、そして、その変化はまず教会に反映された。例えば、或種の断続的集会(限定された輸送手段や指導者という関係から、多くとも月に一回か二回の日曜礼拝で精一杯であったとされる)による農村的礼拝の単純なニーズとは対照的に、都市における黒人の教会生活は、多様なニーズを抱え始めながら、毎週の事柄となり、また、都市的教会環境の発展を促した。さらに、本文でも触れるが、黒人の識字能力の増大は、既成の白人的ユーロ・アメリカン文化を享受することであり、必然的に、白人共同体の諸教会で行われている宗教的いとなみから、影響を受けずにはいられなかったのである。
註(101) 一般に、ユーロ・アメリカン讃美歌は普遍的・超時間的メッセージを含んだ美しい詩であるが、中でも特にワッツ博士の讃美歌は、時代をも人種をも超えて人々に愛され続けているものであり、黒人は、「ワッツ博士」の曲に特別な嗜好を示してきたとされる。それは一説に、ワッツの讃美歌に表わされている神への信頼感、そして、そのテーマが必ず、絶望的状況に直面しつつも、屈することなき信仰を讃美しているからであるとされる。
  • 1.わが弱き魂を支えてくれるのは信仰、
  • 深き悩みの時の信仰である。
  • 嵐が起こり、大波が押しよせる時、
  • 大いなる神よ、わたしはあなたのみ恵に頼ります。
  • 2.あなたの強きみ腕は今もわたしを支えています、
  • どんな悲しみが襲おうとも、わたしを支えます。
  • あなたはわたしの命、わたしの歓び、わたしの希望、
  • あなたはわたのすべてのすべてです。
  • 3. 友はおらず、適に囲まれ、
  • あらゆる危険に見舞われようとも、
  • わたしはあなたにすべての恐れを打ち明けます、
  • わが助けはあなたにこそあるのですから。
  • 4. あらゆる物に不足し、あらゆる事に困窮する時、
  • わたしはあなたのみもとに飛んで行きます、
  • 他の慰め主がすべて立ち去る時も、
  • あなただけはとこしえに身近にいたまいます。
  • 1. 'Tis faith supports my feeble soul
  • In times of deep distress;
  • When storms arise and billows roll,
  • Great God, I trust thy grace.
  • 2. Thy powerful arm still bears me up,
  • Whatever grief befall;
  • Thou art my life, my joy, my hope,
  • And thou my all in all.
  • 3. Bereft of friends, beset with foes,
  • With dangers all my fears disclose;
  • To thee I all my fears disclose;
  • In thee my help is found.
  • 4. In every want, in every strait,
  • To thee alone I fly;
  • When other comforters depart,
  • Thou art forever nigh.

ワッツ博士は、1707年に新大陸の植民地全体に熱烈に受け入れられた宗教詩集『讃美歌と霊歌』を出版した。熱情をこめた大覚醒運動は、生き生きとした音楽を求めたのであり、新鮮さと活力にみちたワッツ風の讃美歌はその要求に答えたのであるとされている。したがって、南北戦争前の黒人達にも、ワッツ博士のそれは、当然、なじみ深いものであったはずである。

こうした点への注目から、ワイヤット・T・ウォーカー氏は、奴隷制時代と南北戦争後の南部再建期にまたがる時代区分を設定し、〈黒人霊歌の時代〉と〈黒人のユーロ・アメリカン讃美歌の使用の時代〉との間に在るべき、「黒人韻律音楽の時代」[Black meter music] の存在を強調している。氏によれば、その発展と全盛の一般的時期は、1807年から1900年にかけての時代であるとされる。つまり、支配社会の人々の韻律形式による歌唱を聞き、その歌詞に興味を抱いたことに始まる、「ワッツ博士」の讃美歌の、その韻律記号とリズムを捨てた(実質的に)「黒人的使用」に対応するものであり、それは、黒人のユーロ・アメリカン讃美歌の使用、つまり、識字能力を以て既成の歌詞、音楽的記譜法にただひたすらに従うというかたち(その導入初期における)とは、明らかに異なった仕方による黒人宗教歌としての韻律音楽を指すものである。

本文において、私は、この「黒人韻律音楽の時代」に全く触れていない。それは、まず、ワイヤット・T・ウォーカー氏が述べている通り、「どこにも、韻律歌唱における『ワッツ博士の』讃美歌の黒人的使用について実質的に述べている真剣な論議に接することはできなかった。〔中略〕霊歌を去った後には、研究に関する限り、アメリカにおける黒人大衆教会を席巻していた、独特の宗教音楽についての記録が全くないのである」(前掲『だれかが私の名を呼んでいる黒人宗教音楽の社会史』、118頁)ということと、次に、私には音楽学の知識がなく、この修士論文が音楽学的分析と考察を目指すものではないことの為である。したがって、この第二節では黒人の信仰歌についても実に大まかな輪郭のみを述べることしかできないが、ワイヤット・T・ウォーカー氏の時代区分に基づく「黒人韻律音楽の時代」の存在は、黒人宗教音楽の歴史において、非常に意味があり且つ重要であると思われる。

But nowhere in serious discussion has this writer been able to find anything of substance on the Black use of "Dr. Watts" hymns, and others, in meter singing. (...) After one leaves the Spirituals, as far as research is concerned there is very little record of the unique brand of sacred music that prevails in large measure in the Black folk churches in America.
(Wyatt Tee Walker, Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change [Valley Forge: Judson Press, 1979], p. 88.)
註(102) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』。
註(103) Wendel Phillps Whalum, "Black Hymnody," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), p. 349.
註(104) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、26〜27頁。
註(105) Charles V. Hamilton, The Black Preacher in America (New York: William Morrow & Company, Inc., 1972), p. 28.
註(106) 本文において、「ゴスペル・ソング」という言葉を造り出したのは、ドーシーであると述べたが、注意が必要であると思われるので、ここに補記する。まず、ドーシー自身が述べた言葉の筆録として、A・ヘイルバット(Anthony Heilbut)氏の The Gospel Sound:Good News and Bad Times (New York:Limelight Edition, 1992) において(p. 27)、以下のように記述されているのであるが、     
In the early 1920s I coined the words 'gospel songs' after listening to a group of five people one Sunday morning on the far south side of Chicago. This was the first I heard of a gospel choir. There were no gospel songs then, we called them evangelistic songs.

M・W・ハリス(Michael W. Harris)氏の The Rise of Gospel Blues: The Music of Thomas Andrew Dorsey in the Urban ChurchNew York, Oxfod:Oxford University Press, 1992)においては(p. 151)、ドーシー自身が述べた言葉の筆録は、以下のようなものである。

Now, I didn't originate the word gospel, I want you to know. I didn't originate that word. Gospel, the word "gospel" has been used down through the ages. But I took the word, took a group of singers, or one singer, as far as that's concerned, and I embellished [gospel], made it beautiful, more noticeable, more susceptible with runs and trills and moans in it. That's really one of the reasons my folk called it gospel music.

実際に、「ゴスペル・ミュージック」というフレーズは、19世紀の終わり頃迄には、広範に用いられていたようである。M・W・ハリス氏によれば、19世紀末の最大の福音伝道者の一人とされるムーディー(Dwight Lyman Moody)の下に、そのリバイバル(revival)運動での音学ディレクター(music director)を 務 めた音楽伝道者アイラ・サンキ氏(Ira David Sankey〔1840−1908〕)は、1873年に、イギリスのサンダーランド(Sunderland)において、「ゴスペルを歌うこと」("to sing the gospel" )という言葉づかいの発祥に立ち会ったと主張している(Interview, Jan. 22, 1977, p. 16;Sankey, Ira D., My life and the Story of the Gospel Hymns and of Sacred Songs and Solos [Philadelphia: Sunday School Times, 1907], p. 50)。

(IV) M・W・ハリス氏によれば、ドーシーは、如何にしてハーレー主教 (Bishop H. H. Haley) がドーシーの喉から一匹の "live serpent" を引っぱり出したかということ、そして、その瞬間から、彼の苦しみは "no more" となり、ずっと順調 ("going ever since") であり、神に仕えること ("Lord, I am ready to do your work") を誓約したのだと述べている。(M・W・ハリス、前掲 The Rise of Gospel Blues: The Music of Thomas Andrew Dorsey in the Urban Church, p. 96)。
註(107) Pearl Williams-Jones, quoted in Wendel Phillps Whalum, "Black Hymnody," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), pp. 353-354.
註(108) Anthony Heilbut, The Gospel Sound:Good News and Bad Times (New York:Limelight Edition, 1992).
註(109) Heilbut, Ibid., p. 99.
註(110) Le Roi Jones, Blues People (New York, 1963), p. 152.
註(111) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、172頁。

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II バプティスト教会の福音伝道
3.バーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道

註(112) バーバラ氏による個別の指導も行われていたようであるが、このワークショップの一般に対する公式の日程のみを、以下に挙げる。
   1996年6月3日
      午後6:30 親睦会(於ウエスト・チャペルのフェローシップ・ホール)
   1996年6月4日
      午後4:00 セミナー:「指揮」
      午後5:00 セミナー:「声楽演出/声楽技術」
      午後6:00 賛美および礼拝 
      午後6:30 ワークショップ・リハーサル
   1996年6月5日
      午後1:00 演奏リハーサル
      午後4:00 オーディション
          セミナー:「教会音楽家の為の、ABC」
      午後5:00 セミナー:「奉仕の務めとしての歌唱/コーラスの作法(心得)
      午後6:00 賛美および礼拝
      午後6:30 ワークショップ・リハーサル
   1996年6月6日
      午後1:00 演奏リハーサル
      午後4:00 オーディション 
      午後5:00 セミナー:「ゴスペル音楽の歴史」
      午後6:00 賛美および礼拝
      午後6:30 ワークショップ・リハーサル
   1996年6月7日
      午後6:00 賛美および礼拝
      午後6:30 ワークショップ・リハーサル
   1996年6月8日
      午後2:30 ウエスト・チャペルから福生市公会堂へ出発
      午後3:00ー5:00 音響試験(福生市公会堂)
      午後6:30 コンサート(福生市公会堂)
註(113) 参加者の数は、各セミナーにおいては、大幅に異なっていた。ここで述べた「会衆数とは、礼拝堂における、賛美および礼拝とそれに引き続くワークショップ・リハーサルでの、参加者の数である。「160名から200名を超える会衆数」という述べ方をしたのは、先ず、正確な数が計量できなかったことと、次に、その数が時間的経過によって増加した為である。つまり、二日目に礼拝堂の席列数等によって目算した時点では150人前後であったそれが、五日目には200名を超える会衆数に増加していたのである。また、一日の計量においても、数の増減はみられた。例えば、軍事基地の中に礼拝堂があるという地理的条件から、一般の人々(特に、日本人)に対しては、ウエスト・チャペルと福生駅との送迎がバスによって行われていたのであるが、これの到着、あるいは、出発によって、まとまった数が動いていた。
註(114) この時の食事はすべて、基地在住のバプティストの婦人達の手で作られ、持ち寄られたものである。また、休憩なしで夜の十時頃迄ワークショップ・リハーサルが続く為、日本人等に対しては、帰る際に持ち帰れるように、連日、同婦人達から簡単な弁当が配られていた。
註(115) 六時より開始された五日目の礼拝とワークショップであるが、二回目の大きな「祈り」の後(八時前後)で、日本バプティスト連盟調布南教会の前田重雄牧師が、日本人会衆に対して特に語り始めた。そして、その牧師の話の中で、「クリスチャンではない」日本人達に対して挙手が求められたのであるが、この時挙手することにより「クリスチャンでない」ことを認めた者達は、次いで、礼拝堂前方の祭壇に出て来るように招かれ、そこで、日本人バプティストの捧げる熱心な祈りの中に迎えられていった。(私の場合について述べれば、両側に各一名のバプティストが寄り添い、私の為に、神に向かって声高くずっと祈りを捧げてくれていた。その主な内容は、私の目を開かせて、イエスのことをはっきりと見られるようにしてくれ、というものであった。)祭壇では、前田牧師の下で、日本人バプティストによる実に多くの祈りが為された。そして、集まった「クリスチャンではない」日本人の一人一人が、バプティストの抱擁を受けながら席に戻されていったのであるが、しばらくすると、再び祭壇に招かれて、バーバラ氏の祈りと祝福を受けることとなっていった。また、この間には、アメリカ人会衆に対しても同様な語りかけが行われており、この時に、心弱くなっていた、あるいは、迷いの内にあるアメリカ人達が、祭壇へと招き集められて、バーバラ氏を中心とするアメリカ人バプティストの熱心な祈りの中に入っていったのである。

「クリスチャンではない」日本人達は、前田牧師と日本人バプティストに促されて、バーバラ氏の祈りと祝福を受ける為に、再び前方に出ていった。バーバラ氏は、それらの日本人一人一人の額に手を当てながら、深く静かな声で何かを唱えてゆく。この中の一人であった私は、最後に、「イエスは本当に信じられるのか」と尋ねてみた。バーバラ氏は、会衆に向かい、私のその質問に対する答えを求めた後に、私の耳もとで「私は自分の亭主は信用しない、だけど、彼〔イエス〕は絶対に信じられるのよ」と囁いた。

註(116) バーバラ氏の説明によれば、地上的世俗的な指導・指導能力ではなく、牧師、伝道師等の、霊的に語ること、そして、奉仕することにおける、霊的リーダーシップである。
註(117) 一説に、ライフ(life)の比喩ではないかとされるが、不明である。また、「水」という言葉の用法として、アレスデア・ヘロン(Alasdair Heron)氏によれば、水はまた生命の保持のシンボルでもあるが、しかしそれ以上に、水は洗浄と清めをあらわし、再生や復興、過去の汚れの払拭といった意味を伝えるのに、よく適合するとされている(A・ヘロン/関川泰寛訳『聖霊 旧約聖書から現代神学まで』、ヨルダン社、1991年)。
註(118) 私は、旧約「創世記」第四十五章十八節の 'fat' の用法に基づいて訳したが、これは、単に、神が「太る」という表現であるかもしれない。
註(119) 岸本羊一・北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)によれば、「手を按く」按手の行為には、時の経過とともにその関連領域を広げつつ、特別な意義が賦与されてきている。元来聖書において、「手」は、身体の一部として言及されることとは別に、隠喩的用法で受け取られているのであるが、その最も多い用例は「力」である(詩篇78・42、ヘブル10・31等)とされる。また、本来「手」と記されているのが、「働き」、「所有」、さらに、人格的存在の隠喩として人称代名詞に代わるように訳出されることもあるという。このようなことからも、「手を按く」按手の行為には特別な意義が賦与されるのである。旧約において燔祭や罪祭の犠牲に手をおくこと(出エジプト記29・10レビ記1・4等)は、犠牲の聖別と、それに対する献げる人の同一化(Identification)であったとされる。また、祝福の伝達、賦与の意義をになうものも多く(創世記48・14、マタイ19・15、マルコ10・13、16)、さらに、霊的健全さと身体的活力の賦与の事例も多くみられる(使徒9・12、17、28・8、マルコ5・23)。そして、祝福や聖霊の伝達、賦与は(使徒8・18ー19、19・6)、権威的な賦与ではなく、むしろそれに共にあずかり、その職務を委任する意味が根源的であることを知るものであるという。牧会書簡においては、以上のような、按手による叙任と霊の賜物の賦与とが結びつけられているが(第一テモテ4・14、第二 テモテ1・6)、しかし同時に、その按手の行為が、悔悛者の和解と関連づけられていることに(第一テモテ5・22)、注意が必要となるのである。こうして、時が経つと共に、按手の行為は、バプテスマ、堅信、叙任、癒し、悔悛者の和解と、多様な関連を有すようになっていった。また、人だけではなく、物に対する祝福にも関連づけられてきたのであるという。

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III 交感の宗教性
1.〈節談説教〉のことば(一)

註(120) 説教においては、説教者の発する言葉が、主たる媒介の記号となって宗教思想の伝達がなされるのであるから、まず人間の音声や言葉というものについて、そして、その日常的言語や伝達方法についても考察しながら、さらには、非日常的言語や非言語的言語(non-verbal language)をも含む「〈節談説教〉のことば」というものについて、論考を進めてゆきたいと思う。

なお、ここで明記すべきであると思われるのは、私が、「〈節談説教〉のことば」とはすなわち「儀礼の言語」の一形態であるとする視座に立っていることである。

註(121) 初転法輪については、藤井正雄先生の論文から、以下に引用して述べる(藤井正雄「新宗教の法座」、『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会、141頁(上段)〜142頁(上段))。
初転法輪とは、釋尊が六年の苦行を終えてブダガヤの菩提樹下に金剛不動の座を構え、四九日の後に成道を果されて、かつて六年間苦行を共にしてきた仲間の五人の比丘たちに自ら開いた法門を最初に伝えた事蹟である。初転法輪の地がブダガヤを去ること二五◯キロのサルナート(鹿野苑)であり、また、成道から初転法輪まで数週間をへているという事実は、釋尊が勇躍して直ちに五比丘に法を説いたのではなく、ためらいの後の決断であったことに注目したい。
釋尊の初転法輪が示すものは、法座は敬って仏を迎え、即席の座をしつらえて法を聞く、いうならば「法」があってこそ、はじめて「座」が存在することである。
註(122) 藤井正雄「新宗教の法座」(『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会)、142頁。
註(123) P・L・バーガー=T・ルックマン/山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社、1977年)68頁。
註(124) ウィリアム・E・ペイドン/阿部美哉訳『比較宗教学』(東大出版会、1993年)、173頁、及び、140頁。
註(125) 門脇佳吉「創作能『イエズスの洗礼』によるミサ」(『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会)、49頁。
註(126) 音身振りとは、人間が感じている情緒を表わす音声記号であり、人間の声調と顔の表情とが完全に一致しているものを指す。例えば、笑いや叫び等、さらに、間投詞の大部分がこれにあたるとされる。
註(127) E・B・タイラー/大社・塩田・星野訳『文化人類学入門』(太陽社、平成3年)、46頁。
註(128) 養老孟司「宗教体験と脳」(『仏教 特集=宗教体験を見直す』no. 3、法藏館)。
註(129) 「音」の力やその効果の問題は、人間身体の神経・生理学的レベルにおいても、諸研究者によって、予測され、示唆され、指摘されながら、様々なアプローチが試みられている。幾つかの例を挙げれば、1. 養老孟司氏は、脳の報酬系との係わりを予測し(養老、前掲「宗教体験と脳」)、2. 山本光璋氏は、クラシック音楽において見い出されるような、人間の快感もしくは快適感覚を齎すという生命現象における「1/f ゆらぎ」という変動が、脳の神経細胞や心拍からも発見されたことを、その科学的データに基づいて、論じ(「生命のリズムとゆらぎ」〔『言語 特集・リズム』Vol. 22・No.11、大修館書店〕)、3. 柳澤桂子氏は、人間の心の「安らぎ」について、脳内麻薬物質(エンケファリンやエンドルフィン等)の放出との相関性を解こうとしている(「こころの『安らぎ』と生命科学」〔『仏教 特集=癒し』no.31、法藏館〕)。また、このような「音」の力やその効果に対する自然科学的アプローチの方法は、一つの傾向として、日本音響学会の平成7年度秋季研究発表会における研究発表にも、しばしばみられていた。代表的であると思われるのは、土井淳也・徳弘一路「楽曲におけるスペクトル情報と情動の関係」(『日本音響学会 平成7年度秋季研究発表会 講演論文集』、日本音響学会)や、仁科エミ・不破本義孝・河合徳枝・八木玲子・増田正造・他 "On High-frequency Components of Sounds Produced by Musical Instruments of Various Cultures"(前掲講演論文集、日本音響学会)である。さらに、研究者によっては、日常に聞かれる音だけではなく、人間には聞いていることが意識されないまま、しかし、実際は聞いている音という、これは測定によって音が存在することが証明されているのであるが、特殊な音の人間に対するその効果や影響にまで及ぶものであった。
註(130) 鎌田東二『記号と言霊』(青弓社、1990年)、51頁。
註(131) この層については、註 (129) に挙げた諸氏の仮説や研究成果等に拠って、私が推論したものであり、論考としては甚だ曖昧なものであることを認める。

また、この論文の作成にあたっては、ここに述べたような人間の音声の層について、自分自身で確かめ、そして、少しでも解明を試みたく、その為に、当初、宇都宮大学粕谷英樹教授の研究室の協力を仰ぐことを計画したのである。しかしながら、私の音響学に対する勉強不足、力不足と時間的制約の問題が重なり、実に残念であるが、今回は、この論文において音声についての自説を述べることを断念せざるをえなかった。

註(132) 言語とは、常に流動しながら、生成している弾力のある記号である。なぜならば、通常、言語とは聞き手に向けられたものであり、したがってその場合には、一人の個人が発話行為をいとなむのではなく、可視、不可視を問わず、常に聞き手である他者との関係性の中からつくられゆく、生成物としてあるからである。このような「対話」においては、言語行為は、主体の所在が明らかな(a) 社会的な相互作用となる。このような聞き手が何らかの形で存在する対話には、さらに、音声による言語表現行為である外的発話と、未だ音声として発話されてはいないが、心理的な内面で展開されている言語活動である内的発話とがある。そして、後者である内的それであっても、多くの場合に、社会的規範や共通意識等の基盤の上に生成され、日常のコミュニケーションへと、つまり、外的発話的に解消されていく志向をもつのであるとされる(b)。しかしそれと同時に、その内的発話の中には、時として、主体とその経験のみで生成されるものが現われる。それは、社会的な規範や共通意識の基盤の上にはっきりと生成されたものではなく、純粋な自己の内なるものとしての心的体験等である。この場合、その内なるものが、言語の社会性から、特に共通の情意や共同主観性からも、かけ離れたものであればある程に、自己の社会的な意識から抑圧されて、外的発話として外在化することが困難になるのである。

このような自己の内なるものが、或特定の状況において、社会的な外的発話の構造がもつルールから解放されて、外在化へ、すなわち、外的発話の中へと入りゆく瞬間の言語を、「リミナルな言語」と、本文において述べたのである。なお、この「リミナル」とは、V・W・ターナー(Victer W. Turner)氏の言う「リミナリティ」(liminality)からの転用である。また、この転用については、ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン )氏が、「その抑圧された内的発話が、ある特定の状況のもとで、それらの外的発話の階層関係と禁止から解放するものとして、カーニバルに逢着する。その特定の状況をカーニバル、その時の言語をカーニバル言語と呼んでいる」ことによるのもので、さらには、永田靖氏が、手品師、曲芸師、梅毒患者等の「バフチンのカーニバルの個々の形象」について、「『リミナリティ』に属する人々である」と述べていることからのものである(c)

さて、リミナルな言語は、上述の如く、本来的に社会的規範や共通意識等の基盤の上に存在する、外的発話ではあり得ない、言い換えれば、言語表象的合法性から外れた「異質なもの」であるが、或特定の状況、つまりは、非日常的状況にあって、外在化され得るのである。しかしそれでもなお、リミナルな言語の本性として、例えば、他の言葉に置き換えることも、他の表現を以て表わされることも、さらには、日常的な意味世界の中に翻訳してその事柄を捉えることも、おそらく不可能であり、その言葉そのもので在る以外には外在しようがない、その言葉そのものなのである。「リミナルな言語が言語そのものとして生きる」と本文において述べたのは、こうした言語の在り方を指してのことである。

(a)ただし、そうした中においても、例えば、他の人間の言葉を引用して何かを述べる時、そして、それが明確な引用ではなく、引用であることを隠してる引用、意識せずに行っている引用、故意に、あるいは、意識せずに、歪曲した引用、原意を変えた引用等が為される場合には、他人と自分の言葉や言説が、入り組み、曖昧にされ、歪められながら、動いて、発話はされているのであるが、主体の所在は、確定することができないものとなる。
(b) 永田靖「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。浜口稔「意識と言語幻想 新言語起源論経向けて」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。ジュリア・クリステヴァ「『詩的言語』の主体」(『現代思想 総特集=フッサール 現象学運動の展開」、vol. 6−13、青土社)。ジュリア・クリステヴァ「音と意味のリズム マラルメにおける詩的言語の革命」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。
(C) ミハイール・バフチーン/川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』(せりか書房、 1974年)。永田、前掲「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」、171頁(下段)〜172頁(上段)。番場俊「声の出来事 ミハイル・バフチン再読2」(『現代思想 特集・宗教の行方』vol. 23−10〔1995.10〕、青土社)。
註(133) 浅野順一『旧約聖書を語る』(NHKブックス、昭和54年)、及び、浅野順一『モーセ』(岩波新書、1977年)。
註(134) 浅野、前掲『旧約聖書を語る』、20頁、及び、136頁。
註(135) R・ボーレン/加藤常昭訳『説教学I』、(日本基督教出版局、1977年)、「第四章 聖霊」及び「第十九章 説教としるし」。
註(136) 鎌田、前掲『記号と言霊』、22頁。
註(137) 高橋紳吾「ことばの感染力、ことばの治療力」(『仏教 特集=癒し』no. 31、法藏館)。
註(138) 高橋、前掲「ことばの感染力、ことばの治療力」、176頁。
註(139) 中野隆元『説教講演の方法』(佛教年鑑社、昭和8年)、18〜19頁、及び、37頁。
註(140) R・ボーレン/加藤常昭訳『説教学II』、(日本基督教出版局、1978年)、308頁。
註(141) 藤井先生、前掲「新宗教の法座」。
註(142) 藤井先生、前掲「新宗教の法座」、145頁(上段)。

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III 交感の宗教性
2.〈節談説教〉のことば(二)

註(143) 前節においては、主に、音声言語としての記号体系や発話の社会的な構造の中での、「〈節談説教〉のことば」をみてきた。この第二節では、主として、儀礼の時間・空間における段階的な「〈節談説教〉のことば」の在り方を、みてゆきたいと思う。
註(144) 本文を通して、祖父江省念師の定例会についてのみを述べている為に、省念師の説教者としての巡回性がはっきり示される箇所が、「省念師の説教の資料」における師の言説だけとなってしまっている。そこで、その巡回性を示す一例として、古いものではあるが、1992年の8月、9月の省念師の節談説教による布教活動の主なものを、以下に挙げる。
    八月二日 有隣寺(定例)
    八月三日 カニ工新田 山田せん八氏宅
    八月四日 中区新栄 同心会館
    八月七日 一色町 三八屋
    八月十二日 名古屋東別院
    八月十六日 有隣寺(定例)
    八月二十三日 飛鳥町 誓願寺
    八月二十四日 一宮市千秋 最恩寺
    八月三十日 佐屋町 随行寺
    九月二日 岩倉市大地新町 正起寺
    九月三日 中島詰所
    九月四日 中区新栄 同心会館
    九月六日 有隣寺(定例)
    九月七日 一色町 三八屋
    九月二十日 有隣寺(定例)

なお、バーバラ・ワード=ファーマー氏の巡回性については、彼女が来日していることも含めて、バプティスト教会系の伝道師の奉仕の在り方、あるいは、制度として、巡回することが自明のことであると思われるので、ここで述べることをしない。

註(145) 儀礼とは、通常、行為ばかりでなく、事物や施設を含むものである。この論文では触れないが、その施設について、つまり、寺院や教会の建築様式等にも、民衆との係わりにおける意味が見い出されるであろう。

例えば、鎌倉時代の建築物である、兵庫淨土寺淨土堂は、在来の仏教建築では、内陣と外陣との間に天井の構成の差異があったのであるが、ここではその差がなく、天井が貼られずに屋根裏が屋頂迄見えているという。つまり、この空間構成が意味することは、仏と人間の間に差を設けない、ということなのである。また、その外陣の広さは、民衆に対する信仰の場の開放を目的とするものでもあったとされている(山根有三監修『日本美術史』、美術出版社、1977年)。

註(146) ペイドン、前掲『比較宗教学』、140頁。
註(147) ここでは、第一章及び第二章で述べてきた、「同じことを何度も繰り返す」という反復の手法が、説教者の〈語りかけ〉において、重要な一要素となっている。
註(148)  藤本浄彦、「二 救済と解脱 宗教経験としての"生成・摂化"への試論」(『現代哲学 選書・11 宗教の哲学』、北樹出版、1989年)。

藤本浄彦氏は、一方のキリスト教においては、「神と人間という関係の構造の内で『神』→『人間』という方向において成立する在り方に対して、"救済"という概念を与えることができる」と、そして、他方の淨土教においては、「阿弥陀仏と凡夫という構造の内で、阿弥陀仏→凡夫という方向を考えるところに"救済"という概念を与えることができる」と論じている。

註(149) 薗田稔『祭りの現象学』(弘文堂、平成2年)、61頁。
註(150) ハーヴィー・コックス『民衆宗教の時代 キリスト教神学の今日的展開』(新教出版社、1978年)、222頁。
Harvey Cox, The Seduction Of The Spirit: The Use and Misuse of People's Religion (New York: A Touchstone Books, Simon and Schuster, Inc., 1973), p. 158.
Most people have always secretly longed for a chance to sing the "Hallelujah" chorus, booming out the bass or soprano with full fortissimo. But in our spectator-performer style churches they have mostly had to bite their lips and listen.
註(151) 不随意の身体言語とは、発汗、発熱、呼吸、脈拍、排泄、めまい等の、それぞれに独自の情報内容を持つ一種の表現言語のことである。浜口稔氏によれば、以下のように説明される(浜口稔「意識と言語幻想 新言語起源へ向けて」〔『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社〕)。
不随意の身体言語は、多義性もなく、代替表現も持たず、手の込んだパラドックスを孕むこともなく、不随意であるがゆえに、当の生活体に予期せぬ苦痛を与えたり、不意に不快にしたり、唐突に愉悦感に浸らせたり、ときには卒倒させたりする。つまりは、生活体を躊躇なく各々の症状に特有の行動に駆り立てる一種の一義的命令言語であり、個々に独自のアクセントを有して環境処理を行い、首尾よく適応へと直結する、脳の神経生理的メタファーである。
註(152) 発話については、前節の註(132)で述べた。
註(153) ミハイール・バフチーン/川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』(せりか書房、1974年)、16頁。
註(154) V・W・ターナー/富倉光雄訳『儀礼の過程』(新思索社、1976年)、192頁。
註(155) この呼応は、実に多方向に向かうものである。 [双方向矢印の記号] という矢印を呼応関係が成立していることを示すものとして、この論文で扱う二つの〈節談説教〉について、大まかに共通する組み合わせを表記すると、超越的人格 説教者、超越的人格 聴衆、超越的人格 説教者と聴衆、説教者 聴衆、聴衆 聴衆という、五通りが少なくともある。なお、バーバラ氏の伝道においては、サンダース従軍牧師や、さらに、楽団もリード・シンガーも存在するので、当然のことながら、その時々で組み合わせが替わり、一層多くの方向性がみられる。
註(156) 八木誠一「神を知るということ」(『仏教 特集=宗教体験を見直す』no. 3〔1988.4〕、法藏館)、80頁。
註(157) バフチーン前掲『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』、320頁。
註(158) 永田靖「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」(『ユリイカ  特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)、166頁。

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III 交感の宗教性
3.交感の中心とその周縁

註(159) フイリップ・ペティット/浜日出夫訳「生活世界と役割理論」(『現代思想』臨時増刊号〔第六巻第十三号〕、1978年)127頁における引用文。
註(160) ジョージ・スタイナー/喜志哲雄・蜂谷昭雄訳『悲劇の死』(筑摩叢書256、1979年)、241頁。
註(161) J.M.インガー/金井新二訳『宗教社会学 宗教と個人』(ヨルダン社、1994年)、72頁。
註(162) ニクラス・ルーマンは、「新しい神話というものは、せいぜい一つの目的の案出であり、場合によっては流行品であり、グループを形成し、コンタクトを見出し、独立化を突き破る一つの手段であろう。あるいは権利と義務、地位と裕福さ、政治的影響力と経済能力に関する、あらゆる既成の機能的分化に対する、一つの新しい分化であろう」と、述べている(ニクラス・ルーマン/土方昭・土方透訳『宗教論 現代社会における宗教の可能性』〔叢書・ウニベルシタス470、法政大学、1994年〕77頁)。
註(163) 信念には、様々なレベルがある。金児暁嗣氏によれば(大村英昭・金児暁嗣・佐々木正典『ポスト・モダンの親鸞 真宗信仰と民俗信仰のあいだ』、同朋舎、1990年)、個人の信念体系を構成している信念の数は、人によってまちまちであるが、それぞれの信念の重要性を決定する場合に、基底信念というものがあり、それは、D・J・ベム(D. J. Bem)氏が「0次の信念」と呼び、また、M・ロキーチ(M. Rokeach)氏が「原信念」と呼ぶものであるという。それについて、金児暁嗣氏は、以下のように述べている。
このように問い重ねていくと、あらゆる信念の信憑性の置き所は、個々人の内的な感覚経験かある外的権威のどちらか、あるいはその双方にあることを見い出すにちがいない。逆に言えば、多くの信念は、こうした基底信念から派生してくるものとみなせる。〔中略〕われわれの感覚経験の妥当性を信じることが最も重要な基底信念であって、この種の信念が「0次の信念」とよばれる所以である。それは、他の信念が形成される意識下の公理といって差し支えなかろう。われわれの感覚の信頼性に関してわれわれは0次の信念を有しているがゆえに、直接経験から派生する信念は正当性をもちうるのである。
註(164) 八木、前掲「神を知るということ」、76頁。
註(165) 井門富二夫編著「第一章 現代社会と宗教」(『講座宗教学 第三巻』、東大出版会)73頁。              

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修士論文 交感の宗教性 - 節談説教について 参考文献リスト


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福永静哉 [Fukunaga, Seiya]『浄土真宗伝承音の研究 室町時代音韻資料として』、風間書房、昭和38年。
福間光超 [Fukuma, Kocho]「近世後期真宗の世俗論理について」、『龍谷大学論集』第429号。
藤井知昭 [Fujii, Tomoaki] 監修・鈴木道子 [Suzuki, Michiko] 責任編集『語りと音楽 民族音楽叢書3』、東京書籍、1990年。
藤井正雄 [Fujii, Masao]「新宗教の法座」、『日本学』No.9(1987年6月)、名著刊行会。
藤井正雄代表・仏教法話大事典刊行会編『仏教法話大事典』、名著出版、昭和58年。
藤井正雄編『仏教儀礼辞典』、東京堂出版、昭和52年。
藤本浄彦 [Fujimoto, Kiyohiko]「二 救済と解脱 宗教経験としての"生成・摂化"への試論」、『現代哲学 選書・11 宗教の哲学』、北樹出版、1989年。
ウィリアム・E・ペイドン(Paden, William E.)/阿部美哉訳『比較宗教学』、東大出版会、1993年。
フィリップ・ペティット(Pettit, Philip)/浜日出夫訳「生活世界と役割理論」、『現代思想 総特集=フッサール 現象学運動の展開」、vol. 6−13、青土社。
A・ヘロン(Heron, Alasdair)/関川泰寛訳『聖霊 旧約聖書から現代神学まで』、ヨルダン社、1991年。
G・S・ヘンドリー(Hendry, George S.)/栗田英昭訳『聖霊論』、一麦出版社、1996年。
星野元豊 [Hoshino, Genpo]・石田充之 [Ishida, Mitsuyuki]・家永三郎 [Ienaga, Saburo] 校注『親鸞 原典 日本仏教の思想6』、岩波書店、1990年。
R・ボーレン(Bohren, Rudolf)/加藤常昭訳『説教学 I』、日本基督教出版局、1977年。
R・ボーレン(Bohren, Rudolf)/加藤常昭訳『説教学 II』、日本基督教出版局、1978年。
松永伍一 [Matsunaga, Goichi]「歌謡の風刺と情念」、『国文学解釈と鑑賞 特集 日本の歌謡 起こりから演歌まで』。
マーティン・E・マーティー(Marty, Martin E.)/三宅威仁訳『アメリカ教会の現実と使命』、新教出版社、1990年。[マーティン・E・マーティー博士 (Dr. Martin E. Marty) のホームページ www.illuminos.com URL: http://illuminos.com/]
W・マーネル(Marnell, William H.)/野村文子訳『信教の自由とアメリカ』、新教出版社、1987年。
Maharishi Mahesh Yogi, Science of Being and Art of Living (New York:Nal Penguin Inc., 1968).
Mays, Benjamin E., The Negro's God :As Reflected in His Literature (New York: Russell & Russell, A Division of Atheneum House, Inc., 1968).
神子上憲了 [Mikogami, Kenryo]『現代説教の真髄』、顕道書院、1929年。
皆河宗一 [Minagawa, Soichi]『アメリカ・フォークソングの世界』、民俗民芸双書、岩崎美術社、1971年。
室木弥太郎 [Muroki, Yataro]『増訂 語り物(舞・説教・古浄瑠璃)の研究』、風間書房、昭和45年。
室木弥太郎『説教集 新潮日本古典集成』、新潮社、昭和52年。
森竜吉 [Mori, Ryukichi]「日本仏教とカリスマ 親鸞・道元・日蓮」、『現代宗教 1 特集・カリスマ』、春秋社。
森島牧人 [Morishima, Makito]『バプテスト派形成の歴史神学的意味』、燦葉出版社、1995年。
Mol, Hans, Identity and the Sacred:A Sketch for a New Social-Scientific Theory of Religion (Oxford:Blackwell, 1976).
八木誠一 [Yagi, Seiichi]「神を知るということ」、『仏教 特集=宗教体験を見直す』no.3(1988.4)、法藏館。
八木誠一、「親鸞における『信の根拠』をめぐって」、『仏教 特集=親鸞』別冊1、法藏館、1988年。
柳生望 [Yagiu, Nozomu]『アメリカ・ピューリタン研究』、日本基督教団出版局、1981年。
柳宗悦 [Yanagi, Muneyoshi]『私版本 柳宗悦集 第一巻 美の法門』、春秋社、昭和48年。
柳宗悦『保存版 柳宗悦宗教選集 第三巻 南無阿弥陀仏・一遍上人』、春秋社、1990年。
柳澤桂子 [Yanagisawa, Keiko]「こころの『安らぎ』と生命科学」、『仏教 特集=癒し』no.31(1995.4)、法藏館。
Yarborough, Slayden A., “The Ecclesiastical Development in Theory and Practice of John Robinson and Henry Jacob," Perspective in Religious Studies, V (Fall, 1988).
山川直治 [Yamakawa, Naoharu]『邦楽の世界』、講談社、1991年。
山川直治編『日本音楽の流れ 日本音楽叢書九』、音楽之友社、1990年。
山口光円 [Yamaguchi, Koen]「新出草案集と安居院流学派」、『仏教文化研究』第七集、昭和37年三月 [『佛教文化研究』第5号、昭和31年11月]。
山ノ井大治 [Yamanoi, Daiji (Taiji)]「宗教的リーダーシップの研究 方法論序説」、『天台學報』第十號(昭和42年)、天台宗教學大會記念號、天台學會。
山本光璋 [Yamamoto, Mitsuaki]「生命のリズムとゆらぎ」、『言語』no.11(1993.11)、大修館書店。
養老孟司 [Yoro, Takeshi]「宗教体験と脳」、『仏教 特集=宗教体験を見直す』、no.3(1988.4)、法藏館。
吉川正二 [Yoshikawa, Shoji]「親鸞の教化的姿勢」、『甲南女子大学研究紀要』創立十周年記念号(昭和50年)、甲南女子大学。
吉原浩人 [Yoshihara, Hiroto]「絵解きと『場』」、『絵解き研究』第5号(昭和62年)、絵解き研究会。
吉村貞司 [Yoshimura, Teiji]『日本美の特質』、鹿島出版社、昭和42年。
Lincoln, C. Eric, “The Development of Black Religion in America," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973).
ニクラス・ルーマン(Luhmann, Niklas)/土方昭・土方透訳『宗教論 現代社会における宗教の可能性』、叢書・ウニベルシタス470、法政大学、1994年。
H・ホイーラー・ロビンソン(Robinson, Henry Wheeler)/高野進訳『バプテストの本質』、ヨルダン社、1985年。
脇本平也 [Wakimoto, Tsuneya]「カリスマ論の諸局面」、『現代宗教 1 特集・カリスマ』、春秋社。
渡邊昭五 [Watanabe, Shogo]・福田晃 [Fukuda, Akira] 編『伝承文学の視界 歌謡・説話・絵解をめぐる』、三弥井選書、昭和59年。
Whalum, Wendel Phillps, “Black Hymnody," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973).
ワイヤット・T・ウォーカー(Walker, Wyatt Tee)『だれかが私の名を呼んでいる黒人宗教音楽の社会史』、新教出版社、1991年。

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Audio Video Material A2-1, A2-2, A2-3, A1, A3-3, S1, S2 and S3 :
祖父江省念師

A2-1: 節(抑揚)について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-2: 八歳でした初めてのお説教について (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A2-3: 「儂から佛様をとってまったら何も残らん」 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A1: 人々を導く「説教師」になると、はっきりと決意された時のお気持ち (.mov, .rm, .aif, .mp3)
A3-3: 美声、話術、そして、節まわしについて (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S1: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 雪の中の石枕 (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S2: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 我が子善鸞に面会許さず (.mov, .rm, .aif, .mp3)
S3: 節談説教『親鸞聖人伝』から - 山伏弁圓 変わりはてたる我が心かな (.mov, .rm, .aif, .mp3)
U: 補足音声資料 U「受け念仏」の例 - 「受け念仏」の例として、30秒弱の非常に短い音声資料 (.aif, .mp3)

Audio Material G4-1, G4-2, G4-3, G1-1, G1-2, G1-3, M2 and M3 :
バーバラ・ワード=ファーマー牧師

G4-1: 聖書に初めて音楽のことが言及されたのは -「創世記」第31章第26節から27節 (.aif, .mp3)
G4-2: 宗教的文脈において言及されたのは -「出エジプト記」第15章第1節から2節 (.aif, .mp3)
G4-3: 歌うということは、神とコミュニケートする行為であった - ダビデによる「詩篇」 (.aif, .mp3)
G1-1: 「黒人経験」 (.aif, .mp3)
G1-2: これ〔音楽〕は神のものである (.aif, .mp3)
G1-3: ゴスペル音楽の父 (.aif, .mp3)
M2: ゴスペル伝道 - 日本人バプティスト派牧師と共に (.aif, .mp3)
M3: "If God Be For Us!" ゴスペル伝道「もし神が共にいてくだされば」 (.aif, .mp3)


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